善徳寺
天文23年(1554年)、駿河国善徳寺において、戦国期を代表する同盟が結ばれようとしていた。
駿河今川家、甲斐武田家、相模北条家による、駿甲相三国同盟である。
「この度は」
お運びくださいましてありがとうございます、と、この同盟を取り仕切った雪斎が言う。
善徳寺の会盟とも呼ばれるこの場ではあるものの、今川家の記録においても武田家の記録においても、当主自ら赴いたとの内容は無く、北条の一部資料にしか見られないことから、当主に次ぐ実力者が集まったものと思われる。
「宗哲殿には懐かしい場所かと」
河東最後の争いとなった長久保で、城の明け渡しを担当したのが雪斎と長綱であり、法体でありながら戦の指揮をする互いの境遇に、何とも言い表せない仲間意識を感じていた。
20年近く前に始まった河東の乱は、北条がこの善徳寺を押さえたことで初期の決着を見た。長綱にとって懐かしい場所と言える。
「左様、な」
と、自嘲気味に答えた。懐かしさはあるが、今川の逆転劇の始まりも善徳寺であったことがら、皮肉にも聞こえる。
「信友殿にも」
長綱に次いで武田の名代、穴山信友にも声を掛けた。
「いやいや、某などは」
振り回されたばかりでございました、と、笑う。越前守(福島正成)殿ばかり見ておりましたが、その奥におられた御坊を見るべきでございました、とも。
雪斎は軽く微笑むと静かな衣擦れの音を立て、数歩先にある襖を開け、二人が座る部屋を振り返る。
「この庭は義元公が幼少の頃より変わらず」
我が子の成長を自慢しているかの様子で言う。
「ところが義元公は大きくなられ、昨年「法」を改めましてな」
今川仮名目録追加のことである。
そもそも分国法は幕府に対する反逆のようなものであろう。法を定めるのは足利幕府であるというのに、家臣がそれに従わず、己の領国の法を定めるのだから。
だが、この分国法の存在こそが、幕府の守護大名から戦国大名へと脱皮する道であるとも言える。今川家は義元の父、氏親が33箇条の今川仮名目録を定め、そして義元が21箇条の追加を行った。
余談ながら氏親の仮名目録を読んでみると、子供の喧嘩は両方の親が諌めるべきで、それを煽ったり仕返ししたら、親も子も同様に処罰することや、子供として殺人の責任を逃れるのは14歳までと、今でも通じる常識や法が入っているのも面白い。
――甲府の御館様も
甲州法度之次第を作っているが、と信友は思ったかもしれない。だが、他国の法、今川仮名目録を参考に高白斎が起案し、晴信の名で発付された次第と、戦国大名たる氏親や義元自身が作成した仮名目録とでは、その当主の力量の差は勿論のこと、その家の法に対する考え方に大きな差があろう。
更に言えば仮名目録追加は、20条にある「自分の力量を以て国の法度を申し付け静謐する事なれば、守護の手入る間敷き事、かつてあるべからず」の部分が注目に値する。そもそも日本には帝(天皇)がおり、鎌倉幕府から始まった「政治も行う征夷大将軍」も、あくまでも帝から委任されたという形で政治を行ってきた。足利幕府も同じである。
ところが義元は「自分の力で法を定めて領国が安定しているのだから、幕府が定めた領国内の守護不入の制(守護の力の及ばない特別区)は廃止する」と言い切り、文面だけ見ればこれまでの日本式統治を完全に否定している。帝の委任を受けた将軍に任命されたから、ではなく、己の力量で統治しているのである。まさしく戦国期における為政者の究極であろう。
「人、というものは何とも不思議なもので」
雪斎の言葉に長綱が返す。
「方丈記のような、移ろい易く」
そしてまた無情なもの、と、言えば
「確かに。北条記よな」
と、信友も小さく笑う。
河東の乱から約10年。今川も武田も、そして危急存亡の秋にあった北条も大きく変わった。人だけでは無い。国も変わっているのである。
