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遠い声  作者: てんの翔
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       1.3日午後2時


 いつも聞こえてくるのは、あの声だった。

 暗い、暗い声……。

 しかし、嘘のように情がこもっていた。

 光を断たれる宣告だったのに、不思議とその声を安らかに聞いていられたのは、それが原因だったのかもしれない。声の奥底にひそんだ、人間らしい心のありようを感じ取ったからだ。

 あの男の顔は忘れない……忘れられない。

 眼の形、瞳の色、鼻、口、すべての造形を正確に言葉で表現することができる。

 だが、もうあの顔を確認することはできない。

 凡庸をよそおっていたが、非情な冷たい容姿──いや、声にこもっていた情と同様に、どこか凍えきっていない、熱の残った顔だちだった。

 凶悪ではない。

 が、顔色一つ変えることなく、人をあやめることのできる相貌。迷わず、急所を刺し貫くことのできる鋭利な眼光──。

「どうです、聞こえますか?」

 それまで、耳で……いや、心で思い出していた声とはちがうものが、ノイズとなって思考を遮断した。

 すぐそばで発せられた声だった。

 ざらざらとした荒れた音。

 色をつけるならば、赤を焦がして黒く煤けさせたような声音。

「いいえ……あの声はありません」

 世良は、短く答えた。

 集音マイクで拾われた街の雑音が、すぐ前にあるであろうスピーカーから流れている。マイクは一つではない。いくつも設置したものが、重なるように聞こえている。

 となりで荒れた声を発した長山は、おそらくヘッドホンをつけて、その集められた音の束を聞いているのだろうが、世良はスピーカーからの小音量で、ある声をさがしていた。

「このどこかに、ヤツはいます」

 ここは、渋谷駅前の繁華街だった。

 ある声の主が、この駅前のどこかにいる可能性がある。

「しかし……、それは二日前のニュースで、ちょっと聞いただけなのでしょう?」

 言いにくそうに、長山が問いかけてくる。

「なにかの呼び込みをやっていました。言葉までは聞き取れませんでしたが、たしかにあの声だった。場所も、渋谷駅前からだと、リポーターが言っていました。まちがいありません。ただし……二日前だけの仕事だった場合には、どうしようもありませんが」

「今日は休みってこともありますよ」

 長山との会話に割って入ったのは、世良の助手兼、機材担当の峰岸だった。このワゴン車のなかの設備も、彼によるものだ。

「なら、明日も来ればいい」

「われわれとしては、一分一秒たりとも無駄にはできんのですがね」

 長山の声には、やはり半信半疑のうねりが混じっている。世良にとっては、相手の感情を読み取るなど造作もないことだった。

「そうやって何年も過ぎ去ったから、私のところに来たのでしょう?」

 世良は皮肉を隠すこともなく、そう言った。

 事件は、六年前に起こった。都内で貿易会社社長の娘が誘拐された。当時五歳。犯人からの要求は、現金五〇〇〇万。しかし、むこうから指定してきた身代金引き渡しの場所に犯人はやって来なかった。その後、犯人からの連絡は途絶え、人質も解放されぬまま、今日にまで至った。金銭目的だけでなく、怨恨の線も視野に入れ、捜査対象者は、この六年で三〇〇〇人にもおよんでいた。が、いまだ犯人には、たどりつけていない。

 少女の安否が絶望視されるなか、警視庁は身代金要求時の犯人の肉声を、遅ればせながら公開した。各局のニュースや、警視庁とタイアップした特別番組のなかで、声は一斉に流れた。

 そして、世良の《耳》にも届いたのだ。

「本庁の桐野さんからの紹介です。あなたの腕を……いや、耳を信用していないわけではないのです。ですが……」

 なにかをふくむように、長山は言った。遠慮がちなのは、いまの皮肉が図星だったからだろう。

 本庁の人間ではなく、足立区の所轄署に勤務していると自己紹介された。『鹿浜署』という聞き慣れない警察署だった。出来てからそれほど年数は経っていないようで、世良が現役のころにはなかった署だ。

 そこの未解決事件を専門にあつかう係に在籍している。本庁における特命捜査対策室と同様の役目を担っているのだろう。所轄署にそのような部門を置くのは、初めてのことではないだろうか。もっとも、世良の知っているころは、本家の特命捜査対策室すら、まだなかったのだが……。

