蒲原
天文8年7月、北条軍は富士川を越えた。
「武田は動かぬ」
吉田において武田と戦を続けていたが、信虎の目論見は足止めであると見抜き、氏綱は駿河侵攻を進めた。
「が、捨て置けぬ」
深沢城や葛山城の兵を増強して万一に備える。
――忌々しい
こうなることは分かっていた。武田と今川が結ぶことは、北条にとって害悪でしかない。見よ、今ここで今川家を攻めるにしても、武田と結ばれたことで向かわせる兵も減ってしまう。
北条を守ることにその生涯を捧げている氏綱にとって、義元に対する怒りは尋常のものでない。善徳寺の勝利でも腹の虫は治まらず、義元の首を鶴岡八幡宮に飾るでもしなければ、その虫は姿を消さないだろう。
「目指すは府中ぞ」
氏綱は笑み一つ浮かべることなく征駿の途に就いた。
――南無八幡大菩薩よ、御照覧あれ――
自らが正義であると、戦国大名は疑わない。
「義父上はシカと動いてくださったようだ」
パチリ、と扇子を閉じながら義元が言った。
花蔵の際には兜布を被っていた義元であったが、今となっては一端の武将である。多少文官のようにみえるのは服装のせいか。
「既に」
手配はできております、と雪斎が言う。
河東の内政が安定してくれば、北条としてはすぐに駿府を目指したいところである。関東の敵が弱まっているとは言え、東西に分かれての戦は遠慮願いたい。とすれば速攻、短期決戦で進めざるをえない。
「春先と見たが、こうも遅れて来るとはな」
武田との戦が長引いているためであろう。
「御師よ」
義元が珍しく神妙な顔つきで雪斎を振り返る。
「負け戦とは苦しいものと教えて頂いたが」
もう二度と味わいたくないものだ、と、言う。
雪斎は口元に笑みを浮かべながら
「ご安心召され。御館様は既に修羅道におられます故」
戦は苦楽併せ持つものとなりましょう、と、返した。
「楽か」
遠江の堀越や井伊を中心とする反乱はある程度抑え込んでいるものの、領国の安定にはほど遠い状況にあり、最前線で戦う有力家臣の天野氏に兵糧を支援する等、緊張状態が続いている。
この状況で氏綱が駿河深くまで兵を進めることを「楽」に思えるとすれば、余程の阿呆か狂人である。
「五分の勝ち目があるのなら、楽やもしれませぬな」
二年前の師の言葉を思い出すように言った。
氏綱が蒲原に来るまでも抵抗はあった。が、いずれも徹底抗戦の構えではなく、一当て二当てするだけで逃げる砦さえある始末である。
「駿河兵の哀れさよ」
当主が無能だからろくな戦もできない。見放された当主も哀れだが、それでも当主の命令を聞かねばならぬ兵達は更に哀れと笑う者もいた。だが、氏綱にはどうも納得がいかない。
――罠か
風魔を中心に地形など調べてきたつもりであったが、どこか伏兵を置き、あるいは仕掛けでもあるのではないか。それとも武田の別働隊が富士川伝いに背後に現れるのか。
――罠で無くば
調略が予想以上に上手く進んでおり、義元の求心力は著しく低下しているのではないか。
――急いてはならぬな
大軍を率いているとは言え油断大敵である。罠であろうとなかろうと、拙速は戒めねばならぬ。
「哀れな兵が居ようとも、ここは駿河である」
落ち着いて進めと指示を出した。
花蔵の折にも述べた通り、由比や蒲原は海岸線にあり、街道を抑える拠点となっている。背後は山や崖があり、大軍を動かすには難しく、防御に優れた地形である。
――思った以上に狭い
薩埵峠の海側は、今日国道1号線、東名高速道路、JR東海道線が交差する交通の要で、台風情報や帰省ラッシュの際に映像で流れることが多い。この頃は山道を抜けるしかできなかったが、鎌倉の切通しが山になった様子を想像すれば分かりやすいであろう。後年、幾度か戦も起きている。
由比や蒲原はそこまで急峻な地形ではないものの、何れ劣らぬ防御陣地となっていた。
――もう少し兵を展開できると見ていたが
漏斗の中央に向かうかのように平地は狭まり、兵を展開できる場所は限られている。更に今川家は展開を阻むように陣を構えており、下手な攻撃では一方的に兵を減らされるだけである。
――チト、遅かったか
念のためにと行軍を遅らせたが、失敗であったか。
――だが、今川家中には綻びが出ておろう
善徳寺の勝利から2年。義元にとってはマイナスからの再スタートとなっており、氏綱はその隙を突いて更なる調略を行ってきた。ここに氏綱が兵を進めたことで、今川家臣団には動揺が広がっている筈である。
