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河東の乱  作者: 麻呂
鬼手
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趣向

 東に黄瀬川という天然の水堀を持ち、北には大きな堀、そして西は絶壁。長久保城は河東における守りの要である。

 氏康、長綱がこの場所を決戦の場として選んだのは当然のことであるし、義元も長久保さえ落とせば深沢までの道が出来ると踏んでいた。



「この度はおめでとうございます」

 と、神主達が義元の陣を訪れた。長久保からは離れているものの、目の良い者ならばその様子はすぐに分かる。義元が呼び出した三嶋大社の神主達であった。

 長久保の城内から義元の姿を窺い知ることはできない。だが、神主のような特徴的な服の者がぞろぞろと出入りする様子から、勝手な想像はできる。自ずと見張りの兵達はメディアとなり、今川軍の様子を城内に知らしめる。

「今川の陣に神主が大勢挨拶に行っている」

「大社の神主らしい」

「三嶋が落ちたなら小那こなも」

「北条さまの故郷が」

 人の噂というものは、娯楽を求める者が多いほど早く回る。それが事実でなくとも事実らしければそれで良い。特に、なまじ知恵のありそうな者ほどそれらしい尾ひれはひれを付けて回す。

 無論、敵味方の強弱を語ることは厳禁である。周囲の様子というものはグレーゾーンの話題であり、兵の間で話されることも多かった。


 氏綱が残した資産でもあり負債でもある、北条を名乗ったことが裏目に出る。伊豆の者からすれば北条と言えば鎌倉執権であり、得宗家であり、源氏の将軍を助けた伊豆における名門である。

 北条政子の父である時政の菩提寺、願成就院が韮山駅と伊豆長岡駅の間にあるが、今日の伊豆の国市が北条家の由来であると考えるのは止むを得ないことであった。

 また、北条早雲として半ば伝説化している伊勢盛時は、興国寺城より伊豆、相模へと勢力を拡大しており、この頃に重きを成す者は興国寺城こそ北条家の由来であると考える。

 三嶋大社は源頼朝も大切にした神社であり、前北条氏にとっても重要な神社であった。義元はそこを押さえたのである。


 長綱は物見の報告を受けた時点で義元の策に気付いた。己の失策を悔やんだが、これは仕方のないことであろう。

 本隊が敗走し、自身は持ち場に戻って後方を纏め上げた。これだけでも十分な動きである。更に前線の、しかも補給や軍備に関係の無い場所まで面倒を見ろというのが無理な話であった。

――また、乱れる

 兵が動揺し、城内が乱れることを恐れた。ところが長綱はどういう訳か困惑が表情に出ない。感情的になる一線を越えれば涙脆くもなるし怒鳴りもするが、その一線までは意図せずポーカーフェイスとなっていた。

 しかし、兵を慈しむこと深く、無謀な戦をしていないという安心感からか、城内は長綱が恐れていたほど動揺せず、士気はそれほど下がらなかった。

――早雲さまの息子

 血もあったであろう。河東の葛山家にも北条の血が入っていたし、数十年の河東統治は後北条氏にとって多くの効果を上げたと言える。

「あれに」

 長綱の困惑は半ば杞憂であったが、義元は更に揺さぶりを掛けた。一部の捕虜を解放したのである。

――まさか

 捕虜の列を指す側近を尻目に、長綱は義元の意図を考える。仮に兵糧攻めをしようとしても、この程度の数では大した影響が無い。

 とは言えそのまま戦列に置く訳にはいかない。長綱は嫌な予感がしながらも、今川の状況を知るために捕虜に会うことにした。


「ご苦労であった」

 聞き終えた長綱の背を、冷や汗が幾重にも流れる。直接会って正解だったと。

――これが

 将校クラスがこの話を聞いたら、ことの真偽さえ判断できず動揺したであろう。

「既に今川軍は十国峠を越え、熱海が危のうございます」

「南は小那から土肥まで今川に下ったとの由」

「三嶋の軍勢は箱根に向かったと聞き及んでおります」

――あえて聞かせたのであろう

 捕虜に軍事機密を教える訳が無い。だが、義元は捕虜を詰めている近くで兵に噂話をさせた。地元の兵であれば土地勘もあり、そこに勝手な推測を加えてしまう。

 だが、だからこそ現実味を帯びた噂が恐ろしい。義元は徹底的に情報操作をし、前線指揮官クラスの耳に入れ、長久保城の士気をあちらこちらで下げようとしていたのである。

「他所では申すな。全て偽りである。」

 長綱はそう断じた。

「無論、お主達が偽りを申しておるのではない。今川がお主達に敢えて偽りを聞かせたのだ」

 と、兵をフォローしながら。

――戦果を挙げねば

 小さくても良いから、小競り合いでも勝ちを拾いたい。拾わねば今川家に真綿で首を締める様に内側から崩されてしまう。

 


 氏康も同じ覚悟で進軍を続けていた。敢えて箱根を越えて三嶋に出るルートを選ぶ。

 この時点で義元の小さな罠は踏み砕かれている。氏康と長綱の間に楔は入らず、むしろ二人は長窪で勝利を上げることを望む形で一致している。

 が、義元は気にも留めていない。長久保がこの戦の山であると考えていたし、連敗中の北条が逆転を狙い、局地的なものでも勝ちを望むのは当然のことであったからである。

――三嶋はまずい

 戦後交渉においても問題となる。三嶋は伊豆国であり、対応を間違えれば河東の争いが伊豆にまで飛び火してしまう。

 早期解放を望む氏康であったが、下りながら不安もある。

――伏兵がいるかもしれぬ

 義元の戦い方は、こちらの状況を見透かして、裏を突くところにある。急ぐと分かれば伸びた戦列の脇から伏兵が出てくるかもしれない。

「斥候を出せ」

 用心の為、氏康は周囲を警戒する。こちらが山の上から来る以上、中腹で待ち構えるのは難しいと思われるが、それでも不安があった。

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