君も私もずれている
「某はね、神様に怒られて存在を隠されたの。この世界で生きることを許可されてない。『存在』しているはずなのに誰からも認識されることがないんだよ」
それはまるで陽炎のように……にわかには信じがたいお話。信じるとか疑うとかいう感情ですら溶かされてしまいそうな暑い夏の日だった。
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「ぇーただいまより、私立双葉学園第一期終業式を行います……」
そう、端的に言えば夏である。皆が浮かれ騒ぐ季節が本格的にやって来たわけだ。生徒たちは成績表、休暇中の禁止事項、大量の課題の束をいっぺんに渡される。
「ハチャメチャ暑い……」
下敷きを勢いよく扇ぐ茶織のすぐ横で、お世辞にも涼しそうとは言えない格好で涼しげな顔をする千夜は怪訝そうに眉をひそめた。
「……アンタほんまに暑いのダメなんやな。こんなんまだまだ序の口やん」
「ハァ!?あんたがバカみたいにあっつい格好してっから余計にしんどいんだよ!目に毒だわ!とりあえず脱げ、それを今すぐ脱げ!」
「嫌や!ブレザー脱いだらウチやなくなるやろ!冗談も程々にしてぇな!」
教室の後ろの方でなんとも暑そうな取っ組み合いを繰り広げる二人をちらりと見た早苗は、相変わらず元気なことだとため息をこぼす。年中ブレザー姿の千夜は中々の厚着にも関わらず汗一つかいていない。対して半袖、かなりミニスカートの茶織は息を荒げ熱気と湿気にやられながら、力なく机に突っ伏した。無理もない、今日は猛暑だ。個人的に千夜の体の構造がどうなっているのかとても気になる。
「まぁウチの家族は皆寒がりやからなぁ。このくらいの暑さだったら我慢できなくはないんよ。日本人暑がり言おう思ったけどウチも日本人やな!っはは!」
「頭おかしい……完全にいっちまってるよあんた……あっつぅ……」
冷房が消された教室は段々と暑さを増し熱気の逃げ場がなくなり始める。他の生徒も友人との別れを惜しみつつ退散していく。
「あ、そういえば早苗さあ!……あれ?」
「早苗ちゃんならアンタがバテてる間にとっくに行ってもうたで」
「あー!?今日こそどっか遊び行こうと思ってたのにさー!せっかくの夏休みだよ!?遊ばんでどうする!!」
「ナサは先に課題終わらせてから遊び行こうな……しゃーないからウチが付き合ったるわ」
「……」
「よかったの?」
「うん……?」
「いや、あの二人」
「まあ、別に」
「…………」
一足先に教室を抜け出した早苗は美術室に残り一人──正確には二人──置きっ放しの道具を簡単にまとめてトートバッグに詰め込んでいた。夏休み中にも部活はあるので出来るならそのまま置いておきたかったのだが、自宅にはこれほど充分な環境が整っていない。個人製作を進めるには多少道具を持ち帰る必要があった。
(そろそろ家用の絵画セットでも買うかな……)
「あのさ、夏休み、始まるじゃん?学校お休みじゃん?」
一通り荷物を整理し終わり考え事をしていた早苗は美涼の問いかけにやや遅れて返事をした。
「……え?ああ、そうだけど……」
「美術部にも課題とかってあるの?」
「特には決められてないかな。あったとしても多河先輩のことだから『出しても出さなくてもいいわよ~』って言うだろうし。個人でコンクールに出す人とかもいるからそっちに集中させてあげたいんだって」
「えっと……アルはその持って帰る道具でコンクールに出したりするやつ描く?」
「……いや、今のところそういう予定はない」
「じゃあ夏休みの課題はそんなにない?」
「う~ん……なくはないけど、多くもないかな。普通にやってればすぐ終わる量だとは思うけど」
早苗がそう答えると美涼はぱっと笑顔を見せ安堵のため息をついた。
「はあそっか!よかった!さすがアルは真面目だね~某が見込んだ通りだわ!」
「……そりゃ、どうも。で、あたしの課題の量と美涼の夏休みは何か深い関わりでも?」