結果から言ってしまえば、この氏綱の読みは正解であり、間違いでもある。
内乱が起きやすい、と言うよりも外圧により家臣団が別れやすい今川家の体質は変わっていない。だが、義元は敗戦以降制度改革に取り組んでいた。一部では寄親寄子に近い体制を敷きつつあり、指揮命令系統の強化を中心とした家臣統制に取り組んでいたのである。
無論、反発する者や猜疑的な者もいたが、三河への調略や政治介入、遠江の反乱を弱体化させた手腕は家臣達に認められると同時に恐れられており、義元には逆らえない、という空気が広がりつつあった。
氏綱は横槍を恐れて海岸沿いに兵を進めさせた。手近な陣を落とさねば、兵の展開さえ困難である。
できることなら時間を掛けて戦いたいが、この戦に時間を掛けていては武田を含む相模周囲の者達が何を仕出かすか分からない。氏綱は短期で決着を付ける必要があった。
――力押ししかあるまい
山側に伏兵がいるかもしれないが、間合いをとることで急襲されることはない。海岸沿いに攻め上がれば、ある程度の場所を確保できよう。
更に、海岸を抑えることで、由比氏や蒲原氏が得意とする海戦を防ぐことができる。
そこへ、拍子抜けする伝令が入った。
「今川方の陣、早々に退いております」
詳しく聞けば、先鋒が突入しようとした際、陣を引き払い城に逃げたと言う。
――道理ではあるが
現状を見る限り、確かに城に籠った方が効率は良い。だが、何故わざわざ陣を構えるようなことをしたのか。
――分からぬ
だが、城に籠ったのであれば港を抑えて海戦を封じ、陣立てを城攻めに変えれば良い。
――今川家中は余程混乱しているのであろう。
この分なら早々に決着が付けられそうだと安堵した。
氏綱は手際良く城攻めの陣を敷き、同時に西からの援軍に備えて由比へと兵を向かわせた。
また、蒲原港を押さえたことで伊豆の海軍が試用出来ると判断し、韮山へと伝令を送る。予定よりも大分早く抑えることができたため、若干の遅れは仕方ないが、駿府を攻める頃にはここを拠点にできる。
蒲原城は堅く守られているが、援軍が無い以上1週間、遅くとも半月のうちに落ちるであろう。そのまま由比、興津と兵を進めれば、秋には駿府で乱捕りさせるのも良いかもしれない。
初日は城兵を試すように軽く兵を向け、二日目になると打って変わって激しく攻め立てるが、蒲原城内は動揺することなく守りを固めている。
動揺を誘おうとその後も緩急織り交ぜた城攻めをするものの、抵抗が弱む兆しさえ見えない。
「なかなかやりおる」
由比、蒲原は調略が通じぬと端から相手にしなかったが、家老だけでも秋波を送れば良かったか、などと考える氏綱の目に、信じたくない光景が入る。
「船が」
西の海に船が見える。二つ引きの家紋が見える以上、間違いなく今川の海軍であった。
――まずい
江尻から薩埵峠を迂回したのであろう。こうなっては即座に城の囲みを解いて逃げるしかない。
――だが、どうする
殿は間違いなく痛手を負う上、その被害状況如何では北条が蒲原城を攻めあぐね、敗北したと広まってしまう。
氏綱もまた敗北できぬ立場にいた。ここでの敗報は関東にも広まる。北条に抑えられた関東の反乱を誘発してしまうのである。
――ならば
駿河半国、河東は得られた。ここでは今川家に被害を負わせ、北条が勝った状況を作れば良い。
「燃やせ」
氏綱は兵を引かせつつ、周囲に火を掛けて回った。民心は北条から離れるが構わない。どうせ捨て置くのである。
北条は蒲原まで攻め込み、今川に打撃を与えて引いて行った。この事実は関東にも広まるであろう。そして余力があることも見せねばならない。すぐにまた攻めて来よう、と言う話を広める為、一部の兵を河東に残す。無論噂のためだけでなく、対武田戦を意識してのことである。
氏綱は相模に帰ると松原大明神に戦勝報告をした。これで関東の諸将は北条家の強さを改めて認識するであろう。
義元もまた「北条が引いた」ことを大きく知らしめた。こちらは遠江や三河向けの、反乱の意思を潰すことが主目的である。
「これで遠江を」
挟撃状態にあってなかなか抑えられなかった遠江。これでようやく仕置きできる。
この後、義元は遠江の内政に没頭することとなる。




