07 恋煩いに効く薬も馬鹿の治る薬も無い
一人の青年が悩んでいた、己の精神状態についてである。誰の事なのかは詳しくは言うまい、それがせめてもの情けと云うものだとご理解頂きたい。そんなものははっきり云われなくとも判るだろうと言われれば其れまでの事だが、先程も述べたが、其処は敢えて見逃して欲しい。そもそも、内容が余りに哀れだから触れないでおきたかったのだが余りにも喜劇――いや真剣な悩みを抱えている彼の姿に、その心だけでも皆さんに伝えるべきだと思ったのだ。
そう、彼は先日の王妃主催の茶会から悩み続けていた、昼夜繰り返す事、幾度も……
それこそ一心不乱に剣の修行へと打ち込み、訓練場を延々と走り、魔法訓練で精神統一を試みたりと様々な方法で邪念――と思い込んでいる気持ち――を片隅に追いやろうとしては失敗しているその想い、というよりも欲求、もう一度言葉を交わしたいという純粋な願い。今も訓練を終えて疲れ果てるまで肉体を酷使したにも関わらず、結果は毎回の如くであったのだろう、暗い顔で自室へと彼は戻ってきた。そして彼女から貰った紅茶の缶を眺めて笑顔になってしまった自分に気が付くと己の不甲斐無さに気が付いて更に落ち込む。
――これでは変態ではないかっ、己の心さえも制御できぬ自分が未熟なのか、それとも人の心とは己でさえも御し切れぬものだとでも云うのだろうか。紅茶の缶で笑みを浮かべるなど、いやこれは紅茶を――いや、言い訳に過ぎないな、確かに私の心には……だが……しかし――っそうだ!
ふと、思い悩んだ末に自室のベッドに仰向けに倒れこんだ青年は自分の趣味嗜好を確かめれば良いのではないかと解決策を思いついた、いや、思いついてしまったと言うべきだろう。人は往々にして悩み続けると解決策でも無い事を、さも素晴らしい考えであるかのように錯覚してしまう、今の彼がそうであるように。
――もしも、もしもの話だが他の子供にまで……その時は死のう、そのような時は致し方ないでしょう。呪いならば解呪できるかも知れない、今のところ一人には惹かれ、一人には驚いただけなのだから、うむ、まだ大丈夫な筈だ。
何が大丈夫なのだ『既に一人には惹かれているのだから手遅れではないか』と思われるかもしれない、しかしである、彼は至って真面目だからこそ悩んでいる点を考慮してあげて欲しい。そもそも、呪いの可能性を考えたり、自らが変態ならば、死すら覚悟する程に自戒しているのだから思い詰め過ぎであろう。それにだ、どう考えても彼の思いつきは先程記したように、碌でもない考えに過ぎない。
その翌日友人宅や孤児院を訪れた彼の姿が見受けられたのだが、数軒尋ねた結果、青年は更に悩む事になる。『それはそうだろう』と思われた事だろうが、まさに予想通りの結果である。彼が真剣に悩めば悩む程、同情と共に微笑みを私たちに浮かべさせてしまうのは、これが喜劇的――真剣なまでに彼が悩んでいる内容が内容なだけに仕方がないのだ。
――なんの解決にもならなかったではないか……いや、他の幼く可愛らしい少女達には何も思いはしない、保護欲は沸いても、話したいなどとは思わなかった。と言うことは私には? いやだがしかし、実際この胸の内の想いは何だというのだ!?
青年は思考の迷宮へと踏み込んでいく、答えの無い答えを探す為に……
当然である、中身が自分よりも長い時間を過ごし遥かに洗練された人物の魂などとは微塵にも思う筈がないのだから。外見ではなくその魂に惹かれたとすれば、何らおかしい事などないのだが、不幸な事に五歳児に惹かれたと彼は思い悩んでいるのだ。
青年は溜息を吐いて思考を中断し、そして一息入れる為に茶を入れようと立ち上がった。青年の立場からすれば執事か侍女が用意しそうなものだが、彼の趣味となっている為かポットやカップに至るまで部屋には紅茶を入れる為の器具が整っていた。悩める青年は心に住まう少女に貰った紅茶を手慣れ所作で淹れると、テラスに出て夜空の月を眺めながら香りを楽しむのだった。
一人の悩める青年を生み出してしまった――本人は全くその自覚の無い――クラウディアはクラウディアで悩める日々を過ごしていた。同じ月光の下で悩んでいるとなれば何やらロマンスの香りがする。女子の五歳ともなれば淡い初恋の一つや二つあっても不思議ではないし、中身が四十路に近いならば言わずもがなだと思われるだろう、しかし所詮は五歳の少女である以前にワーカーホリックな彼女に今生の初恋も何もなかった。では何を悩み月夜の下で夜着にカーディガンを纏ってまで溜息をついているのか……
