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河東の乱  作者: 麻呂
鬼手
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鬼手

「そろそろであろうか」

 近習が困惑するほど、当たり前のように質問を投げかける。

「あの…」

「いや、そちに聞いたのではない」

 義元に悪意は無い。ただそこに偶然居た近習の方を向いた際、一人ごちただけである。

 近習も思わず不安そうな声を上げたが、彼も少しづつ慣れてきている。またか、と思いながらも心臓に悪いのは変わらない。

 そんな気の毒な近習の気を紛らわせるかのように、伝令が入る。

「駿府の雪斎様より」

 書状が参りました、と、困惑する近習を余所目に報告する。

「おお、来たか」

 義元は床几を立つと、自ら書状を取りに出た。

 報告に来た伝令は、咄嗟のことに慌ててその場に跪く。

「良い、下がれ」

 そう言いながら、目は書状に釘付けとなっている。伝令のことも近習のことも忘れたかのように、義元は書状を一気に読んだ。

 バサリ、と、音を立てながら書状を机に叩くように置くと、義元はゆっくりと頷く。そして、改めて伝令を呼び、明日、城攻めを行うと各陣に伝えた。

 一部の聡い将は「何かがある」と気付き、独自の斥候を放つ。城から兵が出てくるのか、それとも援軍が近付いているのか。義元の指示に沿っていれば勝てる、という確信はあるが、戦果を上げねば恩賞にありつけない。ならば自分なりの戦い方を考えねばならぬのである。



 義元が待っていたのは上杉本軍が出兵する、という報告であった。

 武田が須山ルートを封鎖することで、富士川沿いの街道は早馬を飛ばしても北条の目に入り難く、甲府から駿府にかけて軍用道路として運用できる状態にある。

 そこを活用して上杉の出兵のタイミングを計り、その動きを絶えず入手するのが雪斎の役割であり、武田も上杉に対する軋轢がありながらも、今川に対して東への道を解放していた。

 そして、雪斎は出陣の報が入るや否や、義元の居る長久保付近の陣に早馬を出したのである。

――勝った

 氏康の出兵は把握している。間も無く戦闘が開始されよう。だが、氏康はここに居座ることはできない。

――我らと戦えば

 対上杉戦が遅れるほど、北条は窮地に陥る。ここでダラダラと今川と戦うことになれば、兵の損傷以上に取り返しのつかない悪手を打つことになる。小田原に二つ引きの旗が棚引くとこになるかもしれない。

――それはそれで面白いが

 この頃の義元にあったか分からないが、天下統一(安定)手段として、足利将軍を頂いた上で、山名や細川といった室町初期の大大名のような、大勢力による分割統治を志向していたとされ、義元自身は駿河から伊勢湾一帯を押さえるつもりであったようである。

 相模統治を考えれば、「北条早雲の主」という立場で進めるのが良いだろう。主に弓引いた北条を討ったという大義名分も立つし、まだ長くも続いていない北条の名を改めさせ、伊勢に戻すことで北条の統治を否定することもできる。

 だが、義元は尾張に目を向けており、既にこの頃から箱根の先に興味が無かったのではないか。

――越前の倅を棄てれば、どうか

 義元は相模統治よりも、氏康が上杉と戦うことを考える。上杉は川越に迫る予定である。川越城には氏康の義弟となっている北条綱成がいたが、彼の父が花蔵の際に駿河を逃げた福島越前守正成であった。

――越前であれば川越で粘るやもしれぬが

 倅がどこまで粘れるか。まず無理であろう。籠城は援軍あってのものであり、氏康が見捨てればやがて落ちる。更に援軍を待つ弟を見殺しにしたとあっては、今後の悪評が付き纏うであろう、と、他人事のように兄殺しの義元は思う。

――義兄上はいつ気付くか

 北条の密偵も関東に多々いるであろう。風魔衆は攪乱に長けていると聞いているし、これまで多少の操作をしていたのかもしれない。だが、この北条を死地に追いやる悲報を、どれだけ早く持ってこられるか。

