君が女神になった日
「やだ……助けて……!」
「怖いよ……!誰か……!」
『…………』
『……君は?』
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嫌な夢を見た。
……久しぶりの夢だった。ろくでもない夢だったけど。思い出したくない、ずっと昔から消えない悪夢。朝から気分が落ち込んでしまった。時計を見ると6時24分。いつもの起床時間まであと26分あるが今から眠る気も無くなってしまったので、そのまま気だるい上半身をぐっと持ち上げた。まだ太陽の姿は見えないが、空は明るい水色に染められている。今日は一日晴れそうだ。
そう思いながら早苗は自室の机上に置きっぱなしのスケッチブックと3B鉛筆を手に取る。どんな時でも欠かさない日課、朝の10分間スケッチ。というのもまあ、ただの落書きの時間で大したことはしていない。これをやると目が覚める、気がするのだ。小学生の頃から続けている記憶がある。
描くものは自由。何でもいい。とにかく目を覚ますための手先の運動だ。目についたものでもいいし夢に出たものでもいい。ただし一つルールがあって、絶対に消しゴムを使わないというのが決まりだ。間違えても消さずにとっておくか、何とかして修正する。そもそも早苗自身はこのスケッチに関して「間違い」と認識したものはない。少なくとも、今までは。
「…………」
半分は無意識。途中から違和感に気付いていたがそのまま手を止めることができなかった。全体的に濃い目のトーンで描かれたそれは記憶の奥にいつも追いやるもの。狭くて暗い部屋の隅に膝を抱えて座っている少女。どことなく悲しそうな顔をして目を伏せている。部屋の奥には人がいる。どんな人かは分からない。大人の男、ということくらいしか。
ついさっき、夢に出てきた景色。こいつもだ。ますます気分の悪くなった早苗は再び布団にもぐり込む。今日は学校を休もうか。そんなことをうつらうつらと考えながら。
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つい先日、早苗たち美術部一同はコンクールと同時開催される展覧会を終えたばかりだった。あれから何とか別の絵を一枚仕上げ、前に一度見てもらった『宙』を少し手直しして一緒に提出することにした。彼は二つの絵を並べてふんふんと頷き「うん、まあまあ良いじゃない」と一言、愛らしい笑顔を見せた。他の部員たちも張り切って作品を展示していたし、多河先輩は他の部員より大きなキャンバスを3枚も出していた。さすが部長ですねと早苗が感想を述べると、彼はただ、ちょっと張り切りすぎちゃったわねと困ったように笑っていた。
展示会は土日を使い2日間行われた。提出した作品はそのまま運営に預けられ、各審査が行われたのちに発表と表彰式が行われる。会場の設営は展示会が開かれる前日の金曜日、部員やその他関係者・OBが総出で準備に取り掛かり賑やかなものとなった。もちろんそこには早苗も参加して自らの作品の展示や会場の装飾を指示通り進んでしていた。その間、早苗は会場の外からじっとこちらを見つめる目線を感じ続けていたのだが。
(……確かに終わるまで待てと言ったけど)
そこで待てとは一言も言っていない。
……雨に濡れ拾われるのを待つ子犬のような目をしながら、美涼は扉の陰に隠れてじっとその様子を見守り続けていた。
「無事に終わってよかったですね」
「今回もよかったよ。皆お疲れ様」
「結果が楽しみだねー」
全ての片付けが終わり簡単な祝賀会が開かれた展示会終了後、部員たちと解散し家路につく早苗の横をそろりとついてきたのは控えめに下を向いて歩く美涼だった。時折早苗の様子を伺うようにちらちらと目線を送る。夕日に照らされる早苗の横顔を見つめながら、美涼は何か言おうと口を開きかけるがそれは早苗の言葉によって遮られてしまった。
「……まあ、終わったよ。無事に」
「……もう話しかけて平気?」
「まあいいよ……準備するまでが大変だから、それまでだけならよかったし」
「え、じゃあ昨日今日は別に話しかけても平気だったってこと?」
「それはそれで迷惑だったかもしれないからその辺は都合よかったけど」
「そ、そう……」
少しばかり肩を落とす美涼を見て、早苗はそっとため息をつく。自分もなんだか厄介なものに好かれてしまったようだ。
「いくら話しかけていいとはいえ、これからはもっと注意深く行動してよ。授業中に話しかけるなんてもっての他だし、そもそも自分の姿が周りに見えてないって分かってるのに誰かが見てるとこであたしに話しかけるのも禁止。変に思われるのはあたしだけなんだから。あたしと良好な関係を保ってたいならあたしの言うことは基本守ってほしい」