髪の毛先程だが、当初、彼女は今現在の自分の境遇を自分なりに判断して振り返り『少々自戒が足りなかったかも?』と思い悩んだ。流石に名誉爵位までともなれば考えたようである、但し本当に一瞬でしかなかった。更に言えば、移り住んだと言っていい状態の部屋の事でもなかった、後で述べるが普通なら悩んでも良い事態だと思うのだが視点が一般人とは異なっていた、それもこれも全ては不幸な前世の結末のせいだ。
何故なら彼女が溜息を吐いたのは、この先の人生設計について大幅な修正が生じた事に対してだったのだから。名誉爵位であるから別に兵役に就く必要が生じるなどという事は無いのだが、社交界にはデビューする必要などが生じる、ある意味魔窟へ踏み入るのと同意義であるし、完全王政など歴史を知れば衰退していく制度でしかない。
王政の打倒など今のところは無いかもしれないが、やはり思うところはある。余程の権力者志向でも持ってない限り、どこの世界に実際にあの権力と欲望の渦巻く世界に飛び込もうと願うのか、得る物も大きいが失う物も大きいのだ。せめてこの名誉爵位が父に授けられていれば良かったのにと思わずにはいられなかった。
そこまで考えた彼女は暗くなる思考を放棄して頭の中から追い出した。起きてしまった事象は決して元には戻らないのだ。ならば、多少の方向転換は強いられても自ら虎穴に飛び込む事でより良い未来を掴み取ればいいのだと彼女は決意を新たに思考を紡ぐ。
――生存の為の力はもっと磨き上げよう。でも其れだけで私の生活……いえ、イザベラも幸せな未来はやってくるかしら?
彼女の知る知識からは既にレールを外れているのだが、所詮は個人一人の事、その影響がどうなるかは判らないが、物語が始まってからの流れは国外の事など含めてかなりキナ臭い状況だったりしなかっただろうかと思い返す。
――設定の知識だけだと不明瞭だし、思い込みは良くないわ……でも、舞踏会に参加する十八歳からの時点で……うん、これは伝手を通じてでも探りを入れておかないといけないわね。それにしても、よ……この部屋で本当に良いのかしら?
彼女はふと思考の海から意識を戻すと、振り返って己の宛がわれた公爵邸の一室を見渡す。思い返してみれば、僅か数日前の出来事なのだが、フューゲル公爵邸に引越しの為に訪れて、家令のマルセルに案内された部屋は当然屋根裏部屋等ではなく、さらに普通の客室や離れでも無かった。
「あの……ここですか?」
「勿論で御座います、クラウディア様は当家にとってイザベラ様の姉妹同然に御座いますれば……」
姉妹同然という台詞に嘘偽りどころか斜め上を行く待遇がクラウディアを待ち受けていたのである。まず部屋の位置からして家族と同等の扱いであり、当然のようにイザベラの右隣の一室が彼女の為に改装されて、用意されていたのだ。
引っ越すまでが5日間しか無かったのに関わらず、令嬢用にとカーテンの変更から、壁掛け布、タペストリーや絵画に至るまで模様替えを済ませて、家具等も全てがクラウディア用にと淡い黄色と白を基調とした品々で揃えられていた。 恐らく先日の服装からイメージしたのだろうが、活けられていた花がデイジーである事からもその想像で間違いはなかった。
テラスからそんな風に用意された部屋に引き返すと、彼女は自分のベッドへと倒れこんだ。流石に春先であり夜はまだ冷えるのだ、夜着に薄いカーディガンを羽織った位では寒かったのだろう、彼女はもぞもぞと毛布の中へと入り込んでいく。
――ケセラセラよ! そのうち何とかするわ。うう、ちょっと冷えちゃった。
ケセラセラ――『なるようになるだろう』と云う事なのだが、彼女にとって物事とは『なるようになるように“する”』のが人生だと思っている。男と結婚する為に仕事を辞めるぐらいなら生涯独身で構わないわと考えるだけあって、他人任せに流される人生など真っ平御免蒙るといった具合だ。ブルッと震えた姿は可愛らしいが、考えている事は平常通りである。
――これでも一応は名誉伯爵だし、この待遇も普通なのよ……部屋も快適なのは良い事よ、人生の大部分を過ごす事になる場所なのだし。
今クラウディアが寝ているベッドなど何をどう見ても貴族専用の天蓋付きの物であるし、数点の家具、特に化粧台等は王妃様達からの贈り物として送られたのだった。恐縮すればいいのやら驚愕すればよいのやらクラウディアも心情を吐露する事も忘れてただ唖然としてしまったのだが、こうした待遇になったのは、まだ跡取りとなる息子がいない公爵邸には子供用にと用意されていた部屋が大量にあった事もあったが、クラウディアの身分が一番の要因だと想像される事だろう。
何しろ名誉爵といえど伯爵なのである、しかし、その身分よりも彼女が王妃の庇護を受けている事も忘れてはいけないし、娘の命の恩人であり、それに加えて宰相であるエアハルトも妻のクリスタも本心から養子に来ないかと誘っている程クラウディアを気に入っていたというのが最大の要因だったのだろう。