――自棄にならねば良いが

 氏康に限ってそれは無い、と、これまでの戦いから思う。あれは良い将だ、と。



 義元の目は正しかった。氏康は良い将であり、彼は義元以上に関東を見ていた。

「殿」

 抵抗が少ない三嶋に入ったところで、氏康は報告を受ける。

「川越が危のうございます」

「それは」

 と、伝令の顔を上げさせ追加情報を求めようとしたが

「上杉が」

 と、答えだしたのを聞くのみで、皆まで聞かず「良い」と終わらせる。

――これが戦か

 と、青ざめる。一体、今川義元とは何者であろうか。

 氏康をここまで引き付けておきながら、裏では上杉の出兵を促していた。そうであろう。収穫後に出兵するのが定石であるというのに、何故こんなに早く本軍が出るのか。誰かが手を引いていたと考えるのが自然であろう。

 明日には互いの姿が見えよう、というこのタイミングで、上杉が川越に迫るという死地に追い込まれている。

――鬼か

 鬼で無ければ羅刹か。いずれにせよ、ここで戦をしていては、川越が落ちる。

 川越は北条にとって関東進出の足掛かりであり、何より関東に覇権を得たことの証明でもある。ここを奪われては北条が凋落したとして、マイナスの印象が関東中に広がってしまう。北条弱しと見れば関東進出は遠のくだけでなく、相模が危険に晒される。だからこそ見捨てる訳にはいかなかった。

――綱成なれば

 川越には地黄八幡の旗で武名が轟く義弟を置いているのである。考えてみれば、駿河国主、今川義元も義弟ではないか。

――駿河生まれというものは

 偶然であろうが、駿河に生まれ育った二人の義弟は、何と頼もしく恐ろしい男であろうか。

 この駿河の二人は絶えず味方にしておかねばならぬと思う。綱成は無論のこと、義元も何とかして取り込みたい。


 上杉は10万と言う。これは誇張もあるであろうが、少なく見積もっても6万は下らない数が来るのは間違いない。そう確信できるほど、氏康の関東諜報網は構築されていた。

――和睦しかない

 だが、事ここに及んで義元は納得するであろうか。氏康が東に向かえば遠からず長久保は落ち、そのまま御厨まで兵を進めるであろう。今川軍が小田原に攻めるのも容易となる。

――詰めるしかない

 条件を早期にまとめ、話を詰めるしかない。だが、今この場でそれを言い出せば、家中の動揺を誘ってしまう。

――地獄の悪鬼だ

 早く和睦せねばならぬというのに、和睦を言い出せない状況を作られている。時間が経てば経つほど北条にとって不都合な和睦案となるであろう。

――長久保を見捨てることになる

 急ぎ関東へ向かわねばならない。だが、長久保を見捨てれば河東は全て今川のものになる。更に義元が兵を進めれば、小田原が危険に晒される。

――だが

 しかし、だが、と、氏康は苦悩する。家督を継いだばかりで、このような鬼手を捌かねばならぬとは。

「南無八幡大菩薩」

「南無八幡大菩薩」

 答えは決まっている。北条が生き残ることが第一であり、河東を棄て、川越を守るのである。

 氏康は父のように仏の名を口にし、己の決断が仏の決断であると、無意識のうちに自らを錯覚させる。

「南無八幡大菩薩」

 幾度か唱えるうちに、彼の脳裏にあったもやが晴れてきた。唱えることに集中し、雑念が消えた、ということであろう。

「これより」

 と、良く通る大音声で命じる。武蔵の川越城を助けに行く、と。

 そして一部の将に別の指令を出す

「我らが箱根を通り過ぎるまで日があろう」

 それまで長久保の今川軍の背後を突け、と。

 事実上の殿であったが、長久保救援軍としての性格とすることで、対外的にも悪く無い手である。救援軍は時間稼ぎにしかならないが、氏康の評価は下がらないであろう。

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