上腕二頭筋を蝕む蟻の話
私がこの話をしようと思ったのは、死が迫りつつあることに気がついたからかもしれない。
しかし、自分が犯してきた罪のすべてを話すことはできない。それは雇い主にも迷惑がかかる。それに私の職業倫理が、それを許さない。
だから語れることは仕事についてではなく蟻のことだ。
なんの比喩かと思うかもしれないが、そうではない。地べたを這いずって餌を取る、ちっぽけな黒い虫そのものの話だ。
だが、そいつは地面にではなく、私の右腕に住んでいる。
この仕事につく時、母は特に反対しなかった。もともとこれはわが家系の業であり、諦めていたこともあったのだろう。代わりにちっぽけな1匹の蟻をくれた。
その時まだ私は若く、この蟻の意味をよく知らなかった。ただ母が蟻とともにくれた「命は命を食いつぶして生きているそれを知りなさい」という言葉だけが、やたらと心に残った。
蟻は母の手を離れるとすぐに私の肩口に食らいつき、肉をうがち、腕の中潜り込んでいった。痛みはあったが、小さな虫のやることだ。身悶えるようなこともなかった。
こうして1匹の女王蟻が、私の腕の中に住み着いたのである。
30年も昔のことだ。
年月が流れ、私はいっぱしの殺し屋となった。汚い仕事ならいくらでもやった。
人の命を奪う仕事というのは、同時に自分の心を殺す仕事でもある。私は人を殺すことにためらいも痛みも感じなくなっていた。腕の中にありがいることなどは、十何年も忘れていた。
ここからは雇い主の都合上、詳しい事は聞かないで欲しい。
ただある時、私は殺しの現場で幼い少女に出会った。その子はただ偶然に殺しの現場に居合わせただけの、哀れな目撃者である。
路上に転がった死体と俺の顔を交互に見比べて、少女は大きく目を見張った。そして、何かを叫ぼうとした。
だから、殺した。躊躇も慈悲すらもなく、殺した。
目撃者を生かしておいては私の身に危険が及ぶ。命を守るため、自分が生き延びるための殺しであった。
弱肉強食は自然界の掟。少女は私より弱かった、だから私が生き延びるために食われた。何の罪悪感を感じることもない。
だが、現場の片づけをしようと小さな死体を右肩に担ぎあげた瞬間、違和感があった。
「痛!」
右の二の腕の内側に、差し込むような痛み。
「くそ! 蟻か!」
もう何年も忘れていた――私の腕の中には、一匹の女王蟻が住み着いている。
痛みの中心を左の親指で強く押す。圧を嫌がるように、痛みは数ミリほど左へと動いた。
「食ってやがる……」
そこから骨に向かって、ちくちくと痛みは刺す。
かしりと一口、もちゃりともう一口、小さな肉片を内側から齧りとっているのか。
「くそ! 鎮まれ!」
左手で強く右腕をたたけば、担いでいた少女の死体が大きく跳ね上がり、俺の頬に汚い体液がとんだ。それでもさらに二度ほど、腕を叩く。
痛みが止まる。それは唐突な静寂を俺にもたらした。
ここは薄汚れた路地裏だ。煉瓦と漆喰で雑に作られた、薄汚れた壁の狭間だ。足元に転がっているのは薄汚れた金で肥え太った、汚い男の死体。担いでいるのは赤黒い体液で汚れた少女の死体。そして、返り血で薄汚れた私。
何もかもが汚い。
「シャワーが浴びたいな」
熱い湯に打たれて、このドロドロの世界ごと流れてしまえばいい。私も、そして蟻も……
