私が変わってしまった日
『』
また夢を見ている。どこかふわふわとした浮遊感、そして最近よく見るようになったもの。夢は記憶のどうだかと言われるらしいが自分にはこの記憶の記録が無い。
(忘れているだけだろうか……)
どこまでも広い闇の中、ふと視界の隅にクレヨンで書かれたかのようなざらざらした白い靄を見つけた。靄は長方形の枠……扉のようになっていて、手をかざすとゆっくり開きやがて霧散した。奥を覗くとこれまた子供の落書きのような雑な線が歪みながらも、かろうじて廊下を形作っている。
『ん……』
「……こわいよ……だれか……」
すすり泣く声に誘われ廊下を渡ると子供部屋の前に着いた。中を覗けば隅でうずくまり膝を抱える子供がいる。顔を伏せているので誰なのかは分からない。
『……君は?』
「ぅ……ぐす……」
どうやら向こうは自分の存在に気づいていないようだった。泣くことをやめず顔を上げることもないままそこにずっといるだけで──
『……あ』
後ろを向けば、白く輝く光が現れる。夢の終わりの合図だ。この光が消える前に目を覚まさなければいけない。何となく、直感でそう感じている。
『行かなきゃ』
「……」
『明日もいるなら、また来るよ』
***********
8年前の、8月7日。
双葉町──その街にも過去に様々な事件があったが、ほんの少しテレビでも話題になり近隣住人を震え上がらせた「少女誘拐事件」もまたその一つだった。幸いにも事が大きくなる前に少女は救出されたのだが、当時小学三年生だった幼い少女はそれ以来、他人との関わりを恐れ自身の殻にこもってしまった。さらに残ってしまった問題というのは、その時の犯人が未だ捕まっていないというところにある。
時が経ち、事件の噂話は人々の間から消えていった。けれど彼女の心に巣食う小さな闇は、依然として牙を向けたままだ。
≪事件未解決 犯人逃走か≫
≪調査難航 真実はどこへ≫
早苗はその日、机の引き出しにしまっていた新聞の切り抜きを見つけ出した。奥の方で引っかかり、くしゃりと歪んだ紙切れをゆっくり丁寧に広げていく。
(何でこんなものを……)
多分これは、その当時親が捨てたものをこっそり取ったものだ。あの頃はただ恐怖に囚われ自分以外のことを考える余裕はなかった。それにこの難しい文字列を読んで全てを理解することは出来なかったはずだ。でも、たまたまゴミ箱からはみ出ていたそれを見た早苗は無意識に手に取ってしまい、そしてすぐに何故かいけないことをしているという気持ちに襲われた。誰にも見つからない場所へ隠さねばという焦りに駆られた。
……今ならもう、読めるだろう。
記事には現場写真や情報提供を募集する文が並んでいる。犯人逃走か。まだ捕まってなかったか。図太い奴め、と眉を歪める。その中で気になる一文を見つけた早苗は黄ばんだ切り抜きをぐっと眼前に近づけそれを復唱した。
「『なお警察の調査によると、事件現場には被害にあった少女の他にも子供らしき影を見たという目撃証言が出ており、さらに詳しく調査を進め……』」
(ああ、思い出したぞ)
あたしはきっと、なにかを探していたんだ。新聞を手に取ったあの時のあたしは、きっと“なにか”を思い出したかったんだ。
なにかってなんだ。
あたしは何を忘れてる。
できるなら忘れたい。全て思い出さないように、ずっとずっと奥に閉じ込めておきたいのに。
──どうして今更、知りたがるんだ?
