君の心に映ったかい?
消えてしまった『想い』を探して
「才能がある」とか「天才だ」などという言葉はあまり好きではなかった。
それは昔からそうだ。テレビで聞いたり人が言われる分には特に何も思わないが、自分がそういう風に言われるのは何となく気になるものがあった。天才だね、なんて言葉をかけられると、こちらがなんて返せばいいのか分からないし反応に困る。元より反応が薄い自分だから、下手に対応すると薄情だと取られてしまうこともある。中々難しい。
……嬉しくないわけではない、けれど。つまり私が何を言いたいか。要するにそういう「少し人と違うだけで特別扱いされる」ようなことが好きではない、んだと思う。
どことない疎外感は、時が経てども消えずに残る。
きっと自分はひねくれ者なだけだったのだ。
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「はぁ。駄目ですか」
夕暮れを迎えようとする美術室には私と部長しかいなかった。時間的にもそうだし、何より今日は美術部の活動自体が無い。窓の外では練習を終えたサッカー部が帰宅の準備を始めている。が、私はどうしても今日、今度のコンクールに出す為の絵を講評してもらおうと思い、たまたま用事があって居残っていた部長をわざわざここへ呼び出したのだ。部長、もとい先輩はそのお願いを快く受け入れてくれ、そうして現在下校時間ギリギリまで美術室に居座っている。
「そうね……なんていうか、ん~……直感的に、テーマが薄い気がするわ」
先輩と呼んだその人は中性的な声でそう言った。男だが何とも丁寧な口調で。誰に影響されたかは知らないが、物心つく前からそんな話し方だったらしい。外見は普通に男子高校生(?)だけど。少し周りと違うところといえば、ちょっとだけ見た目が良くて、性別が若干女寄りということだけだ。
「まだまだということですね」
「うん、パッと見の印象を言うなら第一印象は悪くない。けれど、この絵にどんな感情が込められたのか、と言われたら……そこまで魅力的な絵ではないと思うわ」
先輩の前に置かれたイーゼルには、キャンバス一面を埋め尽くす藍色と漆黒のグラデーションが描かれた私の絵があった。『宙』と名付けたそれには、中央からはじけ飛ぶ星の欠片を模した様々な色彩の点が超新星かの如く散りばめられている。背景にうっすらと象られた丸い恒星達はその存在を上手く隠しながら、それでいて自己主張を忘れない程度にほのかな光を魅せる……というイメージ。自分としてはそれなりに時間を掛けて描いた作品だし、細部の描き込みに関してもここしばらく類を見ないほどに頑張ったつもりだ。それでもやはり自分の評価だけでは善し悪しなど分かる訳もないので、こうして部長へと助言を求めた。そして厳しいおことばを受けた。
「感情……ですか。先輩、中々難しいことを言いますね。いや別に文句を言うわけではないですよ!ただ、その……絵に込める感情、っていうのは……」
「そんなに深く考えることはないわよ」先輩はくすくす笑った。相変わらず可愛らしい笑い方である。でも普通に男子だ。美男子とでもいうものか。脳がバグる。
「それはね、うーん……実は僕にもよく分からないわ。感覚だから。その時の感覚で、そうなっちゃうからね……早苗ちゃんはそういう経験、あんまりないの?」
そう言ってそこで初めて多河先輩は私の方を振り返り、見た。
多河先輩の眼は過去の事故での名残か、夕焼けの暖かいオレンジ色など全く相手にしていないような鮮やかな翡翠色をしていた。詳しいことはよく知らないが、そんなような噂話が同級生の間で囁かれている。
「……すみません、分かりません。意識したことないですね。……もう少し頑張ってみます。締め切りまであと一週間はありますし」
「うんうん、もう少しゆっくり伸び悩んでもいいのよ。時間に関しては気にしなくたって。この絵も確か仕上げまで3時間と少しぐらいだったでしょう?このサイズでそのくらいなら申し分ないわよ。早苗ちゃんはセンスがあるんだから、もっともっと良い絵が描けるかもね」
多河先輩は、ぱちんと可愛らしくウインクをして私を褒めた。大体こういうことを言い出したらそれは先輩なりの優しい警告にすぎないのだが、それでも嬉しかった。
「じゃ、僕はこんなもんでいいかしら。まだ何か聞いておきたい事とかある?もしあれば今のうちよ」
そう言って先輩は、実にしなやかな動きで伸びをした。
「いえ、他は特に何も。先輩、わざわざ時間を割いてくれてありがとうございます」
