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22.土曜日午後3時
助けたわけではない……。
おれは、自分にそう言い聞かせている。
川崎と昨日殺した男を思い出したとき、おれは、べつの人間が動くことを悟ったのだ。
だから、《店員》の動向をさぐった。彼は、電話を使わない。店にだれかが出向くか、彼のほうからおもむくか、だ。
予想は当たった。
彼は店をあとにした。二四時間営業のはずが、電気を消し、シャッターを閉めていた。もう店にはもどらないつもりなのだ。
昼の時間帯は、ほかの店員もいたはずだが、むろん真っ当な世界の住人であり、突然、閉店の話をされたのだろう。
《店員》は、新宿のサウナで何者かと待ち合わせをした。傍目にはわからないよう、見知らぬ客と客をよそおっていた。
相手は見たことのない男だった。背中に鯉の刺青を入れていた。そのスジの者でも客としてむかえいれるサウナのようだ。
刺青の人物は《店員》から、なにかしらの指示をうけたようだ。会話までは、さすがにわからない。姿を溶け込ますことに細心の注意をはらっていた。
昼下がりの店内は土曜とはいえ、まばらにしか客はいない。場所柄、やはり夜に混雑するのだろう。完璧に擬態をするには少し人の姿はたりないが、それでもまったくいないわけではない。なんとか彼の眼をあざむいていた。
《店員》は、おれのことを切り捨てようとしている。こちらからの反撃も予想していよう。彼は、なにか重要なことを隠している。
秘密を。
つきあいは、もう十年以上になる。それが、こうして敵対しようとしていることに、軽い驚きがあった。あくまでも軽い。この世界では、さしてめずらしくはないのだ。
信用できるものは、なにもない。
ときには自分自身すら、裏切りの対象となるときもある。
《店員》と刺青は、すぐにサウナをあとにした。
おれは、刺青のほうを尾行した。
ここで逃すと、《店員》とは二度と会うことがないかもしれない。おれ自身の安全を考えれば、始末したほうがよかった。だが、敵と決まったわけでもない。それに、長年の情もある。
いけない。そんなものに流されては……。
刺青が、すぐに仕事をするつもりなのがわかった。ピリピリとした静電気にも似た感触が、空気を伝ってくる。
だが、この男では殺せないことも予感していた。
刺青は、とあるコインパーキングに足を運んだ。路地のさなかにある、日中でもひっそりとしている場所だ。新宿という立地を考えれば、とても人通りは少ない。
刺青は、そこに停まっていたグレーの車に乗り込んだ。
確信した。男は、逃走の手助けをする役目だ。
おれは、刺青を追った。大都会の路地には、都合よく自転車の一台は置いてあるものだ。おれは鍵を壊して、自転車を拝借した。
グレーの車は、すぐに停まった。
あるホテルの前だった。
運転席から、刺青がホテルの出入口を眺めている。そのとき、ホテルへ入っていく人物が一人。その人物は、雑誌を手にしていた。下世話な週刊誌だった。その表紙を、あえて眼に映るように持っている。
それは合図だ。一瞬だが、雑誌の人物と刺青が視線を合わせたのが見て取れた。
まちがいない。
おたがいが、はじめて顔を合わせた瞬間であり、おたがいを仲間だと認識した瞬間でもある。
実行犯と逃走役。
仕事が成功し、明日、偶然街で出会ったとしても、見知らぬ他人だ。
おれは、ホテルへ入った雑誌の人物をトレースしていく。
一目見て、殺し屋の人となりが理解できる。
会社員のようなスーツ姿だが、その会社が特殊なところだということは、布切れだけでは隠せない。
暴力団のような裏社会ではない。
裏は裏だが、《おおやけ》だ。
事態が、おかしな方向へ動いていることを知った。
エレベーターで十階へ。
同じエレベーターに乗っても、相手は気づかない。これからの処置と、逃走経路の確認で頭がいっぱいなのだ。
プロだが、プロフェッショナルではない。
おれは、十一階のボタンを押していた。
十階で雑誌の人物が降りると、そのまま十一階へ。十一階からは、階段で十階に。
雑誌の人物(すでに雑誌はどこかに手放していたが)を再び見かけたとき、彼はある部屋の前にいた男性を仕留めた直後だった。
素手だった。相手は、おそらく護衛役。ということは、警察官のはずだ。それを武器も使用することなく、首の骨を砕いていた。
雑誌の襲撃者は、護衛の守っていた部屋をノックする。あの部屋にだれがいるのか、おれは予感していた。目撃者だ。あの女が匿われているのだ。
扉が開いた。襲撃者は、警察手帳を出したようだ。
だが、そのすぐあとに、物騒なものを取り出した。ジャケットの裏地に仕込んでいたのだろう。チェーンカッターだった。このホテルの扉にはドアチェーンではなく、ドアガードが設置されていると思う。だが鎖でなくても、ある程度の金属なら破壊できる。
