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遠い声  作者: てんの翔
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       2.金曜日午後9時


 擬態。

 連想するものは、カメレオン、ヒラメ、ナナフシ……。

 爬虫類にも、魚類にも、昆虫にも存在する。両生類では、カエルやサンショウウオの多くが、その性質をもつ。鳥類ではコノハズクが有名であり、木の枝や幹に化ける。

 それらの種より特殊ではないが、哺乳類にも擬態をしているものがいる。トラは一見、目立つように感じるが、色の識別ができない動物にとって、藪のなかでは保護色になる。ヒョウも、サバンナでは背景に溶け込んでしまう。

 そしてなによりも、生物界の頂点に君臨する人間が、最も擬態する生き物だろう。背景に溶け込み、自らの気配をなくす。あとは、相手が罠にかかるのを待つだけだ。

 その男は、何者にもなっていなかった。

 個性を捨て、世界と同化している。

「本当に、よろしいのですか?」

「ああ、車はいらん。このまま寄るところがあるから、社にはもどらない」

 そこは、虎ノ門にあるビルの前だった。男の存在を不審に思うものはいない。

 ビルから出てきた二人も、例外ではないだろう。

「契約がすんでよかったですね。では社長、明日は九時に迎えにまいります」

「わかった」

 社長と呼ばれた男は、秘書らしき人物と別れると、一人、夜道を歩き出した。

 擬態する男も、あとを追う。動きだしても、個性は無い。

 都会の夜道に人影は多い。社長自身も、その人影にまぎれていく。それもまた、擬態か。

 男は、ピタリと社長の背後についた。

 そのまま数十メートル歩きつづける。

 社長は、それに気づかない。まわりの人々も。

 ふと、社長が立ち止まった。

「ん?」

 銀光がきらめいたような気がした。

「あ……」

 その瞳がとらえたものは、夜に舞うなにかだった。

 雨のような……。

 自らの血流──。

「キャアッ!」

 まわりにいた通行人の悲鳴が交錯する。

 なにがおこっているのか!?

 社長は、それすらわからないままに、自分の血を浴びつづける。

 それも、数秒。

「う……う、う」

 力尽きた。

 都会のアスファルトに横たわる一人。

 それを囲むように眺める大勢。

 死ぬことで、社長の擬態は解かれていた。

 社長の首を裂いた本当の擬態の主は、いずこへと消えていた。




       3.9日午前10時


 世良の事務所は、秋葉原にある。電気街や駅のある賑やかな地域ではない。昭和通りを東へ渡ったさきにある、さびれた雑居ビルがそれだ。一階が不動産屋で、二階が事務所。三階には厚生労働省の関連施設が入っているそうだが、なにをやっているところなのか、皆目見当がつかない。噂では、自殺の研究をしているという。

『声をさがします』──それが、世良探偵事務所のキャッチコピーだった。看板にも大きくそう書いてあるはずだ。はずだ……というのは、自分の眼で確かめることができないからだ。

 ここに事務所をかまえて、もう四年ほどになるだろうか。客足は、予想どおり少ない。そもそも、なにをやっているところなのか理解されていないようだ。『三階さん』のことを言っていられない状況かもしれない。

「あ、王海さん、このあいだの刑事さんから、さきほど連絡がありましたよ」

 事務所に到着してから、二十分ほどだろうか。さきに来ていた峰岸が、思い出したように報告した。

「なんだって?」

「あのとき公務執行妨害で逮捕した犯人、やっぱり詐欺グループだったんですって」

 渋谷の騒動から、一週間ほど経っていた。

 本命である誘拐事件の《声》のほうは、結局ダメだった。次の日と、さらに次の日も張り込んでみたが、あの声は聞こえてこなかった。

「そうか」

「で、かなり大がかりな組織だったみたいですよ。長山さん、あのときは乗り気じゃなかったのに、喜んでました。まあ、摘発するのは、捜査二課の仕事になるそうなんですけどね」