それからしばらく、私は蟻のことなど忘れていた。その頃には裏の世界で知られた顔になっていたのだが、罪もない幼い少女を殺したことなどとうに忘れて、依頼にない人間さえ自分の保身のために平気で殺すような、冷酷な男になっていたのだ。
冷たい奴だと思うだろうか。だが君は、傷の痛みが引いた後も存在しない傷を痛がるかね?つまりはそういうことだ。あの少女の死は私にとって、すぐに痛みのひくようなかすり傷だった。
汚いと言われる仕事の一通りには手を染めたが、一番儲けさせてもらったのは娼婦の斡旋だ。
もちろん、まっとうな職場じゃない。女を肉人形としか思わないような客を取らせる、ど底辺の安宿、裏稼業だ。女はすぐに壊れるのだから『商品』はいくらでも売れた。
女を仕入れたいとき、私は酒場に行く。もちろん、きれいな酒場じゃあない。『あぶれた』女はいくらでも見つかった。
不法入国者、計画性のない家出娘、暴力夫から逃げ出した中年女、その出自はどうでもいい。その中から足が付きにくい、死んでも惜しくない女を探すのがコツだ。私はこれが得意で、散々に稼がしてもらった。
マリーも、そんな女のうちの一人だった。あばただらけの醜い女で、顔の右半分が酷く腫れあがっていた。
「昨夜の客よ」
マリーの言葉を信じるなら、彼女はもとからの娼婦だったということだ。それも劣悪な店の。
「どこでもいいわ、今のお店以外なら」
だから、マリーを売ることに罪悪感は感じなかった。いつも通り、彼女を女衒に引き渡せば終わるはずだったのだ。しかし、同業だった彼女は女衒の悪名を聞き及んでいたらしい。そしてこれから売られる先がどんなところかも。
「もっと稼げる、まっとうなお店を紹介してくれるって言ったじゃない!」
あの金切り声を思い出すと今でも蟻が疼く。
女衒の男はひどく痩せていた。その痩せぎすの体に黒いスーツ……安いつるしのものだろうか、妙な光沢のあるものだ。手足もきろきろと細く、長い。
(蟻だ)
スーツの上からも分かるほど骨ばった腕が肘のところでかしり、と曲がり白いワンピースを着たマリーを捉える――なぜだろうか私は幼い頃を思い出していた。
それは暑い夏の昼下がりのことだった。宿題をしていた私は窓から気まぐれに飛び込んできた羽虫に集中を削がれ、少々苛立っていたのだ。でなければ、あんな残虐なことをするわけがない。
それは脚ばかりが長く、体は妙に細い、頼りない翅虫であった。
捕まえるのはさして難しくはなかったが、指先でつまんだその虫は、もがく。六足をばたつかせ、胴を捩り、投写紙のような翅を震わせて、私に慈悲を乞うようであった。
私は容赦などしない。薄いはねを、細い脚をもいで、羽虫を庭先に投げ捨てる。うろちょろしていた蟻が、それをすぐに見つけた。群れる、群がる、齧る、哀れな羽虫にたかる。
羽虫は、それでも生き意地汚く胴を跳ね上げて、蟻を振り落とそうと無駄な抵抗を試みる。いきり立った蟻が大顎を大きく開き、柔らかい羽虫の腹にがっつりと食らいついた。
単調に腹を振るばかりだった羽虫は飛び上がり、不規則にのたうち回るがもう遅い。
蟻は容赦などしない。触角をせわしなく振り、羽虫を抑え込む。
その蟻と、あの羽虫に、似ている。
「痛……」
右腕が傷んだ。強く、鮮烈に。穿たれる。
「蟻め!」