「いや、あのね!実は某の家にアルを招待したくてね!遊びに来ないかなーと思って!」
「ああ……え?」
意外な提案に早苗は少し驚いた顔をする。美涼はなぜか自慢げに鼻を鳴らして腕を組み直す。
「せっかくだから、アルを某の家族にも紹介したいしさ。久しぶりに某のこと見える人に出会ったもんだから教えてあげたいなあってね!」
「そういえばそうか……っていうか、それなら変に遠回しにしないで最初からそう言えばいいじゃない。別に遊びに来てほしいならそのくらいは断らないよ。日によるけど」
「いや、一応確認はしなきゃ、じゃない?忙しかったら別に……いや家に来てほしいっていうのはあるけどほらやっぱりアルも忙しいかなってあのその」
「……何でそんな変に照れながらそういうこと言うの……」
視線をせわしなく動かしながら指先をもじもじさせる美涼に、そういうところもあるんだとちょっとだけ目を逸らした早苗はむっと口を結ぶ。
『ともだち』、の家に遊びに行く、というのは、もしかすると生まれて初めてかもしれない。
***********
夏休み最初の日曜日、炎天下。
事前に手渡された手書きの地図とマップアプリを照らし合わせ、なんとか目的の場所へとたどり着く。……ものすごく要点の絞られた高難易度の地図のおかげで無駄に多く上下から熱を浴びるはめになった。家の場所とスーパーと二本線の道路しか描かれてない。よくこれを自信満々で渡してきたものだ。
「後で地図の描き方を教えてあげなきゃだな……」
アパートの階段をゆっくりと上り、深く息を整えてからインターホンを押す。
「どうぞ!!」
「ひゃあ!!」
まさに押した瞬間。音が鳴ると同時かというくらいの速さで扉が開き、相変わらずな笑顔を見せる美涼を見て、早苗はばくばくと跳ね上がる胸を押さえて声を荒げた。
「やめ、やめてよ!!びっくりする、てか、危ない!!急に開けるの!!」
「あ、やっぱりアルだったーよかったー!勧誘だったら閉めてたよ!どうぞどうぞ~」
汗を拭いキリリと睨みを利かす早苗を見ても何とも思わなかったのか、美涼はさささと早苗の背中を押して中へ招き入れた。
「お母さんどっか出かけちゃってるみたい、あっそこ立ち入り禁止ねー。某の部屋はこっちー」
リビングを通り抜け案内された部屋へと入る。飲み物持ってくるね、とキッチンへ向かう美涼を見送った早苗は部屋の中央、丸いカーペットの上に腰を下ろした。
想像していたよりシンプルだった。全体的に暖色系、主にオレンジ色の小物たちがよく目に付く。ベッドシーツや枕カバー、カーテンなどはおそらくセット物だろうが、派手な柄は無い単色だ。あの性格のことだからもっと子供らしい柄ものやカラフルな部屋かなと勝手に想像していたが、人は上辺だけでは決めつけてはいけないものだと改めて思う。
(……まだ知らないことがたくさんあるんだ)
彼女──美涼が私のことをまだあまり知らないように、私もあまり彼女のことを知らない。美涼はおしゃべりが好きだが、何故か過去のことはあまり話してくれなかった。それとなく話題を振っても何となく逸らされてしまう。
「……なんでだろう」
ふと視界に入ったのは、オレンジと白で統一されたタンス……の上に置いてあった写真立て。光が反射してよく見えないそれに一歩近づくと、まだ幼い顔立ちの「彼女」がこちらに笑みを向けていた。両隣には両親と思われる男女が、こちらもまた笑顔を咲かせそっと少女の肩を抱いている。
二人とも中々の美男美女で、美涼もこうして見ると何処かのお嬢様のようにも見えた。そんな微笑ましい家族写真の隣には、伏せられたまま埃を被っている写真立てがある。それを思わず立て直そうと手をかけ──
「あーーそれは触っちゃだめだよーー」
気配なく近づいてきた美涼の声に驚き肩をびくりと跳ね上げる早苗。「あ、う、ごめん」と写真から離れ、ほいと差し出された冷たいコップを受け取った。
「オレンジジュースしかなかったけどよかった?」
「うん、ありがとう」
