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河東の乱  作者: 麻呂
鬼手
43/52

進軍

 義元は家督相続以来、寄親寄子制を進めている。擬制親子関係と言えば良いか、親分子分の関係と言えば良いか。

 領国統治のための内政重要政策であることに他ならないが、戦時即応体制構築のためとも言える。

 兵を掌握し、指揮命令系統を徹底させる。寄親寄子制度は兵の徴収から戦場での小隊構築まで行える、敗戦を経験した義元にとって必要不可欠な制度であった。

――今こそ

 河東を取り戻す。氏綱からの勉強料は非常に高くついたが、それを活かす時が来た。

 コトリ、と静かな音を立て、義元は筆を置く。何気ない日常の1ページであるようにも見えるが、その目は何であろう、希望に満ち溢れた目とはほど遠い、冷たい、感情を感じられない目である。

「これを」

 と、近習に書状を渡すと雪斎を呼ぶ。

――暑い

 今日は大分暑くなっているようである。海からの風も生臭さを含んだ独特のものであり、山国の者であれば何かあったかと驚くであろう。

――河東の風は

 氏綱に負けたのも夏であった。富士川を渡った時に感じた風は夜であったためか冷たく感じたが、今日は肌にまとわりつくような暑さである。

 雪斎を呼びに行った近習が戻ると、義元はいつもと変わらぬ眼つきに戻っており、少し安堵した声で義元に声を掛ける。

「雪斎様が」

 近習の声に目を遣ると、麻の袈裟を纏った姿が目に入る。

「御師よ」

 と、声を掛けると察したのか、雪斎は一歩踏み込んで座り、近習は頭を下げてその場を離れた。

 数秒であるが沈黙が流れる。

「河東を攻める」

 義元の声に雪斎は静かに頷き、拙僧は、と問うた。

「御師には始末を頼む」

 米の収穫までには終わる故、あまりゆっくりもしておられぬが、と笑うと、雪斎も喉を鳴らす。

「五分と申したを覚えておられますか」

「嫌と言うほど覚えておる」

 皮肉めいた笑みを浮かべる。

「我が北条に勝てるか五分と、何年前であったか」

「さて、7年程になりましょうか」

 雪斎は静かに笑いながら続ける。

「多くを学ばれましたな」

「嫌と言うほどな」

「ご立派になられました」

 義元はソウカ、と言うと近習を呼び、奉行職以上を集めるよう指示して立ち上がる。

 南の空には入道雲であろう、大きな雲が浮かんでいた。



 天文14年7月、義元は兵を挙げた。

 当然北条は今川軍の襲来に備えており、東海道沿いの吉原城には多くの兵が詰めている。だが、義元は敢えて戦わず、根方街道沿いの善徳寺に兵を進め、そこを拠点とした。吉原と善徳寺はわずか3kmの距離にある。

――これは

 吉原に詰める北条部将は義元の意図の一部を見抜いた。

――武田が今川に付く

 善徳寺から吉原を攻めたとして、北条の援軍等も考えれば2月以上は掛かるであろう。善徳寺に兵を置くのは、長期に渡りその背後を突かれる心配が無いことの表れである。

 だが、部将は驚かない。既に長綱より武田が今川に付く可能性が高いことを言われており、そのために陸海ともに便の良い吉原を拠点としているのである。

 北条は今川武田の動きを予測し、それに備えていた。増援や連絡に必要な拠点として吉原を重視し、善徳寺は取られても東と南の挟撃で対応する、という事後策を練っていたのである。そして、今川軍の善徳寺着陣を見るや否や、河東東部から兵が送られることとなる。


 最前線に本陣を置かないのは当然のことである。対武田戦の松平家のような例外はあるものの、前線と本陣は連絡・伝達が重視され、交通の便の良い場所は前線基地として良い場所とされる。

 義元はこの北条軍前線基地である吉原への伝達手段を絶ち、孤立無援に追い込む戦略を採った。

 