私のつぶやきに気付くものがいなかったのは幸いだ。それほどに女衒は蟻に似た男だったのだから。発達の良い顎は大きく前にせり出し、あれが縦に開くなら、まさしく蟻の大顎と見間違えることだろう。顔のつくりは痩せているのに、目玉ばかりがぎょろりと大きく、鼻柱は横に広くて平べったい。
(蟻だ)
私は痛みをごまかそうと、左手で腕をつかんだ。右の二の腕の内側、親指を上に向けると前面に浮き出す太い筋肉の塊のあたりだ。
最初に感じたのは、わらしべのように細い空洞一本を押し潰す、頼りない感覚だった。
「ふむ?」
気のせいかとも思った。それほどに細い空洞の感触だった。
筋組織に沿って幾度か肉をつまむが、硬く鍛えられた肉が指先をはじくばかりだ。
(蟻だ)
チクチクと刺すような痛みが三つ。しかも私の思い違いでなければ、その痛みは腕の中を這いまわっている。肩付近で感じていた痛みは、すでに腕の真ん中に到達しようとしているところであった。
(蟻だ)
普通であれば迷妄として片付くことであろうが、私の腕には母がくれた蟻が住んでいる。
痛みをつまみ、指の腹を使ってゴリゴリと押し潰す。肉の厚みに阻まれて音こそ聞こえなかったが、小さい何かがプツリとつぶれた感触、痛みが止まる。代わりに、背骨から皮膚の上へと感覚が一気に駆け抜けた。
細い、ごつごつとした、節で区切られた、六脚が、無数にはい回る、ぞわぞわとした、寒気に似た、不快感。
(蟻だ)
体の内側を埋め尽くすほどの蟻とは、一体どれほどの数なのだろう。だが私は、わかっていた。
たった一匹の女王蟻、それが生んだ無数の子虫たちは私の体内に巨大な巣を作ってしまった。地面に小さな穴をあけ、そこから深く深くへと星を蝕んでゆくように、私の肉片をひと齧りずつのかけらに変えて食らってしまった。
目の前では女衒とマリーがまだもみ合っている。私の体の中に何万という蟻が巣食っていることなど、表からは少しももわからないということか。
(蟻だ)
私は女衒という蟻に、マリーという羽虫を与えてしまった。それも生きるための金を得るためだと思えば仕方のないこと……生きていくため?
いや、違う。本業の方でもそれなりに稼がせてもらっている。毎日飯を食い、酒を飲むのには多すぎるほどの金が、私の財布には入っている。
もっといえば、こんな他者の命を奪うような仕事などしなくても、人は生きてゆけるのだ。
「蟻だ」
その言葉は自分に向けての悔悟だった。
私の生き方はなんと蟻に似ているのだろう。道端に食えそうなものがあれば意地汚くなんでも拾う。そして巣に持ち帰り、ため込む。
いずれは巣の仲間に食わせるという目的があるのだから、まだ蟻の方がましだ。俺は溜め込んだ金の使い道すらない。
マリーが女衒に噛みついた。かよわい羽虫では、それが精いっぱいの抵抗であった。女衒は長い手を振り上げて、マリーの頬を打った。
どんな音がしたのかすら覚えてはいない。ただ、それであきらめたのかマリーはおとなしくった。女衒に引きずられるままに車に乗り込む瞬間、彼女は私に射殺すような恨みの視線を向けた。
何度も言うが、マリーは不細工な女だ。あばただらけの腫れあがった顔は見苦しい。おまけに女衒とのもみ合いで髪を振り乱し、まるで幽霊のようなありさまだ。その女が、一身総魂の恨みに燃える瞳を見開いて、こちらを睨みつけている。
ぞわっと再び、蟻が這った。
それからしばらくして、マリーのことも忘れてしまった私を、君は軽蔑するかね?
