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河東の乱  作者: 麻呂
鬼手
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氏康

――何を申すか

 長綱は武田を信用していない。これまでの長い対立は無論のこと、親を追放し、父の残した同盟関係を断ち切る等、無法な振る舞いの武田の跡取りの仲介で和睦しても、あんきできぬ、と。

 あんきは安気とでも書くのか、安心、という意味で使われる。長綱のような武将が使うには優しく感じる響きではあるが、彼の表情には一片の優しさも感じられない。

 だが、同時に不安もあった。

――駿河は

 氏綱と義元が河東で戦った際、混戦に持ち込まれたとは言え氏綱が勝利し、義元を富士川の向こうに追い返している。

 今回の戦では長綱、氏康が義元を相手にしているが、義元に引き分けるどころか連敗している。

――鬼にでもなったか

 こちらの動きがほぼ読まれている。無論こちらも義元の手を読もうとするが、後手に回る事が多く、これまでにない苦戦を強いられていた。

――鬼であろうが

 長久保城に籠り、何としてでも今川家を止める。それが長綱の強い意志であった。

 長綱は小田原に向け、和睦など無用と馬を走らせた



「和睦、か」

 小田原に戻った氏康の下に武田の使者が訪れた。

 武田は圧力を掛けるかのように陣を張っているが、これまで1本の矢も放っていない。つまり、中立として動いているのである。

――今川に付く理由探しか

 敗北後の荒んだ心持ちで見ればそうかもしれない。北条が武田に手を出せば、それを理由に今川家と共同戦線を張るのであろう。上杉が北条に向かっている今、武田が今川に付けば、対上杉の為の同盟など有って無いような存在となる。

 だが、これは氏康の被害妄想であろう。

――上杉が力を伸ばしては困る

 晴信は上杉の増長を望んでいない。だからこそ武田と北条の同盟が残っているのであり、河東においても北条と戦をせず、早期和睦と北条の関東転進を望んでいる。

 武田にとってもこの和睦は成立させたいものであり、北条が上杉に呑まれ、上杉と今川が引き続き手を結ぶというシナリオは、悪夢以外の何物でもない。

――今なら黄瀬川で分けられようか

 氏康としてはこの挟み撃ちから抜け出したい。和睦を結ぶのであれば、自分達の利益をどこまで維持できるかが問題となる。

 黄瀬川とは現在の御殿場市を水源とする南北に流れる川であり、現在の沼津市と清水町の境で狩野川に合流する。水源近くでは田畑に利用することも可能であろうが、岩盤を削って形成されており、平地よりも下を流れているために農業用水には適さない。だが、だからこそ長久保城のような自然を活かした要害を作ることができたとも言える。

 黄瀬川と桃沢川で境界を作れば、河東を東西で分割できる。だが、家臣はこれで納得するであろうか。

 旧い家臣としては、北条家旗揚げの城である興国寺城を今川に渡すことは不本意であろう。無論、氏康とてそれは同じこと。だが、氏康が見るべきは個の感情ではなく、大所高所に立った北条家そのものの存続の道である。

 また、新しい家臣からすれば、北条に力無しと見え、他家の介入を受けやすくなるであろう。

――長久保だ

 長久保城で粘り、何とか今川家を押さえることができれば、立場も条件も変わる。耐え抜いた結果としての和睦であれば、家中の混乱もそれほど大きくはならない。いや、できることなら局地的な勝利が欲しい。

 この15年後、氏康と同じく義元に追い込まれ、局地的な勝利を求めて突撃した結果、大将首を取ると言う強運のの持ち主が現れるが、和平交渉のテーブルに着く前に、少しでも優位な状況に立ちたいと考えるのは、今も昔も変わらない。


――時間が無い

 上杉の動きが活発になってきているとは言え、軍は稲刈りの後に動くであろう。今川も稲刈りの時期には兵を一時的に引くことになる。

――和睦をするのであれば、長久保で勝ってから

 氏康の苦悩は続く。

「駿河の久野様より」

 と、悩む氏康に書状が届く。久野は現在の小田原市の一部であり、長綱の相模における本拠、通称でもあった。

――叔父上は

 よほど武田が嫌いと見える。武田とは山中で戦っているが、何かあったであろうか。いや、今更探っても詮無きことと割り切った。

「やはり、長久保か」

 家中で重きを成す叔父上が和睦に異を唱えるのならば、そう簡単に和睦はできぬ。

――だが

 長久保で勝てれば良し、それを理由に和睦を進める

「わしが、主だ」

 今川との和睦と言う形で終わらせる。

――今川とはこれ以上戦えぬ

 氏康と長綱が兵を率いて敗北している。士気も下がり、長綱のみでは最早戦線を維持するのがやっとであろう。

 何より

――胆を斬られるような

 数に頼った戦い方をせず、兵の士気を衰えさせる手で攻めてくる。それでいてこちらが正面から突撃できぬよう、それ以上の兵で待ち構えている。

 戦う前から勝ちの芽を潰しに掛かってくるのである。地侍達が今川家に靡くのも頷ける。が、

「勝つ」

 と、己に語りかけるように声を出した。

 此度の戦、自ら死兵となって戦おう、と、言霊とする。

 氏康は再び義元と戦うため、軍を再編成する。狐橋での被害は少なくなかったが、興国寺を越えてまでの追手は無く、予備兵を投入することで十分な兵力は確保できた。

――あと一月堪えれば

 収穫期になり帰る今川の背後を突ける。根方街道を後ろから追い、興国寺を奪い返すことができれば、和睦条件も大幅に変わるであろう。


 しかし、氏康は気付いていない。既に和睦への道を決めている時点で、義元の策は完成しているのである。

 戦の前から和睦を言い続け、絶えず和睦を北条に意識させ、最後は北条が和睦を選ばざるを得ない形を作る。無論、戦に勝つことが前提であるが、そのために義元は準備を重ねてきた。

――収穫まで

 長久保を守らねばならぬ、と、氏康は愛用する小田原鉢の兜を膝に置き、内側の鹿革をぼんやりと擦るように目を閉じながら、来たる戦の戦略を練っていた。

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