「うん」
「……いい?」
「分かった!もちろん!」
「その返事はとても不安だけどね」
「な、何でなのさ!別にわたし変なこと言ってないよ!」
「だから不安だって言ってるの……」
人通りの少ない裏道には最近住みついた野良猫が塀の上で肩を寄せ合って眠っているだけで、この会話を知り得るものは他に誰もいなかった。
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「ん……だるい」
あれから布団を出るのを渋った早苗は、結局ギリギリの時間から気だるげに準備を始めていつも通り学校へ向かった。元より火曜日の授業はあまり好きなものではない。得意科目である古典の授業もその曜日にはない。唯一の救いである部活でさえ明日から始まる期末テストのせいで停止期間中、今の早苗は精神的にかなり厳しい状態だった。帰りのホームルームが終わりすぐに荷物をまとめ始めた早苗には帰りたいという一心しかなく……しかし、こういう日に限って面倒ごとはやたらと増えていくものだ。
「よっ!早苗もう帰る感じ?」
「何やせっかちな人やなぁ。もうちょいゆっくりしてけばええのに~」
快活で威勢のいい、やたら聞き慣れた……若干苦手な声。
すっと後ろを振り向けば、既に荷物をまとめ終わり準備万端なクラスメイト、名嘉原茶織と志摩原千夜の姿があった。相手に気付かれないほんの一瞬だけ目を細めた後に、早苗は「何?」と簡単な言葉を返す。
「何ってまあ、せっかくテスト期間で部活もないし暇なもんだから遊び行かない?と思っただけなんだけどさ!」
「ちゃうやんナサ、明日本番やしテスト勉強せなアカンからファミレス行こゆうてたやんけ!遊んどる場合ちゃうよ!」
「あ、まあほら、おんなじようなもんじゃん!?んね、早苗っちもどお~~??」
「一緒にお勉強会しない?人数多いほうが課題すぐ終わる気するやろ?」
何ともハイペースで喋る二人を黙って見ていた早苗は柔らかく息を吐き、やんわりとその誘いを断った。
「まだちょっと、展示会の後片付けが残ってるの。部室寄ってから帰るから遅くなっちゃうし、悪いけど勉強会は二人で仲良くやっててよ」
誘ってくれてありがと、と軽く付け足した後、早苗は鞄を抱えて早足で教室を去る。それをしばらく見ていた茶織と千夜はやがて顔を見合わせ唸った。
「……悪い子やないねんけどなあ?どっか引っ掛かりがあるというか、見えへん壁があるような気がしてならんのよね」
「色々と考えが読めないってーかね……まあいいや、チヨどーせ暇っしょ?このままどっか遊び行こうよ!」
「だーかーらァ!明日テストやって何度言わせんの!もうちょいしっかりしいよ!」
わいわいと騒がしく教室を去る二人の後ろ姿を見ながら、柱の影に隠れていた早苗はほんの少し罪悪感に苛まれながら今度こそ本当に美術室へ向かった。
ごめんね。嘘をつくのはあんまり得意じゃないんだけどさ。
美術室のすぐ隣にある準備室の鍵をこっそり取り出し、慎重に鍵を開け中にすべりこむ。別に悪いことをしているわけではないのだが、なんとなく見られていないかと気になってしまう。
多河先輩のツテで美術準備室の合鍵を持たせてもらっている早苗はいつでも自由に美術室へ入ることができる。もちろん部活のない時でも。……あくまで早苗に「悪事を働くことはない」という信頼があるとはいえ生徒にそう易々と合鍵などを作って渡せたら大変なのでは?と、早苗自身も最初に彼からこの鍵をもらった時はさすがに驚きを隠せなかった。
「大丈夫大丈夫、早苗ちゃんなら心配ないだろうしと思って!何か急に部屋使いたいってなった時にいいじゃない?と思ったから、これはあなたに預けるわね」
その時こそ笑って鍵を渡してくれた多河先輩だけど、今考えてみればどうして??という疑問ばかりが浮かぶ。そもそも彼はどこからこの鍵を調達したのだろう……。
「……あまり深く追及してはいけないのかもしれない」
本命の美術室へ入ることに成功した早苗は扉に備え付けられたカーテンを少し閉め、誰もいない部室の窓際に置かれたパイプ椅子を開いた。椅子に座って暖かい日差しに背中を撫でられ、外から漏れてくる風に任せて心を落ち着かせる。家に帰ると別のことをし始めるのは分かっているので、テスト期間になると大体こうして部室で一人の時間を過ごすのだ。無論、ちゃんと勉強もしている。
若干睡魔に揺さぶられつつ、ふと目をこすった早苗は部屋の後ろに置かれた本棚へと視線をやる。おぼろげに感じ取った気配を探ろうと棚に並べられている数々の資料や分厚い美術関連の本の背表紙を端から順番に見ていった。
