敵の敵
「流石は越前守だな」
誤算であった。寿桂尼が訪れた翌日に今川館を急襲するなど、不意を突くどころではない。
「信虎を苦しめただけのことはある」
すでに戦の準備はできており、城門を固く閉ざしていたからこそ無事に済んだが、油断していたら既にこの世にいなかったであろう。
「その武田、我らに味方させましょう」
――なるほど
義元は心底感心した。ついこの間戦った武田に援軍を求めるなど、常人には考えられない。
「『御館様』、ご心配召されるな。武田は我らに付きましょう」
義元がすぐに反応しなかったのを不安と見たか、雪斎が言った。
「いや、拙僧は良い師を持った」
もう拙「僧」ではないな、と思いながらも義元は続ける。
「越前守はさぞ恨まれておろうな」
ふと思う。御師はいつからこのことを考えていたのか。先の戦において、正成を中心に据えるよう進言したのは雪斎であるが、すでにこの日のことを考えていたのだろうか。
だとすれば、己の師は文殊か何かではあるまいか。
「北条は」
分からぬ、と、文殊が言う。福島も北条に太いパイプがあり、何より戦の上手さはそれだけで信頼となる。
「それに比べ武田は」
福島憎しで凝り固まっており、福島をこの世から消せるのならば、喜んで手を貸すであろうと。
「御師、某の見立てでは北条は来ますぞ」
「ほう、それはそれは」
「縁の太さは我らが上、そして何より福島よりも我らの方が北条にとって『都合が良い』故な」
文殊の口が綻ぶ。自らが導くと決めた秀才は、思った以上の傑物であったようだ。
「慢心は禁物ですぞ。北条からの援軍が遅ければ、それは福島の策が嵌まったということ」
「だから武田か」
「敵の敵は味方でございますれば」
「心しておこう」
義元は早速武田に書状を書こうと席を立つ。だが、再び雪斎が言う。
「御館様、もう一つ。寿桂尼様が戻り次第、遠江に参りますぞ」
「朝比奈か」
「左様。掛川は遠江の要。間違いがあってはなりませぬ。大方様の御顔をお見せするが肝要かと」
「曳馬はどうする」
「敵は福島なれば、掛川さえ落ち着けばよろしかろう」
何かに気付いたか、義元はニヤリと笑みを浮かべ言った。
「母上を早く取り戻さねばな。甲斐には朝比奈を行かさねばなるまい」
駿河の重臣であり、外交ができる朝比奈泰能が行く価値は大きい。今川家を承継するのは義元であり、武田としては謀反人となった福島を倒す手伝いをする形となる。更に掛川城の城主が留守にしても大丈夫である、ということを内外に知らしめることもできる。
「岡部、松井に伝えよ。疾く、母上にお戻り頂くようにと」
一通り指示を出すと、義元は雪斎に言う。
「御師、これで良いか」
雪斎は恭しく頭を下げた。
寿桂尼の奪還は呆気ないほど抵抗なく進んだ。駿府の岡部屋敷は福島方の方上城の近くであり、親綱らが即座に攻め込んでも場内からの抵抗は少なく、開城の条件に寿桂尼の引き渡しを求めると、城兵は素直に従った。
今川館急襲後、寿桂尼を連れて逃げる訳にもいかず、最小限度の兵しかいなかったようである。残された兵は老兵が多く、見捨てられたと言って良い。
寿桂尼が戻ると義元らは早速掛川に向かった。時を置いては朝比奈が良真側に付く可能性もあり、血縁関係からも寿桂尼の存在が必須であった。
「大方様、此度はとんだ御災難で」
泰能の下には先に送った使者から詳細が伝わっており、既に義元派としてその立場を明確にしている。
「御館様におかれましても斯様なところまでお運び頂き」
恐悦にございます、と言いながらも左程気にしていない。自身の立場を理解している泰能としては、この扱いは当然であろうと考えている。
そして義元が口を開いた。
「備中守。早速なれど頼みがある」
「堀越でございますかな。それとも井伊で」
「いや、甲府に参ってくれぬか」
泰能の顔色が変わる。
「それはどのような」
敵地に使者に行くなど、死ねと言われているに等しい。家中を二分する争いの中で、有力者の自分に使者に行けとはどういうことか。
「信虎は越前守が憎くてたまらぬ。そこで此度の戦、信虎を使おうと思うてな」
話は分かる。だが、何か裏があるのではないかと思う。一時とは言え恵探側に付こうとしたことを警戒されているのか。
「備中守、安心なされ。信虎はその方を害するほど愚かでは無い」
時期が良いのよ、と、寿桂尼は笑った。良真の件が無ければ死地であるが、今は歓迎されるであろうと。
先にも述べたが寿桂尼は叔母である。まだ若い義元の言葉よりも、寿桂尼の言葉は泰能の耳に入りやすい。ましてや今後の今川家を担うであろう3人に、死地を恐れていると思われる訳にいかない。
「大方様にまで励まされるとは。この泰能、そこまで落魄れていませんぞ」
自らカカと笑いながら、泰能は抜け目なく言う。此度の戦、この泰能の働きに掛かっておりますな、と。
その様子を見て満足したのか、義元が書状を差し出した。これを持ち、早速発って欲しいと言う。
泰能は堂々とした所作で書状を受け取り、義元に頭を下げた。
「備中守、そちの働き、期待しておるぞ」
良い跡取りができたと内心舌を巻きながら、泰能は自らの選択が間違いでなかったことに安心した。