「はは、信じられないのも無理はありませんよ。王海おうみさんの力を信じるということは、超能力を信じることに似ていますからねぇ」

 能天気な声は、峰岸からのものだ。出会ったその日から、下の名前で呼ばれている。

 今年で三六歳になる世良よりは、一回りほど若い。コンビを組むようになってから、もう二年が経過していた。大学卒業後、就職もできずブラブラしていた峰岸を、とある音響研究所の奥村という友人から紹介されたのだ。

 この就職難では、有名大学を出ても職にありつけるとはかぎらない。彼ほどの特異な技能をもっていても、普通の企業においては役に立たない。いや、仮に就職できたとしても、それこそ『宝の持ち腐れ』だ。

 彼の──峰岸の技能とは、音響機材をどんな場所にでも、どんな状況下においても、的確に、そして高い効果を狙ってセッティングできることだ。音の広がり、集束、反響、音質、高低、波状、そのすべてを匠の域まで計算し尽くし、配置できる技術。

 コンサート会場の機材調整や、オーディオ製品の開発にバイトとしてたずさわっていたが、本職にするとなると、それほど需要もない。それに、峰岸ほどのスキルがなくても、それぐらいの仕事は充分できる。先駆者たちも大勢いる。峰岸の技術が、「ムダ」に高すぎるのだ。

 学生時代、音響研究所でも同様のバイトをしていたらしい。そこで、奥村に見出されたのだ。奥村は元科警研の人間で、声紋鑑定のエキスパートだった。科捜研とはちがい、警察庁科学警察研究所は、証拠の分析・鑑定ばかりをやるわけにはいかない。機材の開発や技術研究が、おもな業務となる。畑違いの機材開発に配置換えされたのを境に退職し、民間の研究所を立ち上げた。世良も、『ある証言』で世話になったことがある。そのときからの関係で、奥村が峰岸と引き合わせてくれたのだ。

 優秀な人材を腐らせてはいけない──奥村は熱く語っていた。世良のもとにやることこそが、この若者の天命だと。

「はぁ……、まあ、そういうことですな」

 長山は、峰岸の言うことを認めた。

 峰岸の天才的な技能を活かすことのできる世良王海という人間に、疑念を感じずにはいられないのだ。

 一度、聞いた声は忘れない?

 何千、何万の人間だろうと聞き分けられる……そんな人間離れした能力を信じろというのか!?

 長山の声からは、そういう思考がイヤというほど伝わってくる。

 眼の見えない者のなかには、聴覚が異常に発達している人間もいるという。世良も、そのなかの一人だった。しかし、大事な捜査で──発生から六年も経ち、手がかりもなにもない迷宮入りしかけている事件の捜査で、頼っていいものだろうか……そんな長山の葛藤も理解できる。

「いや……世良さんのこれまでの功績は話に聞いています。たしかに、信じるに値する活躍をしてらっしゃるんですが──」

 と、そこまで言って、声が止まった。

「どうかしまし──」

「黙って!」

 世良が、手でさえぎったのだ。

 記憶にとどめていたものを耳にした。

 いつ?

 つい最近──。

 三日前? いや、四日前か。

「この声」

「え!?」

 長山が、驚きと戸惑いの声をあげた。

「まさか!?」

「あ、いえ……すみません」

 すぐに世良が謝ったのを聞いて、拍子抜けしたようなため息が返ってきた。

「これ、その事件じゃない。たしか四日前だった」

「四日前?」

「ヤミ金の取り立て」

「ちょっとまってください……それは、担当がちがいます」

「見逃すんですか?」

 世良に問われて、長山は答えに窮したようだ。

「まちがいないんですか?」

「やはり、テレビです」

 ニュースだったか、誘拐事件と同じように特番だったかは覚えていない。覚えているのは、声だった。

 闇のなかに手を入れた感触。

 そう。その闇のなかには、ゴツゴツしたものが転がっている。

 触ると痛い。

 尖っているのか?

 いま聞いた声は、その「尖り」が無くなっている。

 あれは人を脅すときだけ?