「やだもう、そんな改まらなくていいわよ!僕としても、あなたのことの方が気になるわ。なんてったって自慢の後輩だもの。頑張ってちょうだいね」
多河先輩はそう言って部室を後にしようとし、最後にまた私の方を振り返って微笑んだ。
「コンクール、僕もいくつか作品を提出するつもりだから。あなたの作品も楽しみにしてるわね。早苗ちゃん」
その時の先輩の笑みはいつも以上に妖艶で美しく、そして『男』だった。彼の眼が一瞬だけ仄暗く、紫の光を放った気がした。
(……疲れてるな、あたし)
彼が部屋を出たのを確認し、緊張を解くように息を吐き出して、早苗──元島早苗は帰る支度を始めた。キャンバスはそのままに、イーゼルの足元に散らばっていた道具を片付ける。早苗は基本、部室に置いてある備品は使わない。何か問題が起きた時のことを考えて常に自分の物しか使わなかった。使い慣れ親しんだ道具を手際よくまとめていく。
時々作業の手を止めてキャンバスを見る。夕焼けに照らされ半乾きの絵具がつやつやと光る。黒くてもあそこまで照らされればさすがに光るか。そしてまた淡々と作業を開始する。油を処理し、ペーパーパレットをまとめ、筆を洗い、蛇口をひねる。
「へー、油絵の具かあ。ベタベタしてるかと思ったら意外とそうでもないんだな」
突然、本当に唐突に、その声は聞こえた。
一瞬のうちに全身が硬直し動けなくなる。筆を握ったまま、後ろからの声に驚きをそっと飲み込む。キャンバスの方から聞こえたそれに覚えはない。先輩でもなければ他の部員でもない。先生が来た様子もなかったはずだ。
「…………」
怖いもの見たさ、ではないだろうが……そう思いながら早苗はゆっくり後ろを振り向きその正体を見た。
早苗の絵をぐっと食い入るように見つめるそれは、少なくとも人間の姿をしていた。早苗と同い年くらいの少女。黄色寄りの濃いめの金髪が夕焼けのせいでよりまぶしく輝く。着ているのはこの学校の制服ではない。赤茶色のベスト、黄色ラインが入ったスカート、ロングブーツ。一番目に焼き付いたのは、右片方だけ結ばれた三つ編みとそれを留めているビビッドピンクのリボンだった。
「ふんふん……なるほどね??なんかでこぼこしてて面白い!でもほとんど真っ黒じゃつまんなーい……あ、ちょっとだけ黄色も入ってるけどさ……」
そう言いながら謎の人間?は早苗のキャンバスを遠慮することなく触っている。早苗の存在などまるで気にしていないようで、まだ乾ききっていない所に触れた時はぴぇぇと変な声を出した。多少の恐怖心は残っていたが、それはそれ。さすがにこれ以上は黙っていられないと、そこで早苗は行動に移す。
「……あのさ、誰だか知らないけど、あんまり触らないでくれない?それも一応作品なんだけど……」
恐る恐る、控えめに注意を促すが相手は何の反応も示さない。無視しているというか、聞こえていないような素振り。
「あの、そこのあなた、聞いてる?あたしの絵、触らないでって言ってるの」
今度は少し大きな声で、確実に届くように言う。そこで初めて、少女は肩をぴくりとさせて辺りをきょろきょろと見回す。……いや、すぐそばにいるのにその反応は何なのだ。遠くから叫んだわけではない。今こっち向いただろうに、と早苗は少しムッとした。
「なんだ……?幻覚か、いやゲンチョーっていうのか、これが」
「ちょっと、幻聴じゃなくてあたしがいるでしょ?わざとやってるの?全然面白くないからやめてよ!そこのあなたに言ってるの」
「あなたあなたと呼ぶ声がする……誰だろう、誰に向かって言ってるのかな、あ!あそこの石膏の顔にかな!?名前はなんて言うのだろうか!?」
「そこの金髪でピンクのリボン付けた三つ編みのあなたに言ってるんだってば!」
痺れを切らした早苗はついに、その少女に近づき真正面に立って怒鳴った。そこで改めて早苗はその少女の顔をじっと見たし、少女も早苗の目をじっと見つめたまま瞬きせず見ていたのだ、が。
「……君さ……わたしのこと……見えるの?」
少女が放ったこの一言に対しては、さすがの早苗も驚きの表情を隠さずにはいられなかった。
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早苗がこの不思議な少女、谷田葉美涼と出会ってから早4日が経った。
その日のホームルームが終わると、早苗は一直線に馴染の部室へ向かう。美術部の部室は2階、早苗たち二年生の教室も2階、廊下を少し歩けばすぐに着く。