そんな彼女が唯一の友人の誕生日を知ったのはその次の日のことで、不意に聞こえたメールの通知音で起こされた早苗は時計を見て思わず声を漏らした。
「……昼過ぎじゃない」
いくら夏休みとはいえ、いくら早苗が7月中までにほぼ全ての課題を終わらせていたとはいえ、さすがにそんな時間まで一度も目覚めず眠っていたことに驚きでなんとも言えずため息が出る。
『今日暇!?』
『起きてる?』
『お昼食べた?』
拙い動作で携帯を確認すると相手はまあ案の定……というか美涼で、短い文章が何時間かおきに送られてきていた。たった今来たメッセージには『……怒ってる?』と若干控えめな文。なんとなくしょぼくれた美涼の顔を想像し、早苗はほんの少しだけ笑った。
『怒ってないよ。今起きた。ずっと寝てた』
少し申し訳ないと思いつつ返信すると即座に返事が来る。文面から喜びと安堵が伝わってくるかのようなテンションの高さ。今度は美涼の太陽のような笑みが容易に思い浮かんだ。
『よかった!無視されてると思った!アル今日暇?うちこない?美味しいもの食べられるよ!』
まくしたてられるようにいっぺんに色々と言われると焦る、というのを美涼はよく分かっていないのか。
特に予定もないし遊びに行こうかな。それなりの準備をし、『今から行くよ』と返信をしてから早苗は一人家を出る。
「別に美味しいものにつられてきたわけじゃないけどさ」
「でも美味しいでしょっ?」
純白のクリームに包まれたケーキを大口で頬張りながら、美涼は手に持ったフライドチキンをひらひらと見せつける。机に並べられた数々のパーティー用料理を見渡して、これはもしや最初から自分の分も含めて用意されていたのでは、と思わず考えてしまう。
美涼の母と顔を合わせたのはこれが初めてで、以前写真で見たその人よりもずっと美人のように見えた。柔らかに微笑むその佇まいはまるで美涼と正反対で、果たして本当にこの二人は血が繋がっているのかと不安になったくらいだ。
「いつも美涼の無茶に付き合ってくれてありがとう」
取り皿を運びながらそう言う美涼の母に内心羨ましさを覚えつつ、こちらこそと頭を下げる。美涼はニコニコとその様子を見ながら、なんとも楽しそうにご馳走を頬張るのだ。
「毎年ね、こうやって友達と誕生日を祝うことがほとんどないから、私もすごく嬉しいのよ。美涼があなたの話をするたびに、聞いているこっちも楽しくなるの」
ほとんどっていうか今までなかったよ、と一言付け足す美涼。まあ確かに、8月の初めでは学校に行くこともないから誰からもお祝いの言葉はもらえない。それでなくとも、そもそも彼女に友達という存在すらまともにいなかったわけだが……。
一瞬だけ寂しそうに目を伏せた美涼はそれでも、赤く染まった頰にクリームをつけながら眩しすぎる笑顔を見せた。
「ありがとう。アルが一緒に祝ってくれて、本当に嬉しいよ」
早苗はこんなような、美涼が不意に見せる素直な感情に弱いのだった。
「お母さん、とても綺麗」
「そう?えへへ、ありがとう。某も嬉しいや」
「……お父さん、は?」
「あー、今は仕事で遠くに行ってるんだ。もうしばらくしたら帰ってくるよ!そういえばお土産頼んでなかったや、アルの分も頼んでおくね!」
「あ、うん、ありがとう……皆、仲良いんだね」
まあねー、とジュースを飲み干した美涼は無垢な瞳を早苗に向ける。
「アルにもお母さんはいるでしょー?」
「……いる、けど。あまり家にいないから会わない」
「へえ、じゃあお父さんの方は?」
「……しばらく顔見てない」
「……」
「夜勤、ってさ。生活リズム全く逆になるから。いるんだけど、ほぼいないみたいなもので。お互い、生活の邪魔したくない、みたい」
視線を下げた早苗の表情は曇っていて、どこか遠くを見るような目をしていて。首を傾げ考えた美涼はその理由をなんとなく自分なりに理解し、「そっかー」とだけ答えた。
「……まだまだ知らないことがたくさんあるなぁ」
ついこの前自分が思っていたようなことをふらっと口に出す美涼を見て、早苗は目を泳がせながら不思議だ、と思う。
「ねえ」
「んー?」
「どうしてあたしには、美涼が見えるんだろう」
「……いや~」
「前も言ったけど。別にあたし、霊感が強いとかそういうのないと思ってたんだけど」
「だから某死んでないもーーん!」
「そういう意味じゃないけど、でも……」
「なんでだろうね~?某も色々考えてはみたけど、やっぱり分かんないよ~!」
「……ですよね」
色々と、思い当たる節すらないんだな。項垂れる早苗に「でも!」と美涼が笑う。
「きっと相性が良かったんだよ!前にも言ったでしょ、波長が合うって!某とアル、結構いけてるペアだと思うんだよね!でしょ?」
「……何の根拠もなくて肯定しかねるね」
まあ、とりあえず、誕生日おめでとう。早苗はそう言って美涼に微笑んだ。美涼は至極嬉しそうに笑い、
「アルの笑った顔、好きだよ」
そう言って早苗を再度赤面させた。
***********
『この前商店街で見つけた和菓子屋、行列が出来ててすごい人気だった!どのお菓子も美味しそうだし今度一緒に行こうよ!』