「ほかには、なにか言ってた?」

「あ、え~と、例の件の音声を、もう一度聞いてくれないかって」

 それは、世良の実力を長山も認めたということだろう。おそらく、最初は半信半疑だったはずだ。いや、ほとんど信じていなかったのかもしれない。

 一週間前の騒動で、それがくつがえった。

 世良は、机上の電話に手をのばした。

 受話器を取り、ナンバーをプッシュしていく。

「あいかわらず、速いですね」

 峰岸の声が、虫の羽音のように流れていった。

「世良です」

『ああ、世良さん、このあいだは、どうも』

 ありきたりな挨拶のあと、長山は「これから、会えませんか?」と、言ってきた。

「いいですよ」

『鹿浜署まで来てもらえませんか? 車でかまいませんので』

 どこか遠慮がちだった。前回は、むこうのほうからたずねてきたからだろう。しかし、こちらから出向くほうが、むこうにとっての重要度が増したことは、あきらかだ。

「大丈夫です。午後からでいいですか?」

『はい、時間はご自由で結構です』



 峰岸の運転で足立区の鹿浜署についたのは、午後二時を少し過ぎたころだった。

 もともと足立区全域を、千住署、綾瀬署、西新井署、竹の塚署の四つでカバーしていたのだが、犯罪の増加にともない新たに設置されたという。同時に、未解決事件の継続捜査・再捜査を専門とする部署もつくられて、足立区全署の事件が集約されているそうだ。今回の誘拐事件も、綾瀬署の管轄だったものが、この署に移管された経緯がある。

 長山から指示をうけていたのか、すぐに職員が駐車場まで誘導してくれた。警察官なのか事務職なのかは、声だけで判断できない。重要なことでもないから、峰岸にたずねることもしなかった。車を降りて一人で歩きだした世良に、その職員は、あ、と意外そうな声をあげた。

