前触れ
御厨、と呼ばれる地域があった。
駿河国河東郡の北部、甲斐と相模の国境に接する山深い地域。
土地はお世辞にも肥えているとは言えず、それでも土地の人たちは「山の向こうの郡内よりマシだ」と言いながら田畑を耕し、樵や、時に山賊に身を窶すことでその日を生きていた。
天文4年(1535年)の春の日差しは弱かったが、富士山の頂を右に見る法体の服にはしっとりと汗がにじんでいた。
郡内と呼ばれる甲斐国吉田から駿河国須走に足を進める様子には若干の焦りが見えるものの、すれ違う者には寒さ故と不審に思われることはなかった。
「冷える」
法体はそう低い声で呟くと足を止め、改めて富士山を仰ぎ見た。
「面白い」
富士山の形が、である。
現在の須走は自衛隊と富士登山の町として知られているが、御殿場インターチェンジから山梨に向かう中継地点ともなっており、須走インターチェンジ付近では雄大な富士山を見ることができる。しかし、そこで目にする我々の思い描く富士山の美しい形 ―稜線のなだらかな女性的な美しさ― とは違い、まるで大きな岩のような、富士山と認めることに多少の違和感を覚える姿を目にすることができる。
「遠くに見る富士とは天女を想像させるものであったが、かくも近付くと意外な」
そこまで口にすると、法体は笑った。
「女には近付き過ぎぬが良いとは言ったものよ」
法体の名は弥次と言い、武蔵国の相模国境近くにある清水寺の雑色であった。読み書きは得意でないが知恵の回る男で、住職の経を聞くうちに一端の僧の如くに経を詠み、寺の中で何かと重宝されていた。
甲斐の雲峰寺を経て駿河国の長興寺へ使いに行くこととなっていたが、武蔵国(扇谷)上杉氏、甲斐武田氏の同盟と、相模国北条氏、駿河今川家の同盟間で戦が続いていたため、駿河に入る際何事も無いようにと急遽得度し、宗峰という名も与えられていた。
「それにしても」
と、言いながら宗峰はペチと頭に手をやった。寒いのであろう。足元の日陰には氷もあり、春とは言え標高の高い御厨は寒い。
甲斐から駿河へは富士川沿いに下るのが一般的であるが、当然警備も厳しい。須走も警備はあるものの山岳部が多く、いざという時は ―山賊や野犬に襲われる危険性が高いが― 山へ逃げる選択肢があった。
何より法体は俗世の者ではないため、比較的警備の少ない須走では捕まる危険性が低い。
「もし、御坊様」
宗峰が鎌倉往還を下り始めた頃、一人の老婆に呼び止められた。
「先頃孫が亡くなりまして、よろしければ」
そこまで聞くと宗峰は懐から長い数珠を取出し、二輪にして左手に掛けると「どちらかな」と尋ねた。
栄養不足であろう。温暖な駿河国とは言え、標高の高い地域は寒い。冬場のビタミン不足や寒さは、幼い子にとって厳しい環境である。
「こちらで」
老婆の案内する墓地は目と鼻の先にあり、まだあまり土に汚れていない小さな石が置いてあった。
宗峰が目を瞑り経を唱え始めると、老婆はその後ろで手を合わせ、小さな声で「すまんね、すまんね」と繰り返した。それは宗峰の耳に妙なテンポで付き纏い、自然と経も早くなっていったが、弥次上がりの宗峰には気付けなかった。
老婆が礼をしたいと引き留めたが、宗峰はやんわりと断り再び足を南に向け、老婆の目を見ず「極楽往生したことでしょう」と言い、悠然と歩み始めた。彼の知る臨済宗では坐禅により悟りを開くものであり、公案もしたことが無い彼には幼い子が極楽往生するなど考えられぬことであったが、老婆の声をかき消すため、彼は極楽往生という言葉を選んだ。
宗峰の後ろ姿に最後まで手を合わせていた老婆は、彼の姿が見えなくなると近くの家に行き、家人に何事か伝えると、再び甲斐との分かれ道へ向かった。
この物語はフィクションです。
歴史上の事件や年代について、検証や細かい調査等は行っておりません。
実在の人物名・地名等もありますが、作者の史観や演出に基づくものです。
あまり投稿されないローカル歴史ものとしてお楽しみ頂ければ幸いです。