私は相変わらず汚い仕事をして報酬を得ていた。金さえもらえるなら仕事を選ばないようにまでなっていたのだから、無節操この上ない。
真っ当なところを歩いてきた人間にはわからないだろうが、選り好みさえしなければこういう仕事はいくらでも依頼があるのだ。国まで覆しかねない要人の殺害から、チンピラが抱きあきて始末に困った女まで、どれも同じ命を奪うという行為には違いない。
私は、他者の命を食いつぶして生きていたのだ。
それに気が付いたころには、すでに手遅れだった。蟻が……
その日、私はとある依頼を果たすために大きな家の前に車を止めた。依頼者がだれかは詳しく聞かないでほしい。ただ、ヒントを出すとすれば、若い愛人と結婚するために対抗組織の襲撃に見せかけて妻子を殺す、そのための工作費すらはした金だという大物だ。
標的が罪もない女性と、まだ年端もいかぬ子供だということさえ、その頃の私にはどうでもいいことだった。何しろ人などいくらでも殺した。その中には女も、子供もいた。私にとって標的とは、『まだ死んでいない人間』という認識しかなかったのだ。
だからその仕事もいつも通り、殺して、偽装して終わりのはずだった。標的に興味を持つ必要など何もなかったのだ。
私は足音を忍ばせて、標的の待つ寝室へと忍び寄った。すでに床に入って子供を寝かしつけているのだろうか、柔和な女の声がドア越しに聞こえる。
「こうして、二人は、ずっと幸せに暮らしました。めでたしめでたし」
そんな都合のいい人生なんて、現実にあるわけがない。この世は汚くて、埃っぽくて、歪なくせにくっきりとした事実しか存在しない。
案の定、子供の声がした。
「ずっとっていつまで?」
「いつまでも、よ」
「姫も、王子様も、年をとったら死んじゃうんだよ。いつまでもなんて、おかしいよ」
「そうねえ、じゃあ、死ぬまでの『ずっと』かしら」
残念ながらこの女にはその程度の『ずっと』がせいぜいだ。かつては子供を産むほど依頼主から愛されていたのだろうが、その愛も消えた今、こうして私に殺されようとしている。
ドアに手をかける。右腕がツキンと痛んだ。
(蟻だ)
深く深く深く深く深く深く、皮膚の下、肉の奥、神経を直接齧られる痛み。
思えば、蟻の母親は幸せだ。夫よりも強い権力を持ち、自分の産んだ子供たちに囲まれて暮らす。
だが、あの女はどうだ! 夫に殺し屋を差し向けられたあの母親は!
これから私がこの部屋に押し入れば、彼女は子供の命を私に乞うだろう。床にはいつくばり、頭を下げ、自分は殺されてもいいから、せめて子供は、と。哀しいかな、人間の子供は母を守る大顎も、力強い六足も持たぬ脆弱な生き物だ。母親が命乞いをする横で、なすすべもなく立ち尽くすしかない。
私は、今からこの部屋に飛び込んで選ばなくてはならない。半狂乱になって泣き叫ぶ母の前で子供を撃ち殺すのが先か、恐怖に声も失って震える子供の前で母親を打ち殺すのが先か……どうせ二人とも殺すの だから、ほんの一瞬のことだ。その、ほんの一瞬の恐怖をどちらに赦すかの選択権は、私にある。
蟻が相手ならよかった。巣からはい出してきた黒い虫は、どれだ親だか兄だか、私たちには区別すらつかない。その中から無作為に二匹を選び出し、ひねりつぶせというなら、こんなに思いまどうこともないのに。
右腕のチクチクとした痛みは、かゆみを伴って私の神経をいらだたせた。
(蟻め!)
掻痒の代わりに、ぎゅっと腕をつかむ。指先が皮膚の下の空洞をつかみ、ぽこんと小さく凹んだ。
何の空洞かって? 蟻の巣だよ。やつら、いつの間にか私の上腕の筋組織に沿って巣を作り上げ、右腕の内部を洞の様にしてしまった。山に転がっている木の枝が、中から虫たちに食われてもろくなった奴、あれだよ、あれみたいなものだ。
ともかく、だ、そんな朽木を強くつかむ感覚が、私の左の掌に伝わった。皮一枚下は空洞だらけの組織片と成り果て、押すたびにもろり、もろりと指の形に沈む。
それがとてつもなく恐ろしい。
この朽木のような右手に握りこんだ鉄の塊、黒い死神の化身は、今、二人の人間の生殺与奪を握っている。私がではない。あの二人の命を奪うのはこの銃だ。
(蟻だ)
見れば見るほど、黒い硬質の物体は蟻に似ているように思えてくる。
私は今まで、自分の意志で引き金を引いたと思ってきた。だが違う、引き金など死のきっかけに過ぎず、私はただ、引き金を『引かされていた』に過ぎないのだ。
蟻というやつは貪欲だ。地面に落ちているものならなんでも拾う。草の実でも、虫の死骸でも、もっと大きな動物――たとえば人間だとて、命尽きて地に伏した瞬間に彼らの餌となる。だから、この右手にとっては殺す相手がだれであろうと、どんな人格だろうとかまわない。ただ食餌とするために、無作為に選びだした者を、何の躊躇もなく……?