なんなく襲撃者は、部屋に侵入した。
あの襲撃者に、女を殺させるわけにはいかない。
《店員》に秘密があるように、おれにだって秘密がある。
おれが、あのアパートを選んだのは、土田太一という男を殺すためではない。
《店員》をあざむくための隠れ蓑だった。
彼女には、ある場所をみつけてもらわなければならないのだ。
おれは、部屋へ駆けた。
倒れている護衛の懐から、拳銃を抜き出した。『SIG』の刻印があるから、シグ・ザウエル社のP230だと思われる。警察で採用されているのは、三二口径バージョンのはずだ。
部屋の奥を見た。襲撃者が、彼女の首を絞めているところだった。
32ACP弾仕様の装弾数は、八発+一発。銃の重さからすると、全弾入っている。
おれは、銃をかまえた。
入り口から部屋の奥までは、七、八メートル。普段、銃を使わないおれでも、はずすことはない。
背中から襲撃者の心臓を撃ち抜いた。
襲撃者が絶命すると、彼女は荒く息を吐き出して、死の縁から生還した。銃は、おれの趣味ではなかったが、使わなければ、彼女はこの世に帰ってこられなかった。
銃声は、当然のこと消せなかった。すぐに人が駆けつけてくる。
迷っている猶予はなかった。
近づいて、彼女の手を取った。まだ呼吸は苦しげだったが、かまわずに立たせた。腰に腕をまわして、移動をはじめた。
部屋の扉は、開きっぱなしだった。護衛の死体が邪魔になって、閉じないようになっていたのだ。入るときもそうなっていたはずだが、緊迫した状況では気に留めていられなかった。
そこではじめて、おれ自身に余裕がなかったことを知った。
彼女は、無言のままついてくる。拒否の意を示したとしても、強引につれていくつもりだったが。
廊下に出た。
となりの部屋から人が出ているのを、視界のすみで確認した。横顔を見られるまえに、背を向けた。彼女の顔は見られたかもしれないが、それで彼女に害がおよぶことはない。
おれは、通路を進んだ。進みながら、逃走経路を頭のなかで組み立てていた。ホテルのロビーで一瞬だけだが、館内図を眼にしていた。か細い記憶を頼りに、ルートを割り出す。
廊下のつきあたりに非常口があった。開けたそこには、外階段。彼女の手を引いたまま降りていく。まるで紙人形のように軽く、風に吹かれるまま彼女はついてきた。瞳から意思は消失していた。恐怖もなくなっていよう。
おれにとって、それはとても都合のいい状況だった。
外階段からホテルの正面へ出ようとした。
すぐに立ち止まった。あの男がいた。一人でホテルまで歩いてきたのか……しかも、かなりの早足。
眼を潰した《おおやけ》──世良だ。
ここで動き出すと、足音を聞かれる可能性がある。世良がホテルのなかに入るのを眼で確認してから、おれは逃走を再開した。このまま徒歩で遠ざかろうとしたのだが、考えをすぐにあらためた。
危険な賭だが、ホテル前にいまでも停まっているグレーの車に近づいた。
運転席にいる刺青は、まだホテル内の騒動に気づいていないようだった。そうでなければ、予定どおりに襲撃者がターゲットを始末したとしか。
おれは道路に出て、運転席の窓を叩いた。
何事か、という顔をして、刺青がウインドウをさげた。至近距離から顎に一撃を入れて、瞬間で刺青の意識を飛ばした。おれの顔を見るまえに、いい夢に沈んだはずだ。
実行犯以外の人間に窓を開けるなど、逃走役としては失格だ。実行犯役もそうだったが、だからプロフェッショナルではないのだ。
歩道でとどまっていた彼女を、後部座席に乗せた。運転席にだらしなく居すわっていた刺青を助手席に押し込めると、おれは車を発進させた。
眼を醒ますまえに、刺青には消えてもらった。殺したわけではない。人通りの少ない路上で、外へ蹴飛ばしたのだ。
「さて」
どうにか安全を確保して、おれはようやく現在の状況を分析できる余裕を取り戻した。
《店員》が、彼女を殺そうとした。まさか、おれのためにやったことだとは考えられない。彼女の口を封じなければならない理由が、《店員》にはあったのだ。
「な、なにが……」
後ろから弱々しいつぶやきがもれていた。
おれは、振り返らなかった。
手遅れだとは思ったが、まだ彼女はおれの顔を明確には覚えていないかもしれない。
おれは、想像した。
彼女を救い出したとて、目的をとげたあかつきには、おれ自身、どういう行動をとるのだろう?
彼女を殺すのか。
いや、悪人でない彼女を殺すことはない。
だが……。
そこで、おれは思考を停止させた。
いまは、それを決断する時ではない。
こうなった以上、彼女をこちら側に引き込むしかない。
《おおやけ》の常套手段を使うことにした。
彼女には、協力者になってもらう。