「それ、面白い?」
ぶっきらぼうに投げかけた質問は、がらんとした教室に結構響いた。ぱちぱちと目を瞬かせると、視界にはさっきまでいなかった「人」が、パッと急に現れるのだ。ゴッホの伝記を手に持った少女――美涼は、ふんふんと頭を上下させながら自分の世界に浸っているようだ。
「自分の耳を……恐ろしい、よくもまあそんなことができるよね。頭おかしいというか何というか、うーん理解に苦しむ」
「それは一人言のつもり?そうだとしたら結構うるさい方なんだね、美涼」
「うるさい?それはよく言われるー。でも今のはちゃんと話しかけてたんだけどなー」
「一人言かと思った。ちゃんと言ってくれなきゃ分からないじゃない」
「そっちから話しかけてきたのにそんな言い方ないでしょー!?」
「……冗談だよ」
早苗は鞄から美術の教科書を取り出して静かに勉強を始めた。その間も美涼はぶつぶつと一人言のような会話(のつもりらしい)を続けている。
「怖いわー、芸術家にはちょっとおかしな人が多いんだね?……あ、いやもちろんおかしな人ばかりではないのかもしれないけど見た感じ、あれだよね、ね?」
黙りっぱなしだと無視していると取られ、そのまま拗ねてしばらく姿が見えなくなることがある。後の対応が面倒なので、早苗は時折「そうだね」と適当に相槌を打つようにしていた。そのうち効果もなくなるかな、とは思っていたがこれが意外と効いているようで、美涼は早苗の相槌が止まらない限り終始口を開いている。他人と話せることがそんなに楽しいのか、いつ見ても実に感情豊かな話し方をするのだ。
「ねえねえさっきのさ、あの騒がしい二人は友達?なんかあんまり近寄りたくない、って顔してたね」
「騒がしいを美涼に言われたくないと思う。……まあ、一応。友達っていうか一方的なところはあるけどね」
「あの黒髪の女の子、喋り方面白いね!関西弁?にしてはおかしなところがある気もするけど」
「千夜ちゃんか……親戚が関西出身だったりとか、テレビの影響で方言にハマってるらしくて口調もごちゃごちゃになってるみたい。向こうの人が聞いたら使い方が違うって怒られるかもね」
「ふーん。それにしてもあの上着暑くないのかな?もう7月になりそうだってのにずっと着てるし、見てるこっちが汗かいちゃうよ」
「事情はよく知らないけど、一年の頃からずっとそうなんだって。『制服は学生の特権や』とかなんとか。年中ブレザー着っぱなしらしいけど、さすがにやりすぎだよ」
別に白シャツ着てベストにスカート穿いてれば学生には見えるだろうに、と早苗は理解できないという表情を見せた。
「もう一人は見て分かる通り騒がしいよね!なんかテンション似てる気がする~~」
「……あたしと?」
「やだなー!アルのことじゃないよ!某に決まってるじゃん!だってアルは自分でもあの子とは合わないってなんとなく分かってるんでしょ?」
「…………?」
「ナサってあれだよね、宇宙管理……違うなんだろ、宇宙調査とかなんか色々研究とかすごいことしてるやつだよね、あのほら、宇宙に関すること。それが由来なのかな?あのあだ名は……」
そうだよ、よく分かったねと返事をするのを後回しにし、早苗は美涼に問う。
「……アルって何?」
「ん?何って、アルはアルだよ」
至極当たり前かの如く、美涼は上機嫌で頭を揺らし今度はフェルメールの作品集を開く。ふと気がつけば教科書をめくる早苗の手は止まっていた。
「あー!これ知ってる見たことあるー!青いターバンの女…………真珠?真珠の耳飾り?あれ?某勘違いしてたのかな……」
「質問の答えになってないけど?アルって何のこと?もしかしてあたし?あたしのことをそう呼んだの?」
「あれ、話してなかったっけ。そうだ話してなかった!これから君のことはアルって呼ぶから、よろしくね~」
「なんで?あたしの名前とそれは何の関係性も見えないけど、どういういきさつでそうなったのか教えてくれない?」
そう言うと美涼はふふんと鼻を鳴らし、本を閉じて早苗の方を向いた。
「教えてしんぜましょう、アル殿。つまりは、つまるところ、アルとはアルテミスの略。言いやすいように略してお名前をお呼びしているのでございますぞ」
「その変な口調はいらない。アルテミスって何?」
「……聞いたことない?アルテミスって、月の女神の名前だよ。なんと女神さま。かっこいいね!元々は狩猟の神様だったらしいけども」
「……なるほど、あなた意外とメルヘンチックなんだね。で、どうしてあたしが月の女神様なんてほど遠い存在の名前で呼ばれることになったの?」