私は奇声を上げてドアを蹴破った。あとは怯えて抱き合った親子の姿しか覚えていない。どちらを先に撃ったのか、どちらに何発撃ち込んだのか……気付いた時には部屋中に肉塊と血が飛び散っている、汚れた静寂だけが私の目の前にあった。
残虐だと思うかね? しかし、今こうして君に過去の懺悔をできるのは、あの親子を殺したからだ。依頼主は気難しく、冷酷な男だった。仕事をしくじった男を許しはしないだろう。私たちの世界での仕事の失敗はね、そうして死で償うのが習わしなんだよ。
しかし、この仕事で殺した親子のことを、私は忘れはしなかった。
それから、私は何件もの医者を訪ねた。右手の蟻どもを何とかしてもらおうと思ったのだ。
医者は仰々しくレントゲンを撮り、それを白い蛍光灯にかざしながら、決まってこう言う。
「特に異常は見当たりませんよ」
それから、私の病状を神経のせいにして、精神科の受診を勧めるのが常だ。
だが、誓って言おう、私は狂ってなどいないし、右腕は日に日に細くなってゆく。これが精神のせいだとは思えない。
ある夜のことだ。私は右腕の痛みと、小さな泡が無数にはじけるような音で目を覚ました。音の出どころは右腕の、その内側だ。大きな鎌を向い合せたような、彼らの大あごの存在を、私は神経に直接感じた。
(蟻だ)
ぐちゅり、ぷちりと食む一口は小さい。だが、とんでもない数の蟻たちがいっせいに、その小さな一口をあっちに向けこっちに向けして、私の腕の中を掘り進んでいるのだ。
暗い部屋の中には、雨が降るような音が響いていた。
(蟻め!)
くっと皮膚を押すと、うぞうぞと蠢く虫の脈動。
私はさらに強く皮膚を押した。圧を嫌がってか、うぞうぞと、痛みが右に左に、散る。同時に爪先から頭の先へと、幾万幾億もの蟻が這うような悪寒。
(蟻だ、蟻だ)
袖をめくりあげてみれば、腕の内側、ひじから三寸上がったところに、ぽちりと小さな穴が開いていた。傷ではない、穴だ。
柔らかい皮膚を穿っているというのに、きれいに丸く開いている。どれほど深いか知らないが、のぞき込むと暗い。これが奴らの巣の入り口であることは確かだ。
私は枕元にあった車のキーをつかみ、部屋を飛び出した。真夜中の道を、車で走る。
これも名前は明かせないのだが、私のような輩を専門に扱う闇医者がいる。腕は確かだし、ちょっと多めに報酬を包めばいくらでも無理を聞いてくれる。そいつのところへと向かったのだ。
診療所のドアを叩いた私がどんな顔をしていたか、おそらく憔悴していたのだろう。医者は若い男だったが、寝間着姿のまま、私を中へと通してくれた。
診察室の椅子に座って、最初に私がしたのは、右腕の切断手術を懇願することだった。これにはさすがの闇医者も驚いたらしく、彼はしばらく黙っていた。
私はしびれを切らして右腕を差し出す。
「簡単なことだ、これをそっくり切り落としてくれればいい」
「しかしそれじゃあ、あんたは殺し屋として使い物にならなくなるぞ」
意地汚いことに、私は躊躇した。一匹狼で裏稼業をわたってきた私には、およそ仲間と呼べる者がいない。この右腕に握った銃、ただそれだけで自分の命をつないできたのだ。
血に汚れた右腕を落としても、身にまでこびりついた咎が消せるわけではない。自分を守る手立てさえ失った哀れな羽虫をいたぶるように、俺を殺したい蟻が群がるに違いないのだ。
私を殺したい奴はいくらでもいる。恨みを買うには十分なだけの命を奪ってきた。私の存在自体を消せるのなら、自分の悪事の精算をしたがる輩もいるだろう。銃を持つ腕を失って、そういうやつら相手に生き延びることができると思うほど、私は不遜ではない。
「死ぬだろうな」
「ああ、間違いなく死ぬ。あっという間に消されるだろうさ」
