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「れぐなぁぁぁっ、ああっ、あああああああ!」
「ファリナ、どうしたファリナ!」
レグナの幻聴じみた錯覚から、ほんの数分の後。
それまでただ沈黙していたファリナが、突然絶叫とともに立ち上がり―――崩れ、駆け
寄ったレグナに抱き留められた。
「ファリナ、ファリナっ!」
「ぅ、あ、レグナ……?
あれ、ここは……」
「ここはぼくの工房だ。ファリナが朝、居させてってここにやってきたんだよ。」
言いながら抱え上げ、長椅子へと運ぶレグナ。初めて抱えるファリナの身体はいやに軽か
った。
「レグナ、れぐなぁ……」
「あぁ、ここにいる。
怖い夢でも見たのか?」
手を握り、優しく囁くレグナ。ファリナの瞳はまだちゃんとレグナを映してはいなかった。
「ぁ、夢、あ……
あ、れ……?」
「どうした、ファリナ?」
「あ、レグナ、あたし……
あたし、ファリナ?」
「?
あぁ、ファリナはファリナだよ。それがどうかしたの?」
「違う……違わないけど……それだけ……
あたし、何か、もっと違うことが、思い出せない……」
「……」
記憶喪失。当然のごとき単語が、レグナの脳裏に浮かんだ。
「落ち着いて、ファリナ。
いいから、今はとりあえず眠ろう。ぼくがついてるから。」
「ん……いいの?」
「いいよ。いいから、余計なこと考えないで。ね?」
「うん……ありがとう。
ぼーっとする……少し眠るね、あたし。」
「あぁ、おやすみ。
―――大丈夫だからな。」
小さく、けれど強く呟くと、レグナはそっとその頭を撫でた。
レグナにも、何がなんだか、全くわからなかった。
けれど、何もわからなくてもいいと思った。
今ファリナの側にいるのは自分で、ファリナが自分の名を呼んでくれたのだから。
例え辛くても、何を思おうとも。今はただファリナの側で、手を握っていればいいと思
った―――
それから二時間ほどして、ファリナは目を覚ました。
落ち着きといつもの様子を取り戻したファリナは、けれど自分のことを憶えていながら
も『大切な何かを忘れてしまった』と言った。
ファリナはまた、こうも言った。
『あたしは、雪姫の祠に行かなければならない』―――と。
だからレグナは、何も問わずに一緒に行こうと約束した。
夕方。
宮廷魔術士ベレンの声で、翌日雪姫の祠へと進軍することが伝えられた。
部隊は主に、ベレンや王達の本隊と、各隊の兵、傭兵部隊などの先行露払い部隊に別れ
るらしい。
王族以外には雪姫の祠の扉を開くことができず、またヘタに刺激して本隊到着前に雪姫
に出現されても困るので、本隊以外は本隊到着まで祠からしばらく離れた場所で待機と伝
えられた。
行軍は丸二日。明日の午前に出発し、明日は野営をして、明後日の夕方に祠に到着する
手はずになっている。傭兵希望の者達は、祠の側、現地にて合流して確認の上、後日報償
が与えられると告げられていた。
明日。
数百年もの間、この国を護り続けた―――
護り続けたと伝えられている、この国の守護神を、攻める。
実際に自分が会うのか、戦うのかはわからなかった。
ただ、他の傭兵のように、自分は雪姫とは戦わないと割り切ることは、どうしてもでき
なかった。
身体も、心も震えた。
守護神に刃を向けるのだ。
普段何気ない挨拶ででも、敬い、感謝し続けた存在に挑むのだ。
怖くないわけがなかった。
一人なら逃げ出していた。
けれど、自分には逃げられない理由があった。
行かなければ―――『戦わなければならない』理由があった。
レグナは道具の手入れを済ませ、万全の準備をした。
出来ることは、どれだけやっても物足りなかったが、全てやった。そう思っていた。
なんとなく師のノートを眺めたりもした。
『何ができるのか?』
何もできないかもしれない。何かできるかもしれない。
ぼくは、それを見極めに行くんだ。レグナはそう小さく呟いた。
その夜は、初めてレグナの元に泊まったファリナにベッドを譲ったので、レグナは長椅
子で眠った。
予想と不安に反し、色々準備してひどく疲れたせいか、ぐっすりと眠れ―――
夢も見ず、静かに目を覚ました。
体調も気分も万全だった。
その一日は、エル王女の誕生日、成人の儀まであと二日と迫った、冬の。
雪降らぬ、雪姫の加護なき、いつもと変わらぬ朝から始まった―――