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どこかで、何かの悲鳴か絶叫が聞こえた気がした。
「……」
必要以上に強い力でレグナの腕に抱きつくと、ファリナは息を潜めて辺りをうかがう。
「歩けないよ、ファリナ……」
内心でのみ苦笑しつつ、レグナは静かに真っ直ぐ歩いて行く。
兵隊や、出立の早い報償目当ての冒険者達はとっくに出発した。レグナ達は大分のんび
り出発し、道ではなく森の中を真っ直ぐ進んでいた。
森の各所から各部隊が侵入しており、中の魔物はある程度は片づいているはずだ。事実
ここに来るまでに、恐らくは三度人間と魔物の一団との戦闘の跡を見てきている。
ちなみに三度とも魔物の遺体は焼かれ、当然のごとく詠晶石は持ち去られていた。恐ら
くは出発の早い冒険者が報償目当てに頑張ったのだろう。
元々レグナ達は報償目当てではない。のんびりでいいよねと確認し、わざと他の傭兵達
や兵士より遅くに時間をずらして出たのだ。
あまりのんびりしすぎて、王達の本隊に抜かされないかだけが心配だった。
「今日は……雪、降らないんだね。」
「そうだな。
歩きやすくていいと思っておこう。」
「うん……」
雪が降らない、それはすなわちこの国では雪姫の加護がないことを意味する。
これから戦う相手の加護を求めるのも変な話だが。それでも気分が落ち着かないという
のは、ゼルデアの民としてはどうしようもないことであった。
無論口には出さないだけで、そのことはレグナにとっても同じであったが。
(まぁ……負けられないからな)
それだけを胸中で呟くと、レグナは再び足を進めた。
本隊に追い抜かれぬよう、少しだけペースを上げて歩くことしばし。
わずかにファリナに疲れが見え始めた頃―――
「しっ―――」
どこかで音が聞こえた。
音―――石の鳴き声ではない、生き物の、人にあらざるものの鳴き声だった。
遠くで響いたその鳴き声は、まるで二人の場所を知っているかのごとく不安とともに大
きくなってきて―――
「ファリナ、走るよ!」
「うん!」
ある程度まで大きくなったところで、二人は走り出した。
獲物が逃げたことを知ったか、大きな鳴き声を響かせると声の主もまた速度を上げて迫
って来た。
つかず離れず姿も見えず、しばし単調で危険とスリルに溢れた鬼ごっこが繰り広げられ
て―――
「!」
突然眼前にあらわれた魔物の姿に、レグナはファリナを背中で庇うように横に身を引いた。
さきほどまで自分達が走って来た方から迫る鳴き声。眼前で低いうなり声を上げる魔物。
「二つ足の獣型、腕で薙ぎ払うタイプ。
速度はないかわりに、あたれば一撃でぼろくずのように―――おしまいだろうな。」
小さく呟くレグナに、さも当然と言わんばかりに魔物の腕が迫った。
それくらいはさして難なく飛び退くレグナ。予想した通りか、腕に薙がれた大木が一撃
で半ばへし折れた。
「戦う? 逃げる?」
「目の前の二足歩行だけならともかく、後ろから追って来ていた一匹は足が速そうだよね。
―――戦った方がいい、かな。」
腰から機具の剣を抜き放つと、レグナは両手で構えた。
ぼく自身が武器を構えるのなんて、いったいいつ以来なんだろう―――なんて、場違い
なことを考えながら。
眼前にある、退化した短い足と、異様に発達しレグナの胴体ぐらいの太さを持つ腕の魔
物。顔はそれでも、凶悪な牙さえなければ、どことなく愛嬌がある―――いや、無理か。
愛嬌なんてないよな、と。小さく苦笑。
「ファリナ、魔術いける?」
「なんとか。やってみるけど、期待はしないでおいて。」
とりあえず昨日街で買った、いわば急ごしらえの杖を持ち頷くファリナ。
「じゃぁ―――」