 普段の声は、触っても痛くない。ただ、ゴツゴツしているだけだ。闇のなかの感触は変わらない。

 まちがいなく、同一人物の声だった。

「あ、ぼくも見ましたよ、そのニュース。担当した弁護士会の人にも嫌がらせの電話をかけてきたやつでしょ?」

 峰岸が、むしろ無邪気そうに発言した。

「かなり悪質な手口で取り立てをしてるみたいでしたね」

「だったら、その人なり、弁護士なりが、警察に被害届けを出しているでしょう?」

「ああ、それが警察のほうでは、借りたものはしょうがない、とか言って、まったく取り合ってくれなかったんですよ」

 軽い口調が、痛烈な批判に感じられた。

「でもね、じつは本人には借りた事実がなくって、ある日突然、取り立てがはじまっちゃったんですよ」

「借りた事実がない?」

「架空請求のヤミ金版ですよ」

「完全に犯罪じゃないか」

 つぶやくように、そして吐き捨てるように長山は言った。

「でも、警察は──」

「わかりました、わかりました」

 峰岸が同じことを反芻しようとしたので、長山はそれを声で制した。

「……とりあえず、その声の主を特定しましょう」

 そう続けた。

「王海さん、どの位置ですか?」

「三番マイク。ほかは落として」

 世良が答えると、峰岸がその指示を実行したのだろう、音の重なりがなくなった。

「この声だ」

「どれです?」

「土曜日に……ある、来てくれ……」

 スピーカーから聞こえたままを、声にのせていく。

「はあ?」

 長山が、間の抜けた声をあげた。

「聞こえませんよ?」

「また、同じセリフ」

「雑踏の音しか聞こえません。それとノイズみたいなやつ……あ、いえ……『サト、こっちこっち』っていうのが聞こえました。若い女性です」

「それじゃありません。どうやら、サトという少女が声をかけられたらしい」

「え? ほかには聞こえませんでしたよ、まったく」

「その大声は、彼女の友達ですよ」

「世良さん……、あなたがなんのことを言ってるのか、全然わからないのですが……」

「峰岸君、三番マイクの設置場所につれてって」

「はい」

 すぐに、ドアがスライドする音がした。

 生の雑踏音が、一気に迫った。むせかえるような人込みの気配と匂い。

「行きましょう、長山さん」

「え、ええ」

 時刻は、いつのまにか三時近くになっていたようだ。日差しの熱で、太陽の角度がわかる。

 世良は、峰岸のあとに続いた。

 手を引かれるようなことはない。三歩前に峰岸はいる。二歩後ろには、長山がついてきている。

 足音。何百、何千という靴のリズム。

 それぞれちがう。それをすべて聞き分ける。

「すごい……」

 背後の長山からの声だった。

「まるで、普通の人のように歩いてる」

 世良は足を止めた。

「どうしました?」

「王海さん?」

 長山の声で、峰岸も世良が立ち止まったことに気づいたようだ。

「ねえ、サトちゃん──」

 世良は、そう呼びかけた。二人のどちらにでもない。

「は、はい?」

 若い女の声が返ってきた。

「なに、このオジサン」

 べつの声もした。

 そちらも若い女だ。警戒するような硬さがあった。

「今度の土曜日に、店のほうで説明会があるんだよね?」

「な、なにあんた!?」

「サトちゃん、きみ、断ってたよね」

「な、なんで名前を知ってるの!?」

「せ、世良さん……?」

 心配げな長山の声。

「ねえ、そのお店って、どういうとこ?」

「け、化粧品だって」

 戸惑いがちに、サトちゃんは答えた。

「もしかして、さっきの『サト』って……」

 ようやく世良の行動を理解したのか、峰岸が声をあげた。

 問題の男に勧誘されていた女性だ。

「声をかけてきた男は?」

「え……まだ、あっちにいるんじゃないですか?」

「そう。悪いけど、念のため電話番号と住所、教えといてくれないかな?」

「は!?」

 あきらかに、あやしんでいる声だ。

「なんなんですか、オジサンたち!?」

 友達のほうも、警戒心をむき出しにしている。

「あ、われわれはこういうもんです」

「え、警察……?」

 どうやら、長山が身分証を提示したらしい。

「長山さん、聞いといてください」

 そう言うと、世良は歩き出した。

「あ、王海さん! 危ないです、ぼくが先導します」

 峰岸が追い越し、前に出た。

「ちょ、ちょっと!」

 長山をおいて、男をめざす。