「だって似てるから。太陽の光を受けて強く輝く月と、君が!」
──似ている、と。
要するに彼女は何が言いたいのだろう?頭の中には一瞬で様々な思考がぐるりと巡り早苗を困らせた。
「それはつまり、遠回しにあたしを馬鹿にしてるって、そういう解釈でいいの?」
「えっ違う違う! えっとつまり、アルを特に強く光らせるのはその才能。それがあるからアルは強く輝いている、特別な存在になっている。君がそうありたいなと望んでも、望んでなくてもね。だからそれがなくなると、アルはいわゆる……」
「誰からも相手にされない普通以下の人になるだけ」
言葉を遮られ口をへの字に曲げる美涼と、あまり他人に見せることのない不愉快さを露わにした早苗の目がぱちりと合った。
確かに自分は天才とかと言われるのは苦手ではあるが、しかしこういう言い方で自身についてのことを言われるのが生まれて初めてで、この複雑な心境はどう処理すればいいか分からなかった。早苗の中に憤る、という感情が湧き上がる。
「そう、そうだね、その通りだよ。あたしにはあれ以外に何にもない、ただの人間だ。あたしにはあの才能があったからここまで人から構ってもらえたり信頼があったり、一方的にでも仲良くしてくれる友人がいる。それがなければ今のあたしは無かった!ただの消極的で無愛想で他人が苦手なひねくれ者だ……知ってるよ!自分ではこの力のこと過信していないつもりだけど、無意識にでもこれがないとまともに生きていけないって分かってるんだ!」
──ハ、と我に返る。今まで聞いたことのない、珍しく感情を外に出したその声に、美涼はひどく驚いたような顔をして早苗を見つめていた。
「……だから、間違ってないよ。そう。……大声出して、ごめん」
最後のごめん、は小さくすぼんで美涼にはほとんど届かなかった。気恥ずかしさと悔しさに顔を伏せた早苗に、勢いよく飛びかかった美涼は力強く彼女を抱きしめた。
「な、なに……!」
「女神はね!月はね!見えない部分も素敵だよ!満月ばかりが綺麗なわけではないでしょ?半月も三日月も……新月だって、そこに月が存在しているから見れるんだよ。光と影、両方で魅せてくれるからすごいんだ!全部引っくるめて素敵なんだよ月は!」
目を白黒させながら見た景色は溢れんばかりの満面の笑み。まるで太陽のようなその明るい笑顔を見て、ああ、この子は馬鹿だと改めて思う自分がいる。
「君の魅力は光って見える部分だけじゃない、君そのものだよ!だから某はアルって名付けた!アルの才能はアルがいてこそのものだから!」
「……なん、て?」
「だーかーらー!普通とか普通じゃないとかどうでもいい!才能も本人も、全部含めたアル自身が一番の魅力ってことだよ!だってアルがずっと絵を描いていられるのは、純粋にアル自身が描こうって思ってるからでしょ?それ自体がすごいことなんだよ!」
その裏表のない、まるで幼い子供みたいな思考。まだ出会って数日しか経っていないこの不思議な少女からそんなことを言われる衝撃。
……とても変な気持ちになった。屈託のないその笑みに照らされたかのように、早苗はへにゃりと眉を垂れ、少し潤んだ目を閉じた。
──彼女は、一体何者なんだろう。
「……あたし、どうすればいいか分からないの。感情の整理の仕方もよく分からないし、どうやって他人と向き合えばいいのかも。あなたみたいにいつも明るくなんていられない。なんにも自信が持てないんだ」
「そっかそっか、でも大丈夫、自信持って!だって某はアルの良いところ、結構知ってるもんね!」
「……ほんとに?」
「ほんとほんと!だって君は、某のこと見つけてくれたじゃない!それで何だかんだ怒ったりしてても、最後はこうやって某とお喋りしてくれる……すごく嬉しいんだ、いっぱい感謝してるよ!」
「そう……そうなんだ。……ありがとう。今までそんな風に見てもらえたことなかったから変な感じ。それに、こんなあたしでもちょっとは誰かの役に立ててるんだね」
やっとのことで美涼が離れ、早苗は体が少し軽くなったように感じた。それが単純に美涼の重みがなくなっただけではないこともなんとなく理解して、改めて疑問に思っていたことを聞けるようになった。
「ところで美涼、その『某』ってのは、あなたの一人称のつもり?」
「え?あ今更!?遅くない!?いやほら今日の歴史の授業で先生が言ってたのを聞いたから、中世の武士の一人称は某って言って……なんかかっこいいなって……」
「それ、意味とか何も知らずに使ってるでしょ……」
彼女の稚拙さには呆れたが、きっとこのくらいの方が……結構、気楽そうだ。