背後
氏綱、氏広の影響を受けた国人達は、河東の要衝である、長久保城、興国寺城を早期に落とすことで、北条家における立場を確かなものとしたかった。所領安堵の一筆を貰うがために命を懸けるのである。
ましてや氏綱自ら出陣している戦である。所領安堵のみならず、所領拡大、場合によっては河東における地位の向上も期待できる。
人が動く上で「欲」ほど強いものはないであろう。氏綱は氏広の立場を利用し、調略を多用することで河東を手中に収め、そして寝返った彼らを試すかのように長久保に当てた。
「やり辛いねぇ」
貞親は初戦から手を拱いていた。旧知であっても裏切り者と割り切って戦う覚悟はできていたが、どうやら家臣達と地縁血縁にある者を前線に置かれているようで、士気が一向に上がらない。
「ここまで露骨だと、手も無いか」
忠誠心を計り、また、再寝返りされぬよう兵を減らすため、寝返った者を最前線に置くことはよくある。だが、敵方に縁者がいることで再寝返りを誘発する恐れもある。ところが氏綱は敢えてこの縁者を前線に置き、長久保城の士気を下げようと試みた。
「貞親は頑なな男でございますが」
家老以下地縁血縁の世界であり、一人の心構えではどうすることもできますまい。と言うのが下った者達の長久保城観である。
ならばと縁者ばかりを揃えたが、上手く行かずとも寝返る可能性の高い者を減らせるし、氏綱としては成否はさして気にならない。それに長久保城は河東の中心にあり、富士、沼津や御厨が下っている以上孤立するのは必定である。
「急がずとも良い」
氏綱は悠々と言った。無論、嘘である。一分一秒でも早く進み、富士川までの旧北条領は確保したい。
「急いでいるハズだがな」
貞親は困惑していた。敵の焦りに乗じて多少の戦ができると踏んでいたのに、このような小細工から来るとは予想外である。とすれば既に北条の手は富士まで伸びているのか。
「三十六計逃げるに如かず、とも言ったな」
貞親は家臣達と共に落ち延びることとした。周囲を見渡せば南西の囲いが薄い。ここから逃れようと思った時、氏綱の狙いであるかと気付いたが、最早彼は役者の違いを感じるのみで、一言も発せず夜に紛れて姿を消した。
「間違いでは無いのだな」
今川館の主として血の洗礼を受けた義元が言う。
「深沢、葛山が寝返り、南一色、長久保が落ち、興国寺も時間の問題とのことでしたな」
淡々と報告事項を繰り返す雪斎は、主の様子を静かに見守っている。
既に兵の支度は整っており、前線の城では先発の兵と共に防御陣地を構築し、東から来た突然の脅威に備えていた。
「のう、御師」
「何か」
「知っておったのか」
二人の間に静かな空気が流れる。雪斎の態度は明らかに分かっていた様子であり、微塵も驚いた様子が無い。義元としてはこれまでの信頼関係がありつつも、確認せずにはいられなかった。
「北条のことよ」
雪斎は一呼吸置き、
「さて、未だ煩悩に塗れたこの身で知っていたとは申せませぬ」
「では、気付いておったな」
雪斎は義元の目を正面から見据えると、静かに頷くことで答えとした。
「何故、言わぬ」
「釈尊も」
艱難辛苦を乗り越えてこそ本質に至ったのだと雪斎は言う。
「我にも乗り越えろと申すか」
「無論。御館様は未熟も未熟」
無礼である。
敵の襲撃を察知していながら黙っていた上、未熟だからこれを糧としろと言う。
「兄を斬った我に、師が斬れぬと思うておるのか」
剣呑とした空気が漂うが、雪斎は眼を逸らすことなく言った。
「斬れましょう。斬れぬような御館様ではございますまい」
沈黙が続く。控えている近習にとっては生き地獄のような時間である。一言発すれば刃が飛んできそうな空気であり、息をすることさえ苦しい。
義元は宗三左文字を抜き、雪斎に向けた。
「世話になったが、斬る」
「御意に」
雪斎が頭を垂れ、その首を露わにすると、義元は言う。
「手痛いな」
これ以上修羅道に落とす気か、と、ため息を吐いた。
「されば申し上げぬように」
いや、と、義元は口元を歪めながら断り、
「忠言は耳に逆らえど行いに利くと申す。が、御師よ。乗り越えるべき氏綱なれど、我は勝てるのか」
と、続けた。
「五分、といったところですかな」
「これはまた」
氏綱も安い男だ、と笑うと、両手でパンと頬を叩いた。そして館中に響き渡るかのような声で伝令を呼ぶと
「天野に伝えよ。シカと支度し来月になってから井伊・奥平らに向かえと」
これほど早く北条が動けたもう一つの理由に、遠江の堀越や井伊達の謀反がある。義元はこの反乱軍を潰すことに力を注いでおり、北条への対応が後手となっていた。
そもそも堀越、井伊らは花蔵の折に恵探側に付き、義元がその力を削いだ相手である。北条からの甘い言葉に乗るのも当然と言えば当然であるが、義元にとって厄介なのは、この堀越には氏綱の娘が嫁いでいたことである。
強引に進めれば北条との関係悪化に繋がりかねないし、かと言って旧遠江国主であった堀越の反乱を放置する訳にも行かず、花蔵の戦後処理に手間取る中で懸念事項の一つであった。
河東の初期における北条と今川の動きから考えれば、遠江の背後に氏綱やその意を汲んだ三河松平の存在があったことは間違いない。
そこで義元は各個撃破されるよりも、多少時間が掛かっても確実な勝利を収めることを求めた。東の防御陣地構築もこのためである。兵を分ける多方面作戦は悪手である以上、他の手を打たねばならない。
――こちらも
北条にも二方面、いや、三方面の相手をさせる必要があろう。
「御師よ」
義元が何事が囁くと、雪斎は静かに微笑み「御意に」と返した。
余談になりますが、今川仮名目録30条では他国との結婚禁止が謳われています。
恐らく今川と北条の仲が良かった頃に、旧遠江国主であった堀越と旧家臣であった北条を縁戚にすることで、北条との繋がりを維持発展させようと、この縁組がなされた(私婚ではない)のだろうと考えていますが、これがこの時点ではとんでもない悪手になってるんですよね。
堀越さんと井伊さんは、とにかく過去の栄光にしがみ付いて、今川家を認めない雰囲気が強い気がするんですが、この辺りコミカルチックに書いてみたいと思ったり、誰か漫画でも描いてくれないかと夢見る今日この頃です。




