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河東の乱  作者: 麻呂
鬼手
41/52

使者

 義元の許に報告が入る。

 武田や道増の和睦提案は北条に蹴られ、吉原城は相変わらず臨戦態勢にある、と。

「他は無いか」

 近習は幾度となく報告を入れているが、催促されることは珍しい。

「上杉より使者が参っております」

「そうか。他は」

「ございませぬ」

 それだけ聞くと、義元はつまらなそうに執務に戻る。

――何か無礼があったか

 近習が不安になるほど、義元は興味無い様子で執務を続ける。

 どちらも重要な報告である。何故御館様は不機嫌なのか。

「良い、下がれ」

 近習の不安に気付いたか、義元が言う。

 はっ、と頭を垂れ、近習はその場を後にする。

 近習の姿が見えなくなると、円座ごとくるりと回り、

「御師よ」

「先程より此処に」

「分かっておる」

 ククと笑いを押し殺しながら義元が言う。決して不機嫌な訳で無く、笑ってしまうのを堪えているだけであった。

 近習からすれば心労を重ねるだけの、迷惑なクセである。

「当たったな」

 他に顔色を見る者がいないと分かるや、義元は屈託の無い笑顔で雪斎の顔を見る。

「武田には何と」

「もう少し和睦に励めと申せば良い」

 どちらの表情も明るい。

 本より北条が和睦に応じるなど思っていない。河東は北条にとって緩衝地帯であり、発祥の地となる思い入れの強い土地である。そう易々と手放さないであろう。

「我らは焦っておる故な」

 棒読みと言えば良いか、一句一句確認するよう義元が言う。

「悪手を打ってきますかな」

「相模殿の息子だ。それはあるまい」

 北条が油断し、駿府に兵を向ければ更に面白くなる。だが、氏康はそこまで愚かではないだろう。

「後は武田を試すのみ」

 義元はそう言うと上杉の使者と会うため席を立ち、雪斎に一言二言を指示を与えてから足早に広間へと向かった。


 廊下を進みながら庭の池を見る。邸内の池とは言え護岸の岩は二重に組まれてており、武家らしい迫力のある造りである。

「おるか」

 義元が池に向かって言うと、池の畔の松の陰から小さな男が出てきた。庭師の格好をしているが、足音を立てずに歩く様は庭師のそれではない。

「早々に大社参りをさせよ」

 男は黙って聞いている。

「吉田から参れば良い。道は任せる」

 静かに頭を垂れ、男は再び池の畔に戻る。

 義元は再び歩みを進め、上杉の使者の待つ部屋へ向かう。

――三島なれば氏康の声が拾えよう

 戦となれば誰しも勝利を祈念し、生還を望む。戦勝祈願は士気向上にも繋がり、戦に欠かせない儀式である。

 氏康は相模で行うであろうが、河東にいる配下は三島大社や各地の神社で大なり小なり行うであろう。神事のタイミングやその規模から、準備に余裕があったかどうかが伺え、北条の動きが垣間見える。

 そして誰が神事を主宰するのか。河東における北条家の中心は誰なのか。

 庭の男は伊賀者である。彼は義元の求めに応じ、各地に伊賀者を手配していた。義元から具体的な指示が無ければ各地で見聞きしたことを報告するだけである。

 義元はそんな伊賀者を愛用した。口数は病的なまでに少ないが、男は仲間からの報告を纏めることに長けており、義元に求められて連絡調整役兼防諜役となっている。

――河東は

 学ぶことが多い場所だとつくづく思う。善徳寺での修行から始まり、対武田戦、そして北条戦。

 どれもそんな昔の話ではない。だが、全て戦国大名としてのあるべき姿を義元に教えてくれた。

――吉原か、長久保か、御厨か。

――武田か上杉か、それとも将軍か。

 どこまで攻めるか。そしてどのような形で終結させるか。そしてどのような戦となるか。

「ククッ」

 思わず喉から笑いが零れた。河東で氏綱と戦った時のことを思い出すと、どうしても笑いが込み上げる。

 まさに命懸けであったが、だからこそ他では味わえない「何か」がそこにあった。

――戦とは

 人を狂わす、と思う。そして戦国大名は最も狂っていなければ務まらない。

 義元は一呼吸置くと、爽やかな笑顔になって使者の待つ部屋に入った。

 使者は場に相応しくない笑顔に気後れしながらもその職務を全うし、河東侵攻の引き金を引く書状を渡す。

「よしなに」

 憲政殿によしなに伝えてくれ、ということであろう。

 義元は一言使者に声を掛けると、再び雪斎と話すため執務室へと戻っていった。

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