決別
天文6年(1537年)2月、甲斐から駿河に輿入れする松姫の行列は、苦しい甲斐の台所事情からは想像できぬような華やかさで街道を彩る。
「甲斐の春の麗しさよ」
娘を見送りつつも上機嫌の信虎が言う。彼にとって最高の春であろう。
――そんなものかね
輿入れの段取りのために甲府を訪れていた蒲原某は、信虎の言葉に首を傾げたくなった。春と言うのに雪が残り、駿河で言うならまだ真冬のような寒さである。花も無く、寒々しい山々の姿しか目に入らない。
甲府に限らず、盆地は夏は暑く冬が寒いという特徴を持つ。この小氷河期とも言える戦国時代において、甲斐の冬が如何に厳しかったか。
「まこと、景色が姫君の言祝ぎをしているかの如く」
蒲原は心にも無いことを述べると、敢えてゆっくりと頭を下げた。顔色を見せてはならぬと自分に言い聞かせながら。
「この春のような麗しい姫なれば」
きっと良い奥となるであろう、と、信虎は髭を触りながら終始笑顔でいる。
昨年は息子が将軍から諱を与えられ、左京大夫に叙せられただけでなく、花蔵で義元を支援した見返りに三条家から姫を得られ、更に甲斐にとっての悪魔であった福島正成が今川から消え、信虎にとってこれ以上無い、正に彼を祝福するかのような年の始まりであった。
この喜びを表したかったのか、この輿入れにあたり、信虎は一振りの刀を義元に贈った。以前三好政長(通称、三好宗三)から贈られた名刀「宗三左文字」である。余談ながらこの宗三左文字は義元の愛刀となり、桶狭間の後、信長、秀吉、家康と天下人の手を渡る刀となる。
――これで
今川と北条は当面邪魔にならぬ。
松姫が嫁いだ今川家は勿論、今川の援軍を得られ難くなった北条は、まず甲斐を脅かせまい。
――北条は「息子」が止めてくれよう
今回の外交は信虎にとって大勝利であった。昨年の戦には敗れたものの、それを補って余りある外交成果であった。
輿入れ行列が到着すると、松姫は「ご休息」で部屋に入った。結婚の儀は翌日であり、今日は旅の疲れを癒し、明日のための準備する一日となる。そして、義元もまた明日のために準備をしていた。
「御館様、その辺りでよろしいかと」
声の主に目を遣ると、そこには雪斎が立っていた。
「御師よ、どこから湧いてこられたのか」
義元は気まずそうに眼を逸らしながら悪態を吐く。
「地獄の鬼でもありますまいに湧いたりはしませぬ。が、御館様が扇子の持ち方を数度確認してる辺りからおりますぞ」
何をそこまで練習するのかと呆れ顔で言う雪斎に、義元は更に気まずそうに応えた。
「知らぬのよ」
「知らぬ、とは」
「女よ」
「それは」
拙僧にも解りかねますな、と笑うと、義元が続ける。
「武田の使者も多くおろう。駿河の若造はあんなものかと言われる訳には参らぬ」
だから練習している、と言う。
「武田を気にされるのと、女を気にされるのは別では」
「御師と同じよ」
稚児は知っている。だが、女は知らない。稚児の扱いも女の扱いも似たようなものであれば、やはり最初の印象と接し方が大切である。
「そう言うものですかな」
――御師に言っても分からぬ
年を取れば鈍くもなろうと言いたいところだが、情けない姿を見られた以上何も言えない。
要するに義元は格好つけたい、ということである。兄を殺し国を継いだとは言えまだ18歳。武田云々以上に、初めて女性と接するにあたり緊張をしているのであろう。
「不惑を過ぎました故、拙僧には分かりませぬな」
ン、と一度喉を鳴らすと、雪斎は反抗期の子に接するかのように柔らかく受け、本題に入った。
「ところで先日の氏綱殿の御使者。気になられませぬか」
「あぁ、母上が申しておった件か」
氏綱殿は心配が過ぎるようだと笑う。
「義元と甲斐殿が親子となれば、甲斐と相模に何か起ころうという時、子として父を止められようと申すに」
「拙僧もそう願っております」
既に後には引けない状況にあると分かっていながら、雪斎は彼の愛する弟子の目論見を再確認する。
――貴人である
人の欲には聡くなっているが、まだ世間に慣れていない、と思う。若さとは危険を孕みながらも美しく、何より心地良いものであると雪斎は微笑んでいた。
「そうか」
あれ程気にしていた輿入れの報告を聞いても、氏綱は冷静な態度であった。無論心中穏やかではないが、既に方針は決まっている。
――非才の身だからこそ
どのような手を用いてでも相模を守る。その決意に変わりは無かった。
「急ぎ駿河、遠江、三河に使者を送れ。我が出る故機を見て同心せよとな」
遠江の井伊家を始めとする国人衆や、三河松平家からの応諾を得ている。葛山に向かう頃には雪崩を打って靡くであろう。
こうなる前に、今川家に対して半ば脅しのような使者も送ったが、寿桂尼は二心などある訳ないと一笑に付した。だが、婚姻を辞めるとは最後まで言わず、氏綱を悩ませ続けた。
――それもこれも
恩を仇で返した身の程知らずの義元が分かってない為であろう。
――若造めが
苦虫を噛み潰したような表情で、思い知らせてくれる、と吐き捨てた。




