24
24.土曜日午後7時
隠れ家は、いくつか用意してある。
そのなかには《店員》に知られている場所もあるが、こういう事態も想定し、他人には絶対に知られていない隠れ家も確保してあるのだ。
そのなかの一つ──。
隅田川沿いの廃工場の地下室。もとは印刷機器を製造していたところらしいが、倒産して月日が経っていた。二束三文でここを買い取り、非常時の隠れ家として使用していた。地下室があることを知ったのは、購入してからだった。なんの目的でつくられた空間なのかはわからない。倉庫がわりにしては狭く、工場の一部と考えれば、機能性に乏しい。ちょっとした物置程度の広さだ。本当にそうなのかもしれないし、まったくちがう用途があったのかもしれない。いまとなっては知りようもないことだ。
出入口も一見わかりづらく、室内も密閉されているために、安全度は高い。光源は、蛍光灯が二つ。さして広くもないから、充分な明るさだ。
中央にテーブル。その四方をソファで囲んでいる。粗大ゴミに出されていたものを運んできた。ゴミだったものだが、けっして安物ではない。ソファに座った女が、こちらを見ている。名前は、利根麻衣。本当は最初から知っていたのだが、知らないふりをして名乗らせた。尋問したわけではないが、彼女にしてみたら、答えなければ殺されるとでも思ったのかもしれない。
おれは、素顔ではなかった。
頭からすっぽりとマスクをかぶっている。
銀行強盗がかぶるようなやつだ。眼と鼻と口だけがあいているセンスのかけらもないようなマスク。よくよく考えてみても、このマスクはなんの目的で製造されているのだろう。犯罪絡み以外で、見かけたことがない。自分で用意しておいてなんだが、おれはその疑問に笑いがこみあげてきた。
「……なにがおかしいんですか!?」
張り詰めたような声がした。
「なぜ、そう思った?」
マスクをかぶっているにもかかわらず、彼女は笑ったことに気がついていた。
「わかります……わたしを、殺すつもりですか!?」
「おれは、悪人しか殺さない」
「なぜ、こんなところにつれてきたんですか!? わたしをどうするつもりですか!?」
涙まじりになっていた。
「安心しろ、おれはきみの敵というわけではない」
「……《U》って呼ばれてる殺し屋なんですよね!? 世良さんの眼を潰した……」
「好きな動物はなんだ?」
おれは訊いた。
彼女には、唐突に聞こえたようだ。
「なんのつもりですか!?」
「いいから、好きな動物は?」
「……ネコです」
「わかった。いまからおれのことは、《山猫》と呼んでくれ」
「ネコです……好きなのは。山猫じゃありません」
想定外の反論をうけた。
「ネコじゃ、あまりカッコよくない」
「……殺し屋も、そういうの気にするんですか?」
「そうだ」
意地を張らずに肯定した。
「じゃあ、なんと呼びたい?」
「呼びたくなんてありません……」
「わかった。おれが《U》と呼ばれてるなら、そのまま《ユウ》でいい」
「わかりました……ユウさん」
「けっこうだ。じゃあ、利根麻衣さん。率直に質問しよう」
「……はい」
「きみは、おれの顔をどこまで覚えてる?」
「……」
「警察には、なんと言った?」
「同じアパートに住んでいる人だと……鈴木さんだと……」
「人相は、どういうふうに?」
「ですから、鈴木さんだと……」
「だから、その鈴木は、どんな容姿をしていると伝えたんだ?」
「鈴木さんとしか……」
それはつまり、おれの特徴を表現できないということだ。
安堵した。
「似顔絵は?」
「警察の人が描こうとしましたけど、わたしの説明が悪かったんだと思います」
見ればわかるが、見なければわからない──そういうところだろう。
癖を消し、存在感を無くす。つねに、普通。
どこにでもいる、どこにでもある存在。
そう自分を形づくってきた。
それが実践できたからこそ、いままで生きてこれた。存在を察知されれば、早死にしか待っていない。人ごみのなかでは擬態し、闇には溶け込む──その隠密が《U》と呼ばれるおれの生命線だ。
「今後、おれの顔を思い出すのはやめることだ。おたがい、いいことはない」
彼女は、おびえをふくんでうなずいた。
「……わかりました」
「では、質問を変えよう。きみの実家は、茨城県にあるね?」
「はい……でも、どうしてそれを?」
「そんなことはいい。話を続けるぞ」
「……」
「小さいころ、山のなかに入って遊んだことは?」
「……うちじゃないです。それは、おばあちゃんの家です……ゴールデンウィークとか夏休みには、よく泊まりに行ってました」
「そこで、なにか変わったものを見たことは?」
「変わったもの……?」
* * *
変わったものとは、なんだろう?
麻衣は、現実味をなくしていた。
いまはまるで夢のなかのようだ。殺し屋に拉致され、どこかもわからない場所に連れ込まれている。はたして自分は、ここから生きて出られるのだろうか……。
「いつもとはちがったもの」
彼が、こちらをみつめている。
マスクから覗く瞳には、身体を金縛りにしてしまう効果があるのだ……きっと。拘束されているわけでもないのに、逃げようとする気力もわかなければ、いつしか危険を感じる心も麻痺していた。
殺し屋……なんて、非現実な存在なのだろう。
いまのこれは……ここ数日の出来事は、ただの悪い夢だ。
そうだ。そうなのだ。これは、夢なのだ。
夢……!?