「ごめんねー。この部屋クーラーも扇風機も無くてさ。まあ風通しはいいからこんなんで我慢してください……」
「まあ多少は我慢できるけど……それにしたって今日の暑さは一段と酷いね。これでまだ7月だなんて考えたくないよ。来月は灼熱地獄かな」
氷に冷やされたジュースを流し込むと爽やかな甘酸っぱさが口の中に広がり、ほんの少し体感温度が下がる。それでもまだ完全に火照りを冷やすのには至らない。美涼はすでに半分ジュースが消えたコップを手の中で弄びながら、ふぅっと息を吐いた。
「あのさー、何で某が急にアルを家に呼んだかっていうとさ。その……色々と話したいことがあるからなんだよね。例えば、某自身の話とか」
「っ……」
なんてタイムリーなんだろう。まるで自分の心の内を覗かれたような気がして、早苗に暑さからくるものではない汗が流れる。
「学校で話してもいいけどさ。まあ、家に呼びたいって思ったのは本当だし家族に会わせたいのも本当だったから、ついでに話そうかなって。アルも気になるでしょ?今までは特に話したことなかったから……」
どうせならお母さんも一緒がよかったなぁ、タイミングが悪かったなぁと口を尖らせる美涼をじっと見つめ、早苗は慎重に言葉を選ぶ。
「……どうしてあたしにしか美涼が見えないのか、どうしてあの時部室にいたのか、謎が多すぎてどこから聞けばいいのか分からない」
「うん。だから家で話す方がゆっくりできるよね!隠すつもりはないし、なるべく色々答えるよ」
暑い暑いと手で顔を扇いだ後、美涼は「さて」とかしこまった顔をした。
「そうだねー、まずは改めて自己紹介をします!おほん、某は谷田葉美涼、多分アルとは同世代!思春期盛りの女の子!」
「……一ついいですか」
「なんでしょう、アルテミス殿」
「この自己紹介はずっとそのテンションですか」
「……い、いいえ?」
「続けてください」
身を乗り出してツッコミたい衝動を抑えつつ、早苗はそろりと手を下げた。美涼は再度わざとらしい咳をする。
「……じゃあ続けましょう。突然ですが、今から話すことは本当に本当の話です。某がいくら変な奴だと思われていたとしても、こればっかりは本当の話なのです」
カラン、と氷の軽快な音が変に大きく聞こえる。
「某が何で他の人……つまり普通の人に見えないのかっていうのは~~その……あぁ、先に言うと某は妖怪だとか幽霊だとかそういう系のものではありません。某はちゃんとこの世界にいます。存在してます。してるはずなのに、見えてない。見えないようにされている」
「あの、もう一ついいですか」
「なんですか!アルテミス殿」
「……一体どこの空想世界の話をしてるの?」
「だーかーらー言ってるでしょー!ホントなんだってホントなんだってばー!!やっぱり信じてくれなーい!」
美涼はとても分かりやすく怒りを露わにして両手をせわしなく振り回した。子供のようなその動作とぷっくり膨れた頰を見て、落ち着け分かったから続けてくれと宥める。
「あたしは基本そういうのは信じない人だ……身の周りで起こったことが、覚えてる限りはないからね……」
「でも本当なんだよ。某は死んでないしちゃんと生きてる。生きてるはずなのに……」
「存在を否定されてる?」
「ああ、それが近いかな!そう、某は神様に怒られて存在を隠されたの。この世界で生きることを許可されてない。『存在』しているはずなのに誰からも認識されることがないんだよ」
「……生きてるのに生きることを許可されてない?」
だいぶ頭が混乱してきた。彼女は何を言っているのだろう。存在を認識されない?でも存在している?この部屋の暑さと相まって脳がオーバーヒートしてしまいそうだ。
額を押さえつつ汗を拭い、なんて壮大な話だろうと思った。さすがにこれは言い過ぎだろうとも思った。確かにまあ、美涼からは心霊類の嫌な感じはしない。生きていると本人が言うなら他に説明のしようもないだろうとは思う。
(それにしたって、なんでだ?)