部室に入るとすでに何人か部員が揃っている。といっても他の部に比べたら少ない方だ。新入生が4人、三年生が2人、なぜか二年生は早苗しかいない。月曜日は元々部員が少ない日ではあるけれど、他の人は用事があるとかで帰ったのだろう。早苗としては、できるなら部員が少ない方が今は嬉しいので好都合ではあった。多河先輩の姿はない。
三年と一年に軽く挨拶をし、普段陣取っているスペースで道具を広げて早苗は作業に取りかかる。コンクールの締め切りが迫る中で室内の雰囲気が少し神経質になっている一方、早苗はいつもと変わらない様子で準備をする。この前の絵は保険として取っておいて、また新しい絵の制作を始めていた。
(感情、ね)
描くもののイメージは、頭の中で出来上がりさえすればすぐにでも筆を執ることができる。特に難しいと思ったことはない。描こうか、と思えば腕は勝手に動いてくれる。余計なことを考えていなければ……。
「ほへ~~直接絵の具をそこに塗るんだ~~。あのさ、よく画家が使うあれあるじゃん、木の平べったいやつ、あれ使わないの?名前わかんないな……なんか丸いあれ、指入れるやつ」
もしも早苗がこの場で一人作業をしていたなら、横からの茶々入れに対して確実にツッコミを入れていたはずなのだが、今ここにはこの状況を理解できないであろう人間が大勢いる。早苗は目の前にある絵の具の塊に集中してなんとか作業を続けようとした。
「っていうかあれ?結局この前の黒いのはやめたんだ?あれ結構いいなーって思ってたんだけど。今から描き直したら大変じゃない?あ、でもなんか君すごい人だっていうからその辺は心配しなくても平気……」
突然、早苗はガタンと立ち上がり、無言のまま早足で部室を出ていった。訳の分からない他の部員たちは怪訝そうにお互い顔を見合わせる。
「あ、ちょっと待ってってば~~どこ行くの~~?」
早苗の他には誰にも聞こえないその声も、早苗の後ろをついていくように移動した。
「急にどこ行くのさ~~!心配するじゃないかぁ」
その声は呑気そうに言いながら前を歩く赤茶髪を追いかける。ある程度教室を離れ人の少ない場所まで来ると、早苗はそこで初めて大きなため息をついた。
「……本当に勘弁してくれない?頭おかしくなりそうなんだけど」
呆れたように腕を組み、早苗は声の主、美涼をじっと睨みつけた。当の本人は頭の上にハテナマークを浮かべて「なにが?」という顔をしている。
「あのね、見て分かる通り、皆今度のコンクールに向けて一生懸命絵を描いてるの。あたしもそう、ここから新しく一枚描き上げなきゃいけないの。ちょっと集中させて!?この前もそう説明したじゃない!」
「えーだって、君は数時間であの絵を描けるくらいすごいんだから実際そんな時間はいらないって……」
「そういうことじゃなくて!いい?短時間で絵が描けるっていうのは、そのくらい絵に集中しててそれに没頭してるから作業が捗ってるということで、別に横からの雑音にまみれながらでも絵が描けるっていうわけじゃないの!要するに邪魔されながらじゃ無理ってこと!」
ふむぅ、と顎に手をやり、美涼は少し難しい顔をする。
「そんなったって、……他の人には、聞こえてないし?」
「じゃあどうしてあたしには見えてるし聞こえてるの?本当最悪……ああもうなんでこんなことに?」
「邪魔する気はないんだよ、ただわたしは君を応援したくて……」
「あたしを応援したいって気持ちがあるならほんの少し黙っててくれない?せめて人がいるところと、あたしが作業してる時ぐらいはさ」
「それってほとんどだなあ……むうう、せっかくわたしと波長が合う人が見つかったと思ったのに、なーんか残念」
落ち込んだ様子でため息をついた美涼はがっくりと肩を落とす。早苗はそれを横目で見て、少しばかり言い過ぎたかと視線を落とした。
「……あたしと出会ったタイミングが悪かった。せめてコンクールが終わるまで、……ああ、そのあとは期末テストだ、まあそれはいいからさ……あと数日なの、コンクールまで。それが終わるまで、悪いけどあたしにペラペラ話しかけてくるのは禁止。あとついてくるのもなし。それだけは約束して」
「……はあ~~い……」
「やることやって落ち着いたら、あなたとはまたちゃんと話すから。あたしだってあなたのことは気になってるし、色々と聞きたいこともあるから」
「あなたじゃなくてみーすーずー!」
「……美涼、だから今はよろしくね」
「は~~い!」
相変わらず呑気で元気な返事をする美涼に対し、早苗は「先行き不安だ……」と額に手を当ててため息をつくしかなかった。