医者はのろのろとカルテを開いた。
「だいたいあんた、この前うちで検査したときに異常は見つからなかったじゃないか」
「神経性のものだ、精神科へ行けというかね?」
「いや、あんたには必要なかろうと思って言わなかったが、うちで診てやる」
こういう仕事には適正というものがある。神経が細いくせに間違ってこの道に入り込んでしまった奴らは、十中八九が神経を病むのだ。闇医者が精神科の知識を持っていても、何の不思議もない。
「じゃあまず、あんたの腕に蟻が入り込んだ、そのいきさつから聞かせてもらおうか」
医者は蟻の存在を否定しなかった。肯定もしなかったが、それはかえって現在の状況ありのままを語ることを許されたようで、私には気安かった。
だから、あの日、母に蟻を埋め込まれたことを、私は語った。この話を他人にするのは、この時が初めてであった。
長く沈黙して、時に短く相槌を打ちながら私の話を終わりまで聞いた彼は、難しい顔をして「ふむ」とつぶやいた。
「蟻というのは、あんたの中にある何らかの観念の具現かもしれないな」
「いや、確かに蟻だった」
「あんたがいるっていうんだ、蟻はいるだろうさ。ただ、それが他の人にも『蟻』として見えるかどうかというのは怪しいものだがね」
「ふむう?」
煙に巻かれた気もするが、少なくとも他の医者たちよりは真っ当な見立てだ。
「どうすればいい、この蟻は?」
「念のため精神安定剤を処方しておこう。虫下しもいるかい?」
それが面白くもないジョークだとわからないほど無粋ではない。私は医者に向かって笑って見せた。
「ああ、体の中身が全部出てしまうほど強力なのを頼むよ」
「ま、それは冗談なんだが……」
医者も笑っていた。慈悲にあふれた、実に医者らしい笑顔であった。
「あんたには、まずやらなくてはいけないことがあるんじゃないのか?」
「蟻の巣にしょんべんを流し込むことか?」
「違うよ。母親に聞くことだ」
ジョークで緩んでいた空気が、一気に引き締まった。
「精神科医として言わせてもらえば、『蟻』に具現される何らかの暗示を母親から与えられた……つまり母親による洗脳だね、そういう見方もできる」
「しかし、本当に蟻が……」
「現実に蟻がいるとしても、それを君に与えたのは母親だろう。どちらにしても答えを持つのは君の母親であり、精神科医ではない」
「なるほど、一理ある」
私は医者が差し出した処方箋をつかみ、立ち上がった。
「今はちょうど、タラが美味しい季節なんだ」
こういう稼業では、自分の出自を語るような行為は愚行とされている。それでもこの医者に出身地を匂わすような言葉を投げたのは信頼している証、診察に対するチップ代わりのつもりであった。
向こうもそれは心得ているようで、とぼけたような、軽い挨拶の言葉を返しただけであった。
「へえ、いい里帰りになりそうだな」
「ああ」
郷里に帰るのは何十年ぶりだろう。この稼業に入ってからは母との連絡すら断っている。
もしも私に恨みを持つものがあれば、真っ先に狙われるのは身内の、それもかよわい老婆であろう。だがそれは、母の身を案じてのことではない。私の身上を詮索されたり、人質を取られて面倒な戦いを強いられたりという、そういう一切合財が煩わしかったからだ。
私はここまで、私のことしか考えずに生きてきた。ならば一時くらい、母思いの息子を演じるも、何かの罪滅ぼしにはなるだろうと、打算含みの帰郷でもあった。
結論から言うと、母はすでに死んでいた。
私の生家は、電車を降りてさらにバスで数十分という海沿いの田舎町にあるのだが、買い手がつかなかったのだろう、家は朽ちて傾いでいた。
無理矢理に引き戸を開けて家に上がり込む。庇の一部が崩れて、私の背後にガラガラと瓦が落ちた。