「……なんで美涼はそう思うの?」
「何が?」
「『神様に怒られて』の部分。どうしてあなたは神様に目を付けられてるって言えるの?」
「……それは……」
「そうなってしまった理由に心当たりがあるなら、それを神様に謝って元に戻してもらう方法もあるんじゃない?なんて……」
特に深い意味はなく疑問を口にした。彼女は自分がこういう存在になってしまった理由を知っているんじゃないか。そう思っただけだった。そして早苗はその問いかけが間違いだったことを即座に理解した。
「…………ないよ」
「……え」
「分からない。分からないよ。何も。生まれた時からそうだった。気が付いたら家族以外には見えてなかった。誰からも認識されなかった。大人も子供も動物も……そう、透明人間みたいなさ、不思議な気分だったよ」
……早苗はその時、美涼に対し初めて得体の知れない「恐怖」というものを覚えた。彼女の表情からあまりにも感情が読み取れなかったことで、彼女自身はきっとその答えを知っていて……でもそれを自分には言いたくないのだ、と無意識に訴えかけられているような感覚に陥った。たとえそうではなかった、それが早苗の考えすぎだったとしても、そうなのかと感じてしまうほどに。そしてそれ以上はお互いに言葉を返すことが出来なくなってしまった。
「……」
「……」
「…………」
「…………」
「でもさ、」
そんな中、先に口を開き視線を上げたのは早苗だった。
「あたしは、別に気にしない」
「……え?」
「あたしはもう……美涼がどんな存在だったとしても、怖がったり離れようとは思わない。だってあなたは、優しいから」
「……某が?」
そうだ、と頷いた早苗はぬるくなったコップを両手で包み込む。
「あたしみたいな、日陰の人間に……月だのなんだの訳分からないこと言って、それでも褒めてくれた人だから。あたしが勝手に卑屈になった時、それでもまだ抱きしめてくれたから」
「……あぁ」
思い出した、という風にとぼけた顔をする美涼を真正面から見据え、早苗は落ち着いて、力強く言葉を紡いだ。
「あたしでもよければ、『ともだち』だ、って言えるなら……美涼は大事な友達。だからあたしは、あなたの言うこと信じるよ。今まで散々人を避けてたやつが、今更こんなこと言ってもいいなら……」
改めて口に出すのは、照れる。再び視線を下げた早苗を見て、美涼はいつもの笑みを取り戻した。
「今は暑いから、ハグはなしね」
「……あたしも、それは勘弁」
「えっヒドイ!そこはともだちとして『そんなことないよおいで』って言うところだよ!」
「は、はあ!?」
「……なんてさ、冗談だよ」
にしし、といたずらっぽく笑った美涼に、先程の重い雰囲気はもうなかった。
「ありがとう!アルがそう言ってくれるなら、某もそれでいいや!某の話、信じてくれただけでも嬉しいし……某たち、もう立派な友達だもんね!」
ぱぁっと花開くその屈託のない笑顔は、この暑さには似合わない、とても爽やかな太陽のようだった。
***********
「……ただいま」
玄関の扉を開け、人の気配がないリビングに向かい声をかける。日が沈んだ薄暗い部屋の電気を付けると相変わらず同じ景色。テーブルの上にはいつも通り『少し遅れます』と置き手紙がある。となると、電子レンジの中には今晩の夕食が一式揃って温められるのを待っているのだろう。
「…………」
中を覗き込み確認してからスタートを押す。冷蔵庫の中はすっきりしていた。ここしばらく仕事が忙しくて買い物にも行けなかったらしい。オレンジ色の光をぼーっと見つめながら、おぼろげに母親の顔を思い出す。
……嫌いではないのだが。
思い入れ、って、あったかどうか。
ピーッ、という高らかな音で我に返り、夕食をテーブルに運び出す。これをいつから、何回繰り返しているのかはもう覚えていない。
『それでですね……私はこう思うわけですよ』
『それクイズの答え関係ないじゃん!』
『続いての特集は今!SNSで話題の……』
『見てくださいこの素晴らしいボディ!』
ファミリー向けバラエティー、朝から同じ映像を何度も繰り返すニュース、どれも興味はない。テレビという娯楽は早苗にとってそこまで必要なものではなかった。高校受験の際に時事問題対策としてリモコンを占領していたあの頃が、早苗がテレビを見ていたピークの時期だった。特に意味もなくチャンネルを変えてはすぐに次のチャンネルへ切り替える。夕方だからかニュース番組の方が多い。
『それにしても最近は物騒な事件が多いですね』
『未解決の事件も多数ありますからね、皆さんも十分気を付けてください』
(気を付けてってなんだろう)
気を付けるも何も、この世には不条理なことだらけだし。自分だけの力じゃどうにもならない状況もあるだろう……。
「…………?」
自分一人じゃ、どうにもできなかった。
「……あの時」
あの時、?
『そうですよね。現に今でもあの事件は解決してないそうで……』
『8年前に起こった誘拐事件ですか。まだ犯人が捕まってないって言うからね、ホント早く捕まってほしいね、犯人ね』
『先程も一部情報が入っていましたが、最近また似たような事件が起きていると聞きますので……』
『一刻も早く解決してほしいですね。それでは、お天気コーナーに参りましょう……』
思い出したくない。
けど、忘れられないの間違いだ。
暗い部屋を。黒い大人を。暗いあたしが。黒い影が。
「」
テレビは消えている。恐らく、自分が今消した。窓の外は着々と闇に包まれていく。部屋の中に影が入り込んでくる。
(危険だ)
暑さが感じられない。一人のリビングは危険だった。早苗は冷めてしまった残り半分の夕食を急いで食べると、逃げるように自分の部屋へ向かった。
(あたしが、)
あたしが闇に飲まれる前に。8年前の悪夢に飲まれる前に。