「三番マイクは?」

「すぐそこです。たぶん、ここらへんにいるはずです……」

「まったく聞こえない」

 しばらく待っても、男の声はしなかった。

「いなくなったか……」

「世良さん!」

 長山の声だった。

「どうですか、番号、教えてもらいましたか?」

「いや、それが……」

 その濁し方で、結果はわかる。

「申し訳ない。逃げられた」

「まあ、刑事は嫌われるもんですからね」

 峰岸が、笑いをふくんで揶揄していた。

 眼に映らなくても、長山がしかめっ面をしているであろうことがわかった。

「男のほうは?」

「いなくなっちゃったみたいです」

 峰岸が、かわりに答えた。次いで、長山のため息。

「まあ、もともと本命ではなかったわけだし……この件は、あきらめるということで」

 世良は、不満に表情を歪めた。

「それよりも本題のほうをお願いしますよ」

 と──。

「ん?」

 聞こえた。

『今度の……土曜日』

 とても微かだ。ここから、だいぶ離れている。移動して勧誘を続けているようだ。

「こっち!」

 途切れ途切れの声をたどって、世良は人ごみをかきわけていく。

「王海さん、無茶しないでください!」

「いるだろ?」

 立ち止まると、ついてきていた峰岸に問いかけた。

「いますねぇ、たしかに勧誘している男が」

「長山さん」

 そう促してみるものの、長山が躊躇するのはわかりきっていた。

「い、いやぁ……」

「はやく引っ張ってください」

「え、で……でも、そう言われても……」

 長山の戸惑いはもっともだ。

 なんの容疑で?

 世良のことを信用したとしても、逮捕状があるわけではない。逮捕状を請求しようにも、証拠がない。そもそも被害届けが出ているのかも、わからない。そんな、不確かな状況だ。

「む、無理です……」

「なんでもいいから、職質かけて」

「は、はあ……」

 世良の静かなる迫力に負けたのか、長山が勧誘している男に近づいていく気配が伝わった。声から判断したかぎりでは、男の年齢は二十代半ば。穏やかな印象。低めでゴツゴツした声音だが、勧誘やセールスに向いている口調。

「あ、君……ちょっといいかな」

 遠慮がちに、長山が声をかけた。

「は、はい……なにか?」

「こういう者だけど」

「な、なにか!?」

 おそらく手帳を見せたのだろうが、男の声が、あきらかに変化していた。

 どんな真っ当な人間であれ、突然、警察官から職務質問をうければ、緊張するものだ。だがこの変化は、そのレベルを超えていた。

「あなたに聞きたいことがあるんだが」

「い、いや……ぼ、ぼくは普通に勧誘しているだけですよ。べつに悪徳商法じゃありません。化粧品の即売会に……」

「そっちじゃなくて、ほかにも仕事もってませんか?」

 長山が、わざと棘のある訊き方をしたことが理解できた。

「な、なんのことだか……」

 そう言葉を濁した直後だった。

 男が駆け出していく雑音が。

「ま、待て!」

 長山の追跡。

 なにか倒れこむような鈍い響き。

 どうやら、あっさりと捕まったようだ。おおかた、人ごみが邪魔で、全力疾走できなかったのだろう。

「おまえ、ヤミ金……いや、詐欺行為をやってるな!?」

「な、なんの話だよ!」

 捕らえられたことで、男の本性が垣間見えた。それまでの善良な声音が、よそおったものだということが証明された。

「とぼけるな!」

「しょ、証拠でもあるのかよ!?」

「証拠だと!?」

「だいたい、逮捕状はあるのかよ!? なんの権限があって、逮捕すんだ!?」

「逮捕じゃない! 参考人として話を聞きたいだけだ」

「だったら、任意だろ!? 拒否できるはずだ!」

「なんだと……」

「はなせよ!」

「おまえに拒否権なんかない。逮捕だ」

 世良は言った。

「なに!?」

「証拠は、その声だ」

「こ、声!?」

「おまえの声だ。まちがいない」

「なに、ほざいてんだよ!?」

「テレビで、おまえの声が流れただろう」

「そ、そんなことで逮捕できるのかよ!? ちゃんと声紋分析とかしてるんだろうな!?」

 男は、強気に言い放った。

「令状見せろ!」

 答えに困りきっているであろう長山にかわり、世良が応じた。

「公務執行妨害の現行犯だ」


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