正成
「お味方、万沢口にて武田方と戦っております」
「おお、ご苦労」
兜の緒が首にあたるところを触りながら、正成はゆったりと答えた。予定よりもやや遅いか、とも思ったが問題になるような時間ではない。
敵は万沢を押さえたようである。数は500とも600とも言うが、守るには足りない。
「余程家中がまとまっておらぬと見える。信友殿はご苦労が多いようだ」
寝返りが怖くて多くの兵を出せないのであろう。背後から手を回している正成が言うのは筋違いだが、彼は気付いていない。
「信虎は引っ掛かるかな」
正成の脳裏にはただ信虎の姿だけが浮かんでいた。
信友の許に敵の増援が来たことを知らせる伝令が来たのは、開戦から1刻半を過ぎた頃であった。
「数はどれほどか」
「シカとは分かりませぬ。恐らく今川の本隊が来たかと」
信友も愚将ではない。南から敵が来ることは予想済みである。今でも国道52号線が静岡市清水区(旧清水市)を起点に甲府まで伸びているほどで、信友は駿府からこのルートで兵が来た時に備え、所々山中に斥候を配置している。
「今川の本隊ではない。白鳥山か、付近の兵だ」
早期に今川本隊の動きを知ろうと、遠くに多く配置したことが裏目に出たようだ。今来ている伝令は万沢に最も近い所にいた者である。とすれば、敵は万沢付近で山中を迂回し、南から現れたのであろう。
「だが、まずい」
敵が本隊でなければ十分迎撃できるであろう。しかし、既に万沢東側で戦っており、敵の全体像が見えぬ以上、兵を減らすのは愚策である。事前に南側にも一定の兵は割いているが、半刻も持たないのは目に見えている。
「全軍に伝えよ。すぐに陣を引く。殿はいらぬ。疾く帰れとな」
今川の狙いも万沢であろう。過去に深追いして失敗した正成のこと、それほど追撃はしないであろうし、万沢に拘って決定的な敗北をすれば身内の寝返りを誘発しかねない。信友は迷わず撤退を選んだ。
彼の読みは結果的には合っている。確かに正成は追撃をしてこなかった。だが、それは過去の失敗を引きずっているのではなく、目的は他のところにある。
「福島正成、猪では無いな」
纏まらぬ家中で戦えるのか、信友は一抹の不安を抱きながらも真篠城に向かった。
「ホウ、既に逃げたか」
存外な、とでも言わんばかりに正成は言った。報告に来た息子は肩透かしを食らったためか、不満気な様子に見える。
「綱成。敵は山猿ではない。知恵のある山猿じゃ」
自分で言いながら楽しくなったのか、正成は笑顔で言う。
「全てが思い通りに運ぶことは無い。そのようなことができる者は菩薩か神じゃ。が、敵の狙いが分かれば己の思いに近付けることはできる」
そこまで言うと、正成は痰を切るためか「ンン」と喉を鳴らし
「良いか、己も敵も狙いのために手を出す。じゃが、相手の狙いを読み、相手の手を読み、相手の裏をかく」
つまり、と言葉を区切り「頭よ」と言う。
福島正成。今川家における対武田の筆頭家老のような存在であり、生存を賭けて戦う武田勢と対等以上にやり合ってきた名将である。戦績が評価されがちであるが、彼は一族の娘を氏親の側室に入れるなど、自身の立場を政治的に作る一面も持っている。
「ところで井出城だが」
親の顔から大将に顔に戻ると、正成は威厳を持って口を開いた。
「どうやら斬られたようだな」
報告によれば井出城の門は開かず、しばらく後に数人の首が投げられてきたという。
「信友殿は多くのことを学ばれたであろうな」
おぬしも、と綱成を見てから「多くを学べ」と、細い目を少し大きくしながら言った。