 眼が見えないということまで、教えられていたのだろう。

王海おうみさんは、普通の人と、ほとんど変わりませんから」

 前を歩いている峰岸が、そう解説をしてくれた。彼のおかげで、無用な気づかいをずいぶん減らせている。

「杖とかもいらないんですか?」

「見てのとおりです。だれかが先導してればね。もっとすごいことをしてもらいましょうか?」

 峰岸が突然、立ち止まった。

「入り口まで真っ直ぐです」

 それを耳にすると、世良は、峰岸の意図を悟った。ここは、彼の顔を立ててあげなければならないだろう。

 そのまま歩いた。

 十歩進んだところで、立ち止まる。

「おお」

 そんな感嘆のうめきが、やはり聞こえた。

 靴から伝わる感触で、それが入り口に敷かれている泥落しマットだということは容易にわかる。

 ドアの開く音。

 開ききったドアから、なかに入る。

「すごい! 自動ドアもわかるんですか」

 閉まったドアの向こうで、そんな声が聞こえた。峰岸たちが来るのを待ち、世良は刑事課のあるフロアに通された。

「すみません、わざわざ」

「いえ、気にしないでください」

 長山のほかに刑事らしき気配は、五、六人だろうか。世良は、ソファに腰をおろした。

「では、さっそくなんですが、もう一度、これをよく聞いてください」

 ヘッドホンを渡された。それをつけると、問題の音声が流れてきた。

『娘はあずかった。返してほしければ、五〇〇〇万用意しろ。明日十二時、日比谷公園にもってこい』

 感情を極力消していた。事前に決めた台本どおりに読み上げたような声音だ。

「どうです? やはり渋谷駅前で聞こえてきた声と同じですか?」

「まちがいありません」

「では、こっちも聞いてみてください」

「ん?」

 それは、渋谷駅前の様子が録音されたものだった。以前、聞いたニュース音声。

「こっちで、テレビ局に問い合わせて、これを入手したんです。でも、何度も聞いたんですが、どこにもその声が……」

 長山は言いづらそうに、そこで止めた。

「それはそうでしょう。雑音がいっしょなら、常人には聞こえませんよ、きっと」

 応えたのは、峰岸だった。

「いいえ、科捜研のほうで雑音の処理はしてあるんですが……」

「完全ではないということでしょう。なんでしたら、ぼくのほうで消しておきましょうか?」

「は、はあ……」

 長山が、曖昧に返事をした。峰岸の実力までは信じていないのだろう。

「事件の概要を、もう一度、詳しく教えてもらえますか?」

 世良は言った。長山たちに聞こえないのなら、そのことにふれても時間の無駄だ。

「わかりました。事件が発生したのは、六年前──」

 足立区綾瀬。当時五歳の女の子が誘拐された。名前は、水谷しずく。父親は小さな貿易会社の社長で、資産は一般の家庭よりはあったかもしれないが、身代金を目的にするほど裕福な家庭ではなかった。犯人からの接触は、電話での一度きり。そのときに残されていたテープが、これということになる。

 犯人はそのなかで、五〇〇〇万円の金銭を要求している。しかし指定した日比谷公園に姿をみせることはなく、金も受け取らないまま、二度と連絡してくることはなかった。

 絶望的な状況だが、遺体が発見されたわけではない。まだ希望は残されていた。

「できれば、両親に会いたいのですが」

「捜査のプラスになるのですか?」

「わかりません。ですが、会ってみたい」

 警察官ではない世良を、被害者家族に会わせるべきか否かを、慎重にはかっているようだった。覚悟を決めたように、長山は息を吐いた。

「世良さん、あなたも、かつては警察の人間だった……わかりました。会ってもらいましょう」


        * * *


 公安部に配属されたのは、二五歳のときだった。警備・警務・公安というのが、三大出世コースといわれている。世良は、それにうまく乗ったわけだが、そのなかでも一番エリート色が強いとされる公安という部署は、それほど甘いところではなかった。

 キャリアでもない、当時巡査だった一警察官などは、ただの使い捨ての駒にすぎなかった。異動して早々に、長期の潜入につかされた。通常捜査においては禁止されている行為だが、普通からかけ離れた公安にとってはあたりまえのことだ。

 ある左翼団体への潜入だった。

 約二年間。団体内部のことをスパイし、上へ報告していく日々。命の保証はない。あまりニュースとしては報じられていないかもしれないが、現在でも過激派組織内のウチゲバや、対立グループとの抗争で、死亡者が出ている。自分の正体が知られれば、メンバーが凶行におよぶのは予想ができた。

 約束の任務期間をもうすぐ終えようとしていたころ、ある事件がおこった。

 その左翼団体のリーダーが、殺害された。

 しかも、殺し屋に。

《殺し屋》──その響きは、とてもフィクションめいていて、真実味がない。映画やドラマのなかにしか存在していないかのようだ。だが、殺し屋というものは確実にいる。治安の悪い外国になら、いると想像することも、まだ容易かもしれない。

 この日本にも……いるのだ。

 わかりやすいものでは、暴力団同士の抗争で相手の人間を殺すために雇われたヒットマン。政治家や社会的な有名人が暴漢に襲われるのも、何者かが依頼している可能性が高い。

 だれかが亡くなることで、べつのだれかに利がもたらされている人の死は、十中八九、そのべつのだれかが仕組んでいる。

 だれかが殺されたことによって、なにかの真実が闇に葬られる場合も、どこかのだれかが手をまわしたのだ。

 そこに、殺し屋が絡む。

 殺すことではなく、脅したり、怪我を負わせるだけの依頼も、その範疇にふくまれる。つまり、殺し屋=陰謀者の便利屋、でもあるのだ。それで生計を立てているものを、プロという。世良が潜入していた団体のリーダーは、まさしくプロによって暗殺された。

 その男は、《U》と呼ばれていた。

 UNIDENTIFIED──未確認という意味だ。じつは男ということも、そのときまでは知られていなかった。

 姿を見た者は、いない。すべて殺されているからだ。映画やドラマを通り越して、もはやそのいわくは、少年マンガのような伝説だった。

 唯一、目撃した人間がいる。

 それが、世良だ。

 ヤツに接触して、ただ一人生き残った男。

 本来なら、公安である世良が追うことなどなかったはずだ。だが団体のリーダーを殺されたことにより、世良は《U》を追わなければならなくなった。警察官としてではない。左翼組織のメンバーとしてだ。潜入とは、そういうことなのだ。

 リーダーの仇をとらなくては!

