胎動
天文5年3月17日に起こったことについては、甲斐国内の寺や、武田家臣の日記に記録がある。
「駿河の屋形御兄弟死去めされ候」
「今川氏照(「輝」の間違い)・同彦五郎同時ニ死ス」
また、最も今川家に近い者の記録としては、冷泉為和の「為和集」が挙げられよう。今川姓の使用を許可された程、今川家と懇意にしていた彼の記録では
「今月十七日、氏輝死去。同彦五郎同日遠行」
と、されている。
そして、公式記録と言える「今川氏系図」や「今川記」では、氏輝の死亡のみ記されており、彦五郎の存在は言及されていない。
あまりにも出来過ぎたこの事件については、雪斎・承芳の陰謀論が強い。為和集において事実のみ記していることから、勝者である今川義元にとって不都合なことをあえて書かなかった、とも取れる。だが、正当性を主張できる立場であるのに、何故そのようにしなかったのか。更に、勝者である義元らは、何故彦五郎の存在をあえて記さなかったのか。
更に言う。雪斎・承芳が行ったのであれば、その後の戦が後手に回っていたのは何故か。暗殺の根回し等そうそうできるものではないが、福島・恵探の方が明らかに戦の初手では勝っている。
例えば、氏輝は本当に病死し、彦五郎が家督を継ぐ前に雪斎・福島の手により殺された。家督相続後、雪斎・承芳は彦五郎を始めから無かったものとするため、公式記録から消した。と言う仮説も成り立つであろう。雪斎は福島に協力すると見せかけて承芳を担ぎ上げ、その立場を確固たるものとするため政治的な準備をしたが、福島は素直に引き下がらず、恵探を担ぎ上げて雪斎の想定を上回る戦を仕掛けてきた――
いずれにせよ、氏輝と彦五郎の死により、歴史は動き出す。
天文5年3月17日、今川氏輝は世を去った。同日、弟彦五郎も亡くなり、今川家の家督を相続すべきものが居なくなってしまった。
そして後世に言う花倉の乱、今川家の家督相続争いであり、また、戦国大名今川義元が誕生する骨肉の争いが静かに始まった。
氏輝と彦五郎の葬儀は善徳院にて行われた。氏輝には子がおらず、同腹の兄弟である栴岳承芳、そして腹違いの玄広恵探、象耳泉奘らが並び、まるで用意されていたかのような段取りで、粛々と進められていった。
「還俗されるのか」
「福島殿の婿なれば」
「承芳殿は既に」
「竹王丸殿が駿河に」
既に家臣達の間では誰が家督を継ぐのかが重要なテーマとなっており、若くして世を去った二人を心から嘆く者はおらず、己が立場をいかに守るかに頭を悩ませていた。
――誰ぞおらぬか
上座に居る福島正成は、参列者達の顔を見ながら考えた。誰が「使える」か。
自らの発言力を考えれば、このまま兄弟の順序で三男玄広恵探を還俗させ、家督を継がせることとなろう。だが、その際には自ら声を上げるよりも、誰かに促される形となった方が望ましい。家中の妬みが生じるのは止むを得ないとしても、目立って必要以上の妬みや憎しみを買うことは本意でない。
――できることなら
寿桂尼が望ましい。国母である寿桂尼が ―腹違いの子だが― 玄広恵探を指名すれば全てが丸く収まる。
――まず、無理であろうな
いつの時代も女は感情の生き物である。ここで福島に協力することが国母として最も賢明な判断と分かっていても、腹を痛めた子ほど愛しいものは無い。下手な振り方をすれば、栴岳承芳の名を出されかねない。
――雪斎が良かろう
既に栴岳承芳の師、外交僧として活躍する太原雪斎とは話がついており、雪斎に玄広恵探を指名させれば良い。されば自然と栴岳承芳を推す者は消えよう。
――まずは北条から嫁を貰うか
正成の脳裏には今後の今川家の進むべき道が ―既存路線の強化であるが― 見えており、甲斐征伐後に三河を押さえ、尾張の那古屋まで今川家の旗とすることを描いている。いや、今川家の旗をした福島家の旗か。
口元が緩みそうになるのを隠すため、正成は「ンン」と痰を切り、心中伺いにくい細い目を更に細めた。気付けば周囲は読経しており、正成も般若心経を口にしながら静かに目を閉じた。
拙い文章ではありますが、これで第1章終了です。
お付き合い下さった皆様、ありがとうございます。