レグナが言うより早く、魔物が一歩歩み寄り両手を真上に上げた。
慌てるようにファリナが、ついで落ち着いた風にレグナが避けたその場所に振り下ろさ
れる魔物の爪。大地に突き立つ爪と腕が地面を抉り、辺りに土塊をまき散らした。
「っの!」
小さく鋭い声とともに、まっすぐ剣を突き出すレグナ。その刃は腕に当たるが突き刺さら
ず、表面を傷つけるだけでレグナはバランスを崩した。
「レグナ!」
慌てて魔物の腕を強く突き飛ばし身体を離すレグナ。真横に震われた腕がすれすれでレグ
ナを捉えられず空を切った。
「腕力不足かな……」
苦笑しつつ、目の前の魔物に、そして追いついてきた二匹目の魔物に視線を注ぐ。
二匹目の魔物は、大柄の、いびつで人間の足のような四肢の生えた、大きな口のみを持
つぬらりとした魔物だった。
一匹目がまだ動物的なのに対し、二匹目は明らかに醜悪で非自然的。
目もない顔をレグナに向け、低い唸り声を漏らす。
「つよそ……」
苦笑いしつつ、いつもの上着で軽く手の平の汗を拭う。
大ざっぱに魔物は、その姿が普通の動物などから離れるほど強くなる傾向にある。その
程度の知識はある分、余計にいやな感じだった。
(目とかあれば、戦いやすいんだが―――)
そっと腰の機具を取り、位置関係に視線を走らす。
「ファリナ、走れ!」
言うと同時に、レグナは魔具の剣を機動させた。
振り上げた刃に従い強風が巻き起こり、魔物二匹を怯ませ―――怒らせる。
とりあえず注意を引きファリナを逃がすことに成功したことだけ確認して安堵すると、
さてどう切り抜けるかと小さく思案した。
(死んだふりとか……許してくれなさそうだよなぁ)
死んだふりをしている間に、あの腕で潰されるか、あの口で食われるか。いずれにせよ、
死んだふりがふりで済まなくなることは確かだろう。
(時間稼ぎ時間稼ぎ。さて、どうやるか……)
レグナにとって、一番大事なのがファリナの無事であり、自分の無事はその次だった。絶
対に雪姫の祠に行かなければならない、なんとしても。
腕の魔物がゆらり、と動いた気がした。
口の魔物が、こちらは一歩、明らかにレグナの方に踏み出した。
腰から機具の輪を取り外し懐から出した詠晶石にはめ、レグナは振り上げた。そのレグ
ナの動作を引き金に魔物二匹が飛びかかり、退いたレグナのいた場所を巨大な網のような
ものが覆い込む!
二匹をまとめて捕らえた網は、激しく暴れる魔物の動きに早くも小さな綻びを作り。そ
れを確認する間もなくレグナは走って逃げ出し―――
一拍の、奇妙な静寂。
いや、網の放つ音と魔物の小さな声が響いている以上、本来なら静寂と言う言葉は正し
くないのだが。
それでもその音の響き方は、その鳴き声の存在感は、辺りの全てをして『静寂』と呼べ
るだけのものであった。
レグナが逃げ出した後の一拍の静寂を埋めるかのように、わずかな金属音を立ててくす
んだ緑銀の鎧が、止まぬ鳴き声を引きつれ遠方から魔物の前まで走って来た。
「動けぬ魔物、か―――」
その鎧戦士―――リックは小さくそう呟くと、走る勢いのまま無造作にセイレーンを抜い
て身体ごと魔物に突き立てた。
魔物を包む網ごと、手前にいた腕の魔物が胴を貫かれて絶命する。それと同時に奥にい
た口の魔物は網を脱してリックに対峙した。
再び降りる静寂。魔物の鳴き声と金属音が消えた分、より静寂らしい静寂が辺りを包み
込み―――
「冷厳なる覇者よ、凍てつく刃を生め! ブリザードエッジ!」
静寂を破ったのは、美しい少女の声だった。
魔物の背後で巻き起こった猛吹雪が、容赦なく口の魔物を襲い―――
振り返る余裕すら与えず、半ば凍り半ば斬り裂き。
「斬っ!」
あとはただ、リックの一刀を持って2つに断たれるだけだった。