今夜はここに泊まろうと思う。朽ち崩れた家に埋もれて死ぬのなら、それもまた一興だ。母が死んだ今、私を蟻から救ってくれる者などいない。彼奴らはいずれ腕から全身に広がり、私の体の中身を食らい尽くすのだろう。どちらにしても死ぬ身なら、どこでどう死のうが大した問題ではない。
朽ちた畳の上にごろりと大の字になる。野天で眠るよりはよっぽどか上等だ。
(蟻め)
右腕が疼いたが、もはやそこに触れる勇気すらない。今朝、少し掻いただけで皮膚が剥がれ落ちた。薄く、脆くなっていたのだ。
はがれた皮膚の下に作られた巣を、私はつぶさに見た。蟻は、確かにいた。
子供のころ、蟻の巣を掘り返して遊んだ、あれに似ている。筋組織に沿って刻まれた細い道に、蟻が右往左往する。いきなり日の光を当てられて驚いたのだろうか、子虫を咥えているものもいる。たくさんの触角がぞわぞわとせわしなく動き回り、日の当たらない部分にもぐりこもうと狼狽する様子にあきれて、私は剥がれ落ちた皮膚を元通りにかぶせて蓋をした。
特別に思うところがなかったのは、私の心までが彼奴等に食いつぶされているからだろう。「ああ、やっぱりな」と感じただけである。
ともかく、元通りに張り付けた皮膚がずれないように包帯を巻きつけて家を出た私は、こうして生家の腐れ畳の上に身を横たえたわけだが、それでも、感慨はなかった。
幸いに蟻どもも大人しい。ここが自分たちのルーツであると、すべての始まりなのだと感じているのだろうか。
馬鹿な! 蟻は何かを感じたりしない。
それでも久しぶりにゆっくり眠れそうだと、私は目を閉じた。
夢を見た。本当に久しぶりの夢だ。夢の中で私は、一匹の蟻だった。
いや、語弊がある。蟻のように暮らす、平凡な男だったのだ。
勤め先は地元の工場だ。工員たちは揃いの作業服を着て、作業ラインで黙々と機械的に仕事をこなす姿は蟻を思わせるものだった。
勤めが終われば、決められた道を通って家へ帰る。それもまた、狭い小部屋から小部屋へと決められた道筋をたどる蟻に、なんと似ていることだろうか。
家には、家族が待っていた。妻はマリーだった。不細工なことを除けば、実に気の回る、かわいらしい性質の女だ。
(ああ、そうだ。あいつを拾った時、確かにこまごまと世話を焼いてくれたっけ)
テーブルの汚れを拭き、俺のグラスがからになる頃合いを見計らって次の酒を用意するような、よく気の付く女だった。不細工ながら、笑った顔も愛嬌があったように思う。
そうだ、マリーにはマリーの人生があった。あの日、あそこで私と会わなければ……もっとさかのぼって私が裏稼業なぞに手を出さなければ、彼女にもささやかな幸せを選ぶ権利があったのかもしれない。
(マリーは今頃、どうしているだろうか)
考えるまでもない、死んでいるに決まっている。あの女衒には、稼げなくなった女を養っておくような情けなどない。
(そうか、死んだか)
一人で納得しながら目を覚ますと、早朝の薄明かりが電気すら通っていない家の中にゆっくりと射し込みはじめていた。眠りなおすには夜が浅すぎる。
それでも夢の余韻が残っているようで、私は少しばかり瞼を閉じた。
(俺はたくさんの命を奪ってきた)
生きている知り合いよりも、手にかけた命の方が多いくらいだ。今までぷちりと無作為につぶすだけだった命に思いをはせる。
あの時殺した目撃者の少女、あれはどんな子供だったのだろう。当然親がいて、学校に通っていて、何か習い事の一つでもしていたかもしれない、そんな普通の少女だったはずだ。
あの妻子は? 依頼者はひどい男だったが、あの母親は至極真っ当に見えた。私が殺さなければ、明日も、明後日も、子供に本を読み聞かせ、優しい会話を交わす、平凡な夜は続いていたのかもしれない。
(蟻は、私か?)