「どうかしたのか?」
殺し屋に問われた。いまは、ユウと呼ばなければならないのだ。
ユウは、少しの変化も見逃してくれないようだ。
「なにか思い出したのか?」
「いいえ……」
「では、なんだ? なにを考えた?」
それを言わなければ、許してくれそうになかった。
観念して、麻衣は白状した。
「夢の話です……」
「夢?」
「夢のなかの出来事です……」
「どんな夢だ?」
「おばあちゃんの家です。遊びに行ったときは、よく山のなかに入りました。本当はいけないことだから、みつかって怒られたこともありました……」
それは夢ではない。夢の話をしなければならないのに……。
麻衣は、もどかしくなった。
「ここからが夢です。やっぱり山で遊んでるんです……でも、なにかをみつけてしまった」
「なにを?」
「だれかがいたんです……」
「それは、だれだ?」
「わかりません」
「なにをやっていた?」
「わかりません……いえ、なにか地面を」
「掘っていたのか?」
「よくわからないんです……夢だとはわかってるんですけど、いつも同じ光景です。そこからさきは、話が進まない。なにをやっているのか確認できたことはありません」
自分でも、とりとめのない話だと感じていた。
「それは本当に、夢なのか?」
「夢です」
「実際にあった出来事ではないのか?」
「わかりません。そうかもしれない……」
麻衣自身、そう思ったこともある。
「なぜ、そんなことを訊くんですか?」
「質問してるのは、こっちだ」
「ずるいです……」
声にしてしまってから、恐怖が襲ってきた。
「どうして、ずるいんだ?」
「だって……」
続きを言えるわけがない。相手は、人殺しなのだ。
「怒ったりはしない。言ってみろ」
「わたしは、なにもわからずに、こんなところにつれてこられたんです……わたしにも、知る権利があります!」
「なるほど、予想よりも威勢のいいお嬢さんのようだ」
バカにされたと思った。
「そんなこわい顔をするな。わかった、きみの聞きたいことを教えてやろう」
いざそう言われると、逆に困ってしまう。
知りたいことがありすぎて、なにを質問すればいいものか……。
「本当に……殺し屋さん、なんですか!?」
麻衣は自分でも、間抜けだな、と呆れた。よりによって、一番はじめにそれを訊いてしまうなんて。
「映画とかマンガに出てくるような殺し屋じゃないことは、たしかだ。悪の組織を倒してるわけでもないし、それとは真逆、正義の味方に敵対しているわけでもない。まあ、警察が正義の味方なら、そういうことになるかもしれないが」
警察が正義の味方──というくだりが、妙に強調されていた。相当な皮肉が込められていることがわかる。
「金のためなら……な、なんでもするんですか?」
「そう思ってもらっていい」
「でも……いい人は殺さないんですよね?」
「ちがう。悪人しか殺さないんだ」
それは、同じことではないのか。
「基本、金のためなら、だれでも殺すよ」
「……」
本来なら恐ろしいセリフのはずなのに、麻衣は不思議と恐怖を感じなかった。
「いまは、だれの依頼をうけてるんですか?」
「マンガで読んだことないか? その質問は、ルール違反だ」
「マンガとはちがうんでしたよね?」
「同じこともある。依頼人の秘密は明かさない。探偵だって、そうだろ?」
探偵という言葉に、あの盲目の探偵──世良の顔が浮かんだ。
「世良さんの眼を潰したんですよね?」
「仕事の内容も、話せない。たとえ、過去の出来事でもね。……いや、まあそれはいいか。むこうが、そう言ってたんだろ? そうだよ。彼の光を奪ったのは、おれだ」
「……わたしの光も奪うんですか?」
勇気をもって、そうたずねた。
「きみが、おれの顔を覚えていれば」
「……」
「だが、交換条件がある」
「交換条件?」
「そう。だから、きみに思い出してもらいたいんだ」
「なにをですか?」
「夢の続きだよ。思い出すことができたら、たとえおれの顔を鮮明に覚えていたとしても、絶対に殺さないし、瞳も潰さない」
「夢の続きに、なにがあるんですか?」
「場所を思い出してもらいたい」
「場所?」
「夢に出てくる場所だよ」
「だから、おばあちゃんの家の山……」
「正確には?」
「そ、そんなこと言われても……」
夢は夢だ。そもそも、本当におばあちゃんの家の近くなのかもわからない。まったくの空想の世界ということもありうるはずだ。夢なのだから。
と──。
「どうしたんですか?」
ユウの様子がおかしい。
天井を見上げ、表情が固まっている。いや、マスクのために実際は見えないのだが、そう感じた。
「なぜ、わかった?」
そうつぶやいた。
麻衣に向けられたものではない。
「そうか」
すると、ユウが身体に触れてきた。
「え?」
「動くな」
殺し屋の手が、首筋をさぐる。
「ここだ」
「どうしたんですか?」
「ここに出血の痕がある。発信機を埋め込まれたんだ」
意味がわからなかった。
「さっき、首を絞められたろう。おれが撃ったとき、きみを殺そうとした男は、咄嗟に発信機を首筋に埋め込んだ」
「そ、そんな……」
ユウは、右のうなじあたりを触っている。
「な、なんのために……」
「仲間に知らせるためだ」
「わたしを狙ってるのは、あなたじゃなかったんですか!?」
たしかに、彼は助けてくれた。そうだ、さきほどのことを忘れてしまうなんて……。
麻衣は、急に現実味を取り戻した。
(わたしは、狙われていた……それをユウに助けられたんだ……)
信じられないことだが、そのことを忘れていた。あまりにも信じられないことだったから……。
「わたしを狙ってるのは、だれなんですか!?」
「おれにもよくわからない。いまは、生き残ることだけを考えるんだ」
殺し屋に、生きる希望をあたえられたようだった。