「我らも歳を重ねましたが」
未だ欲を棄てられぬ、と誰とも無く笑った。戦国において野心があるからこそ同盟を結ぶのである。そこに利が無ければ同盟など存在し得ない。
「昔のことほど覚えております」
と、長綱はいやらしく笑う。
某とて、と、信友も続ける。
「昔語りをするにはまだ早いと思いながら」
川の向こうの戦やら、御坊に翻弄されたことを良く覚えております。と。
「これは手痛い」
二人の言葉に、雪斎は明るく、カラカラと笑った。仏門に入り欲を抑えることを是とし、陽、と言うよりも陰に生きてきた雪斎には珍しいことだった。
「先程から、まるで拙僧が戦の名手のような」
「左様、戦の名手でございましょう」
雪斎の袈裟を下から撫でるように、視線をゆっくり移しながら長綱が言う。
「そして御坊第一の御弟子も」
憎らしいほどでございますよ、と。
三人の間に、僅かだが、沈黙が流れた。
気まずさ、ではないだろう。戦国の世に在って今日まで生き長らえてきた三人である。今日この場に敵意を抱いて来ているのではない。大きな節目の、何か仕事を終えたような、ふと疲れを覚えるような心地の中、それぞれが己の気持ちに浸っていた。
気付けば雪斎の後ろに控える楓の影が伸びている。日が傾いてきたのであろう。
「かねての御話のとおり」
嶺松院様が義信様に、黄梅院様が氏政様に、早川殿が氏真様に輿入れなされました故、ここに我ら三家の盟が成った、と、世に捨てられ京の五山に学び、そして俗世に戻った男が宣言する。
既に話は付いていた。確認のための会盟であり、異が出るなど有り得ない。
不思議な同盟である。三国による同盟など、かつてあったであろうか。
経過も複雑である。武田と今川北条が争い、今川と武田が婚姻関係となり、北条と今川武田が争った。後に北条と武田は手を結ぶが、今川北条の戦いには中立でいた。
こう見ると、武田も北条も今川とその一方の連合軍を相手に戦うことがあったが、今川だけはそれを回避している。だからこそ、今川家が主導して三国同盟が成ったのではなかろうか。今川家がどちらかとだけ手を結んでは脅威となる、という恐怖心である。
だが、最初に輿入れする者は相手の出方一つで人質となってしまう。だからこそ義元は最初に自らの娘、嶺松院を武田に嫁がせることにした。今川家が動いた以上、武田も動かねばならない。晴信は黄梅院を嫁に出し、氏康もそれに続いた。
――これで憂いが無くなる
と、考えたのは誰であろうか。
義元も晴信も氏康も、誰しもがこの同盟の恩恵を受ける。事実、この後相互に軍事支援が行われ、この三国は西に、北に、東に、それぞれがそれぞれの思惑で拡大して行く。
同時に河東ではそれぞれの密偵が互いの様子を見ているであろう。そして葛山氏の許には、引き続き誰からと知れぬ書状が舞い込み続け、河東は今後も三国の注目を浴び続ける。
善徳寺から見える富士の頂には、まだ白いものが残っている。
暖かくなってきたとは言え、御厨の往来が賑わうのはもう少し先であろう。
本日、今川義元公命日に合わせて最終話を投稿させて頂きました。
初の小説ということもあり、至らぬ点等多々あったかと思います。
それでも今川義元公のことを少しでも書きたいと思い、今日まで続けて参りました。
以前にも申し上げましたとおり、ご覧頂いている皆様の過分な評価やお気に入り登録、閲覧数の伸びに緊張し、と同時に書き続ける励みとなり、拙い文章ながら続けることができました。
ご覧頂きました皆様、長らくお付き合い頂き、本当にありがとうございます。
資料は殆どありませんが、今川家の家臣についても書きたいという欲があり、先月より拙稿を晒しております、ご縁がございましたらまたお付き合い下さい。