 義元は浮島ヶ原の北、根方街道沿いに東部防御陣地を作り、富士川河口西岸に攻撃陣地を作った。

「はて」

 西岸に配置された若い兵は困惑する。ここからでは渡河作戦か、弓によるしかできない。距離もあるため腕の良い者でなければ城には届かないであろう。

「御館様はどうされるやら」

 若い兵から漏れた言葉を聞いた隣の老兵が「シッ」と注意する。上に聞かれたらどうするのかと。

 そしてワシ等はそんなこと考えずとも良い、と続けると、

「勝ち戦の時は、こう、海風が香るものでな。」

 今日の風はそんな風じゃと言い、その場を去った。取り残された形になった若い兵は困惑しながらも、鼻から大きく潮風を吸い込むと

「わからねぇが、年寄が言うんだから、まぁ大丈夫だら」

 と、考えることを放棄した。


 義元は西の陣に対し、こちらから攻めず、攻められたら陣を引き払うよう命じてある。

 仮に北条が船で西岸に上陸しても後詰で十分対応できるし、この陣に城攻めは期待していない。

――嫌がらせよ

 吉原に兵糧は十分あるであろうが、北条は間違いなく補給をする。そしてそれは陸路で無く海路となるであろう。

 更に吉原は海近くと言うこともあり、低地である。城と言っても小さな丘を利用したもので、高低差を活かした戦い方は困難である。とすれば西と南の海を活かして守るのが定石であり、北条の戦略もこれに沿っていた。

 義元は吉原城に対し、背後の不安を抱かせることで積極的な攻勢に出難いようにし、自然と籠城戦を選ぶような環境を作ろうとした。

 そしてこの作戦が的中する。


 城代部将は長綱の命により動いており、対今川に対する策を幾つか授けられてはいたものの、基本は専守防衛策であったし、重要事項は長綱からの連絡待ちである。更に西岸の陣に何か策があるのではと不安が残り、積極的には仕掛けられず、戦においては様子見しかできない。それが義元と部将双方を違う意味で安心させた。

 部将は想定ケースの一つに入ったと安堵し、義元は東西の陣地構築に大した妨害が無く、また、兵を当ててみても北条が積極的に出てこないことから、現段階で積極的な攻めを任されていない、つまり守勢に徹せよという旨の指示を受けていると考えた。

 義元は早馬を走らせ江尻から海賊衆を出すよう命じる。更に続けて「急ぎ、浮島を押さえよ」と東部陣地に指示を出した。


 浮島、と言っても正式には島でない。今日の沼津市浮島地区であり、その名の通り沼や津の多い地域の中、島のような場所であったとされる。要するに湿地帯にある比較的安定した小さな場所である。

 国道一号線バイパス工事が難航したことからも知られるように、大変足場が悪い。一方、北を通る根方街道は愛鷹山の麓を通るため足場が良く、今回義元はその根方街道を押さえている。今川軍はその根方街道にある東部防御陣地から機動力を活かして南下し、浮島を押さえることで吉原城を孤立させることに成功した。

 更に、海賊衆が到着することで吉原城頼みの南側、駿河湾からの補給路を絶つ。


 吉原に詰める部将は困惑する。このままでは兵糧攻めで為す術も無く敗北してしまう。だが、こちらから攻める為には、渡河して西を攻めても意味が無い上、南の駿河湾に出ることも自殺行為である。かと言って低地の吉原から高地の義元本陣へ攻め上がるのも無謀であり、東の湿地帯へ攻めるのは弓の的になるようなものである。

 結局、彼らは東からの援軍を期待し籠城戦を選んだ。


 だが、8月中旬、吉原城は絶望する。善徳寺の今川軍付近に武田菱が見えたのである。それは1ヶ月近く義元と対峙し続けた彼らにとって、死の宣告に等しい、いや、最初から覚悟はできていたはずであるが、これまで援軍を期待し持ち堪えた彼らの心を容易にへし折る、非情な現実であった。

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