羽虫にたかった蟻のように、弱っている獲物にとどめの大顎を撃ちこんだ。そこには感情さえもなく、ただ食餌のために、機械的にすら見える虫と同じ、無慈悲しかなかったではないか。
(いや、蟻に食われたのは……)
案外、私の人生なのではないだろうか。
先ほどの夢のような、ささやかな幸せで満足する人生もあったはずなのに、私はそれを手放した。その瞬間から少しずつ、硬い地面から砂粒を穿り返すようにゆっくりと、大事な何かを蟻に食われ続けていたのかもしれない。
(母は?)
ふと気になったのは、私に蟻をよこした母の真意だ。私の人生が蟻に食いつぶされることを、母は本当に願っていたのだろうか。
「確か、この辺に」
あることを思い出して、私は身を起こした。私が小さいころから母は、「あんたに何かあった時のために」と、壁と箪笥の隙間にへそくりを隠していたのだ。子供のころは私が急に病気をした時の病院代や、学校の集金などのたびに引き出されて、ちっとも溜まりはしなかったが、ははがあの金を自分のために使ったことはない。
幸いに家具などは置きっぱなしにされており、その箪笥もそのまま、部屋に残されていた。
右腕が疼く。だから私は、左手だけでその箪笥を引き倒した。
何十年も蓄積したホコリはもふっと舞い上がる。それでもその大部分は壁にへばりつき、それを守るように抱え込んでいた。
札だ。しわくちゃの札が十枚ほど。
私が今まで稼いだ金に比べれば、金額的には端金だ。だが、重い。さして裕福ではない暮らしの中で、母がやりくりして、帰ってこないかもしれない息子のために、死ぬまでため込んだ金。
(ああ、蟻は、母だった)
そのひと齧りはなんと小さいことか。馬鹿のように単調な暮らしの中で、そのひと齧りをコツコツとため込み、巣を満たす。
(蟻だ)
右腕が強く疼いたが、それも当然のことであるように思えた……。
その後かい? ごらんのとおりさ。
私は街へは戻らなかった。朽ちかけた家につっかいをしながら、ここに隠れ住むことを選んだ。
そうして今日、ここに来た君にすべてを話し終えた。もう思い残すことはない。言っただろう、死が迫りつつあることに気付いたと。
誰が君を差し向けたか、そんなことに興味はない。何しろ心当たりが多すぎるんで、考えるのが面倒なんだ。
あの医者かい? いや、彼が私の居場所をタレこんだというなら、それはのっぴきならない事情があったんだろう。何しろ今日まで、誰もこの家に来ることはなかったんだからね、何も怨んじゃいない。
ただ、一つだけ忠告がある、蟻に気を付けたまえよ。
最近では右腕だけじゃない、右の半身ほとんどを彼奴等は食い尽くした。ほら、顔のここ、皮膚越しに蟻が動いているのが見えるはずだ。うまく撃たないと、私の体が破れた瞬間に、これがあふれ出してくるだろうねえ。もっとも、君が蟻を信じないなら右から撃つも良いだろうさ。
おしゃべりはこのくらいにしよう。私も疲れたのでね。
さあ、君は、どこを撃つかね?