信虎
躑躅ヶ崎館にいる武田信虎が駿河侵攻を決断したのは、東西の外交関係が安定したためであろう。
東の武蔵国扇谷上杉家とは、天文3年に上杉朝興の娘を元服前の嫡男、太郎晴信 ―出家後の「信玄」が伝説的になるほど有名であるが― の正室として輿入れさせており、西の信濃においては、それまで争いを続けていた諏訪頼満との同盟関係が成立したことで、敵を南の今川家に絞ることができた。
現在では太陽活動の研究が進み、放射性物質の比率から15~19世紀は小氷期と呼ばれる気温の低い時代であったと言われている。戦国時代の食糧不足や飢饉発生も、この気候と無関係であるとは言えない。
ましてや甲斐国のような、西は盆地で寒暖の差が激しく、東は山岳部で農耕に適さないような土地では、その食糧事情は推して知るべしである。更に言えば、甲府盆地の西側には「腹が膨れて死ぬ」風土病があった。飲み水から感染すると考えられていたようだが、実際は水に触れることで感染するこの病気は、甲府盆地に生きる者にとって恐ろしい病であり、米が基準であった戦国時代においては、死活問題であった。有名どころでは小幡豊後守昌盛が感染しており、織田徳川による甲州征伐の中他界している。なお、日本住血吸虫と呼ばれる寄生虫を原因とするこの病気は、明治期以降研究が進み、昭和53年の感染者を最後に発症はなく、平成7年に終息宣言がなされている。
武田家が温暖な駿河を望むのは当然と言えた。
足利家に連なる名門として名高い今川家は、足利「御一家」とされた将軍継承権を持つ吉良家の分家である。
今日戦国大名家としての今川家を考えると、最盛期の「駿河・遠江・三河」の三国を領有する、又は三河を松平家のものとして「駿河・遠江」を領有する大名家と考える人が多いであろう。いずれにせよ、少なくとも駿河・遠江は今川家として認識されている訳であるが、この遠江は少し前まで斯波氏に抑えられており、これを奪還したのが9代目当主氏親であった。彼は金山開発等の産業振興に努め、今川仮名目録を制定し、検地を行うことで今川家を戦国大名として脱皮させた人物であった。ところが病には勝てず、嫡男氏輝が成人前に他界しており、女戦国大名とも呼ばれる妻の寿桂尼が14歳の氏輝を補佐し、駿遠両国の政務を執ることとなった。
「和議などあてにならぬものよ」
氏輝からすれば、武田家と同盟関係になった諏訪家が憐れであった。信濃はその山岳が多い土地のせいか小豪族がひしめいており、武田家がそれを放っておく訳が無い。順番が後になるか先になるかの差で、信濃の小豪族は武田に各個撃破されるのがオチであろう。
2年ほど前より親政を行っている氏輝は、軍事に積極的な政策をあまり採っていない。しかし、甲斐南部の信虎と敵対する国人衆を支援するなど、衝緩地帯を設けつつ圧力を加えることで、着実に勢力を伸ばしていた。しかし、信虎に動きがあったとなれば座視することはない。
ゴホゴホと咳き込むと、氏輝は甲斐国が描かれた地図を見た。横には弟の彦五郎がおり、前には土方城主福島正成が座っている。
「越前守、もう一度甲府を見てくれるか」
ピクリとも動かず、正成は沈黙した。かと言って不満がある訳で無く、脳裏に大永元年の福島乱入事件と呼ばれる甲斐攻めの記憶を辿っていた。
「もう14、5年になりましょうか」
正成はそう言うと、細い目を更に細め
「まずは穴山勢と合流し、ゆるりと府中を目指すことに致しましょう」
薄く笑いながらゆっくりと頭を下げた。