そう約束を交わして早一週間。美涼は早苗の為にと色々してくれているらしく、和菓子が好きだと言った彼女に早速おすすめの店を紹介してくれた。他人と関わるのが苦手だと思い込んでいた早苗はなぜか美涼に連れ回されることに対して嫌な気はしなかった。理由は分からない。けれど、美涼が自分を認めてくれる度に、早苗は何とも言えない温かな気持ちになるのだ。
「……これは当てにしない」
何回か通い詰めたおかげで例の美涼お手製マップは必要なくなった。今は早苗が新たに見つけた近道を通り、かなりの短時間で美涼宅へ遊びに行くことが出来る。
(こんな裏道があったなんて知らなかった)
薄暗い裏通りを一人歩く。大通りから遠ざかり人の気配はほぼない。建物の隙間を縫うように歩みを進める早苗は、途中で違和感に気付いた。
「……?」
足音が響く。遅れてやってくる重たい響きは早苗の歩調に合わせてゆっくり追いかけてくる。こんな狭い道で人が並んで進むことはあまりおすすめできないが、追い越して先へ進むことはできるだろう。これは明らかに、後ろについている音だ。
……止まってはいけない。
直感でそう判断した早苗はほんの少し歩幅を広げ前だけを見て進み続けようとした。大きな影がすぐ後ろに迫る。美涼宅へ繋がる広い通りに出ようとした瞬間、勢いよく羽交い絞めにされた早苗は声を出すこともままならずそこで意識を失い、目的地へたどり着くことはできなかった。
***********
「まっだかなー、まだかなー」
鼻歌交じりに早苗を待っていた美涼は手にした携帯で何度も時間を確認する。相変わらず暑い日は続いていたが今日は珍しく日差しも弱く、涼しい風が吹く日だった。ベッドに飛び込み再度携帯の電源を付けると、画面には真剣な表情でキャンバスと向き合う早苗の横顔が映る。
「やっぱり道に迷ったんじゃないかなあ?また某が新しい地図作ってあげなきゃダメかなぁ!」
アル先生直々の美術講座のおかげで多少は地図の描き方がマシになったし。そんなことを考えながら天井を仰ぎ見る。
「まだかなぁ……」
早苗が約束の時間に間に合わなかったことは美涼の中では一度も無い。10分前には玄関のドアの前で待機して、5分前に勢いよくドアを開けるとそこにはひどく驚いた顔の早苗が立っているのだ。……しかし今日はその気配も感じない。時間はすでに3分前。
おかしいなあ。
メールを送った。返事はない。地図ばかり見て気付いてないのか。電話をした。出なかった。
「……うーん……」
「美涼、今日は早苗ちゃんと遊ぶ日じゃないの?」
――段々意識が遠のく。誰かが自分を呼んでいる気がする。母さん、じゃない。もっと懐かしい、懐かしい?……声だ。
「…………」
「美涼……あら、寝ちゃったの……?」
ふと気がつくと辺りは闇で、あ、見覚えのある闇だ、と美涼は思った。この前見た夢の続きだろうか。あてもなくフラフラしていると、目の前にパッと巨大な白いキャンバスが現れる。しばらく言葉が出ないまま首を持ち上げそれを見ていると、今度は巨大な鉛筆が現れ、キャンバスへどんどん何かを描いていく。
『すご~~』
呑気にその様子を眺めていた美涼はやがてスケッチの終わったそれが家のようなものだと気付き、平面に描かれた玄関へと向かう。扉部分を押して中を覗くと鉛筆で描かれた、でもちゃんとした「家」になっていた。
『あの子はここにいるのかな』
白い空間をふわふわ飛び、黒い線を避けながら一つの部屋にたどり着き、その奥でこれまた鉛筆画の小さな子供を見つけた。いつも見るあの子だ。声をかけるとその子は初めて顔を上げ、泣き腫らした目を擦った。そうか、女の子だったのか……。
『また会えたね』
「……っ」
『顔見せてくれたの初めてじゃない?』
「……っひ、」
その子が突然耳を押さえ顔を伏せたのと同時に、美涼は遠くから聞こえた足音に振り向く。ゆっくり、段々と近づくそれは決して良いものとは思えない。少女は肩を震わせぽろぽろと涙を流す。
『逃げよう』
小声で囁き、美涼は少女の手を引こうとする。しかし少女はその場から動こうとしない。今ならまだ、と急かすが少女は頑なに首を振り、蚊の鳴くような声でこわい、とだけ呟く。
……恐怖で足が動かないのは、
『自分も一緒だ』
足音が迫る。少女をかばうように背を向け、部屋の入口を睨みつけた美涼は、穏やかに、力強く少女へ言った。
『分かった。じゃあちょっとだけ頑張ろう。大丈夫。絶対に、――』
ぱち。
唐突に覚醒した意識。隣にいた母が「あ、起きた」と目をぱちくりさせる。瞬き一つ、美涼は視線をさ迷わせ、そしてむくりと起き上がる。
「美涼、早苗ちゃんとの約束は大丈夫なの?何か連絡とかきてない?」
心配する母の言葉が聞こえていないのか、美涼は一点を見つめ、うわ言のようにぽそりと呟く。
「たいようの、子……」
「え、?」
「……あ、ごめん!そう!これから遊ぶの!うん!でもちょっと迎えに行ってくるよ、道迷っちゃったみたい!」
驚く母親の横をすり抜け勢いよく外へ飛び出した美涼は、曇り空を見上げ目を細める。
「どこ行っちゃったの?」
自分には何もない。感覚だけが頼りだった。ぼろぼろの記憶と、懐かしい声だけを頼りに、美涼は全速力で街を駆けた。