 本部からも、《U》の正体をさぐるよう指令があった。政治犯ではないが、今後ヤツのターゲットがこの国のVIPにむかうかもしれない。そうなれば、殺し屋ではなく、テロリストということになる。いまのうちに正体をつかんでおいて損はない。

 世良は警察官という肩書を隠しながら捜査を続け、やっと《U》を追い詰めることに成功した。

 ヤツの正体を見ることは達成できた。

 が、世良も負傷した。反撃をすることもできなかった。それほどの相手だ。死を覚悟した。

 ヤツは、世良の顔をみつめて言った。

「おれが殺すのは、悪人だけだ」

「金で雇われれば、だれでも殺すんだろ?」

 世良は、強気にそう返した。開き直っていたのかもしれない。

「おまえ、あいつらの仲間じゃないな? 警察か?」

 それには答えなかった。そうだ、と答えれば、瞬く間に殺されてしまう。

「潜入か? 《おおやけ》だな」

 しかしヤツは、世良のことを警官だと決めつけて話をすすめた。ヤツにとって《おおやけ》が、公安の隠語になっているようだ。

 すぐに、とどめを刺すつもりはないようだった。

「だったら知ってるだろうが、あいつらは別組織の人間をリンチで殺している」

 あいつら──とは、殺されたリーダーや仲間のことを指していた。

 それは世良も知っていた。仲間たちが喜々として話しているのを聞いたことがある。世良が潜入する、少しまえの話らしい。

 もちろん、上にも報告をあげている。

 世良が刑事部の人間なら、殺人として捜査がされているだろう。しかし、公安にそういう発想はない。殺人の捜査のために、潜入を台無しにすることはありえないのだ。

「正義の味方のつもりか?」

「おまえは、どうだ? 殺人の事実を知っていても、あいつらを野放しにしていた。おまえは、正義なのか?」

 その指摘に、胸を突かれた。

「おれの顔を見たからには、そのままにはしておけない」

「殺すのか……?」

 不思議と、恐怖感はなかった。

「おれは、悪人しか殺さない」

《U》は、右手の人差し指と中指を立てて、世良の顔に近づけた。

「その眼をもらう。おまえは、おれの顔を見た。だが、その眼がなければ、もうおれを追うことはできない」

 ヤツの指が、両眼をえぐった。

 激痛というよりも、焼けるような熱さを感じた。

 世良の瞳は、それ以来、光を無くした。

 ただ一人の目撃者……しかし眼が見えなければ、もう証明のしようがない。特徴は、言葉で伝えることができる。だが、どんなに眼の形、鼻の造形、口の大きさを語ったとしても、世良自身が完成したモンタージュ写真や似顔絵を確認することはできないのだ。あの顔に仕上がっている保証はどこにもない。

 ヤツの言ったとおりだった。もう追うことはできない。

 盲目では、警察官を続けることも不可能だった。

 ハンディキャップを背負い、一般人となった世良だったが、しかしまだ捜査が終わっていないことに気づかされた。

 視力を失ったかわりに、あるものを手に入れていたのだ。

 空気中に漂う、数千の香り。

 風の動きが、おもしろいようにわかる。

 自分の肌を触れた人の感情まで。

 視覚以外の五感──四感が、恐ろしく研ぎ澄まされていた。

 とくに聴覚は、異常だった。

 この世には、色とりどりの音があふれている。青、赤、黄、緑、白、黒、藍、緋、橙、灰、紫、紅、茶、朱、鴇──。

 そのすべての色を聞き分けられるのではないか。瞳ではなく、鼓膜で色を感じられるようになった。

 人の声にも、個々に色と形がある。だれ一人、同じではない。

 ヤツの声も……。

 世良は、いまでも追っている。あのときの声を。

 絶対に忘れはしない。

 絶対に──。


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