波
用心深さが良い方に向くことと悪い方に向くことがある。果たして氏綱の用心深さは吉凶どちらであったか。
「早いな」
氏綱の口を開かせたのは、太田資顕から届けられた密書である。上杉が相模に侵攻しようとしている、とある。
――が、信じてよいか。
――武田を助けるための偽書か、それとも恩を売りにか
太田資顕は間違う事なき上杉家の家臣である。その名の通り太田道灌の子孫に当たる。
北条家は関東進出を目標としており、当然のことながら関東における調略や流言等は日常茶飯事であった。
――戻ろう
偽情報でも良い。山中では多くの兵を討ち取ったし、このまま郡内に足止めされてしまうと本当に相模への侵攻を許してしまうこととなる。事実であれば尚の事。
氏綱は吉田まで攻め入ったが、ここを押さえ続けるつもりは無かった。北条家の悲願は関東であり、相模を守ることである。
「氏康よ」
帰る道すがら、見よ、と言う。この書状も戦だと。
「湖を見よ。これと同じよ。」
見れば湖畔には波が寄せて返している。氏綱は引くことを知らねばならぬと説いているのだが、氏康はまだ若かった。
「分かりませぬ。信虎の首を取ったのならばいさ知らず、我らが討ったのは弟ではございませぬか」
まだ勝っていない。と言いたいのであろう。
「信虎の首と相模一国、比べるまでもない」
「しかし」
まだ2万を超える軍勢を擁している。偽書かもしれないものに踊らされるのは不愉快、そう、若い氏康にはただ不愉快であった。
若さ故の素行に問題があるものの、氏康は愚かではない。事実、彼も引くのが正しいと理解はしている。ただ、感情の問題である。
「時間はある。ゆるりと学べ」
吉田まで侵攻した北条であったが、氏綱は何の未練も無く引いた。
北条の撤兵により武田の郡内支配は確たるものとなった。同時に当分の間北条が来ることはないであろう。今川家も北条の撤兵を知ると動きが鈍り、次々に兵を引いていった。
天は信虎に味方した。当面の間、武田家は力を蓄えることができるであろう。そして、武田家にとって悪魔とも言える存在も明確になった。
「正成こそ打ち取らねばならぬ」
信虎にとって北条の侵攻は大きな痛手であったが、北条の背後に上杉がいる以上長期戦にはならない。また、郡内は北条が撤収したら遠からず取り戻すことができる自信があった。武田にとって問題となるのは今川であり、その代名詞とも言える福島正成であった。
――正成さえ居らなんだら
と、まで思う。今回の一件は完全に読まれていた。これだけの支度ができる者と言えば、福島正成を置いて他にいない。
「何でもよい。福島に係ることは全て知らせよ」
周囲に吐き捨てるように言うと、信虎は考えた。
――何を企んでいるのか
今回の戦で、正成は自身の兵を積極的に出してこなかった。
ここで終わったと油断させ、再び侵攻してくるのか。
「わしも気苦労が多いことよ」
信虎はそう言うと、躑躅ヶ崎館へと戻っていった。




