母
花倉の乱において最も苦しい思いをしたのは、氏輝、彦五郎を失った寿桂尼ではなかろうか。腹を痛めて産んだ子を愛おしく思わぬ母はいない。
が、ここにも謎がある。
女大名と呼ばれ、駿河遠江、そして三河の一部を氏輝が成人するまでの数年間経営してきた女傑が、果たして今川館で起こった事件に気付かないものか。いや、気付いたからこそ手際の良い二人を訝しみ、高白斎記にあるよう、福島に「同心シテ」城に入ったのか。
五月廿四日夜、氏照(輝の間違い)ノ老母、福嶋越前守宿所ヘ行、花蔵ト同心シテ、翌廿五日従未明於駿府戦、夜中福嶋党久能へ引籠ル
果たして「同心」をそのまま受け取って良いのだろうか。諸説あるが、筆者は寿桂尼が「書類」を持って花蔵を同心させるため福島の宿所に行き、その書類を奪われたとの説を採る。
今度就于一乱、於所々無于他走廻抽粉骨、剰住書花蔵ヘ被取之処、親綱取返付畢、甚以神妙之至、無是非候、対義元子孫松代、親綱忠節無比類者也、恐々謹言
岡部文書に書かれた、天文5年11月3日付で今川義元から頂いたとする書状の内容である。戦後の論功行賞の一端であろう。
内容は、住書が花蔵に取られたのを、岡部親綱が取り返してくれたことへの感謝である。
では、この住書とは何か。「じゅうしょ」とは重書(重要な書物)であり「住」が誤記という説や、やはり「住」が誤記で「注」書(何らかの書物)が正しいという説がある。
重書であるとするならば、今川家関連の書物において「重書」は将軍家関連のものに使用されていることから、この時期の将軍家に関わる書類、つまり5月3日の偏諱に関する書類であろう。注書であったとしても、取り返したことに対してわざわざ書状で礼を述べているのであるから、重要なものであったことは間違いない。
更に、大館記所収往古御内書案にはこうある。
御名字・御家督之儀、御相続之段被聞召候、尤珍重之由御気色候、仍御字以自筆被遣之旨、被仰出候、御面目至目出存候、恐々謹言、
五月三日 左衛門佐晴光
謹上 今川五郎殿
代々室町幕府の重職を務めてきた大館家にあって、姉妹が義晴の側室となったことで側近的な位置にいた晴光からの書状である。
今川五郎が誰なのか、という点も問題となるであろうが、氏親の男子は正室側室含めて、氏輝、彦五郎、良真(恵探)、象耳泉奘、義元の順であることから、穿った見方をしなければ義元で間違いなかろう。
5月3日時点で、義元が跡を取ったことを目出度いと伝えてきている。
寿桂尼はこの「書類」を持って花蔵、つまり恵探らの下を5月24日夜に訪れた。
「このように、過日将軍家より一字賜り義元と名乗られ、御家督も御承認されておりますれば」
――諦めよ、と寿桂尼は暗に言う。
そもそも、正室と側室の壁は非常に大きく、正統性から言っても義元に分があるのは皆分かっている。
だが、正成の動きには一部の国人衆が加担していた。過去に今川家に敗れた因縁から福島に付いた者も少なくない。
夜分であったことから良真はおらず、正成が対応をしている。元々正成は寿桂尼の下で働いており、互いに話しやすい間柄であった。
「跡目争いは民百姓が苦しみ、国を乱すだけにございます。それが故にこのような」
戦乱の世となっております、と寿桂尼が言う前に正成が口を挟む。
「何故この段階で将軍家、いや、左衛門佐殿より書状が来ておるやら」
何かの間違いではないかと言う。
「雪斎殿と某は水魚の交わりのようなものでしてな。共に良真様を御支えしようと約しておりまする」
寿桂尼はまさか、と思うが正成は続ける。
「いずれにせよ、すでにこのような刻限なれば、大方様にはお休み頂くがよろしいかと存じます。あいや、書状は某が明日良真様にお渡しし、良真様とは明日お目通り叶いますればご安心を」
一方的に話を打ち切ると、正成は「誰ぞある」と人を呼び、寿桂尼を寝室に案内させた。
この夜、正成の寝所から灯が消えることはなかった。