――コンコン
毛布に潜りながらも聞こえてきたドアをノックする音、まだ屋敷に来たばかりであるし、厳密に言って執事や侍女達も数名を除けば、自分に仕えている訳では無いし、まだ屋敷にも慣れていないので必ずノックはされる。さて誰だろうかと扉の前の人物を想像するが、今の時間に訪れる人物に彼女は心当たりはなかったのだが、賊が態々ノックをする事も有り得ないだろうと声を掛けた。
「どうぞ?」
「クレアちゃん、まだ起きてた?」
「うん、起きてた、入って?」
扉の前に居たのは隣室のイザベラだった。そう云えば隣の部屋なのに、夜は行き来してなかったわねと彼女の来訪を嬉しく出迎えたのだが、すっと扉が開いて現れたのは枕を抱えた猫の妖精だった。
――フォォ!? も、悶え死にそう、なんて破壊力なのかしら……誰のセンスなの!? 萌を理解している侍女でもいるのかしら、それとも公爵夫人? いえ、若しかしたら公爵が!? そんな事よりも、今はこの事態の把握に努めないと……
「クレアちゃん?」
見事に意識が数瞬萌え上がっていたようで、クラウディアは瞳を輝かせながらも完全に動きを止めていたのでイザベラは怪訝そうに問いかけた。ハッ、と意識を取り戻したクラウディアは慌てずに対処してみようとした。
「すっごく可愛い! 似合いすぎてて抱きついちゃいたいものびっくりしちゃった」
「え、そう? 似合ってるのかしら、子供っぽくてちょっと恥ずかしかったのだけど……私の夜着ってこういうのばかりなの……お母様達の趣味のようなのだけど、クレアちゃんが可愛いって言ってくれるならいいかな、エヘヘ」
なにやら聞き逃した方が懸命な単語も聞こえたが、そんな事よりも、クラウディアにとって重要だったのは、モジモジとしながらも嬉しそうにそう語るイザベラだ。顔には朱がはいって益々可愛らしくなっていく。一方、そんな表情とは別に、流石にこの姿は子供っぽ過ぎるのではないだろうかと考えていたのでイザベラは内心で安堵していた。
――よ、よかったわ、流石にこの恰好だと部屋に訪れるのに勇気がいったもの……気に入ってくれたみたいだし、そうよ、もしよければ……でも今はそれよりも、目的を話さないと!
枕を持ってきている事から判る様に彼女はクラウディアと一緒に寝る為にこの時間に訪れたのだ。恥ずかしさで数日躊躇していたのだが、いざ訪れるとあっさりと褒められた事によって彼女は幸せ一杯だった。舞い上がっていたと云っても過言ではない、その証拠は見た目でも解るが、即座に聞き取ることができた。
「えっと、いっちょに寝ても良いかな!?」
「――ッ、も、勿論!?」
こんな台詞を言われたらクラウディアでなくとも撃沈大破間違いなしだろう。しかも噛みまでついていてぎゅっと枕を抱きしめた様子は胸に天使の矢が突き刺さったかと錯覚させた程の衝撃をクラウディアに与えていた。
――死んでしまうかと思った……
クラウディアの心境はその一言に尽きよう。何とか返事をしたクラウディアだが、思わずそっちの気がないのにも関わらずクラウディアの顔が真っ赤になっていた程だ。そんな彼女にイザベラは無邪気にベッドへ潜り込んでくると止めの一言を言い放った。
「クレアちゃんも似合うと思うから、今度一緒に着ましょう!?」
――私が、その衣装を着る!?
「えーと……」
「絶対に似合うわ」
イザベラはしっかりとクラウディアの手を握って目を見つめている。彼女は無意識にだが真剣に頼みごとをするときにはこうして手を握って目を合わせるのだが、これがまた断り難いのだった。今のクラウディアならば確かに似合う、似合うのだが中身は四十路に近いのだ……だから何とか抵抗を試みるクラウディアだったのだが……
――意外に悪くはないのよ、想像してみたら似合うのはわかってるのよ……でもね? 魂的にどうなのか非常に気になるの、確かに、確かに可愛いのだけど……
既に心は誘惑とイザベルの姿に魅了されていて空しい程にしか反論ができなかったのを誰も責める事は出来ない。女性は何歳になっても可愛い物を自分も着てみたいのだ。
「そう? 流石にベルちゃん程じゃないと思うのだけど」
「そんな事ないわ、きっと可愛らしいに決まっているもの、それに姉妹だし……だめ?」
「うん、じゃあ……ちょっと試してみようかなあ」
そして『姉妹で』と上目遣いからの『だめ?』の一言で見事に押し切られたクラウディアは了承する事になった。恥ずかしげに目を逸らしたのは彼女の最後の抵抗となる。
「えへへ、お揃いのを用意して貰うね?」
――ケセラセラ…………………………
それは珍しくも、クラウディアが本当にどうにでもなれと諦めた瞬間だった。
誤字脱字の指摘など大変助かってます。
感謝を!