第二十三話
試合は、延々と続いていった…
好投を続ける京浜ガスの浜村は、ランナーの出塁を許す場面もあったが、要所をしっかり押さえたピッチングで流れを切り、相手チームの得点を許すことはなかった。それに対して、京浜ガスの打撃陣は、3回の裏と7回の裏で、タイムリーヒットを出し、2点を奪っていたのだった。
そして、気が付けば、0-2で、京浜ガスがリードしたまま、9回の表にまで達していたのであった…
「この回を押さえれば、京浜ガスの勝ちだぜ…まずは、初戦突破だな」
晴翔が、そうほくそ笑むと、
「これで、お前の親父さんの引退は、少し延びることになるぜ…良かったな」
優希は、そう言って、通の肩を叩いた。そして、
「そうだな…次の試合も、応援しに来ないと…」
彼の言葉に、
「よし…今度は、大志高校野球部全員で見に来ようぜ。そんでもって、盛大に応援するんだ」
「おお、そうか…だったら、俺の方から、手島たちにも声を掛けておくぜ。そうすりゃ、応援団まで巻き込んだ大規模な応援ができるからよ」
二人は顔を見合わせて、大きく笑った。それを聞いて、
「やれやれ…何でも、事を大袈裟にすることが好きな連中なんだから…」
おもむろに通は、ふうっとため息をついた。
「しかし、ほんと脱帽だぜ…9回まで、無失点で投げ抜いているんだからな。まあ、3本のヒットを許しているから、ノーヒットノーランにはならないが、完封は間違いあるまい」
晴翔が、ため息をこぼすと、
「ああ、まったくだぜ…手を抜いたピッチングは、一つも無いからな。常に全力投球ってとこが、またかっこいいんだよな」
優希は、そう言って、顎をしゃくった。それを横目に、
…あと、もう少しだ。がんばれ、親父!
通は、心の中で、そう強く祈り、
『さあ、完封勝利まで、残すは打者3人だ…この回は、どんなピッチングを見せてくれるのか、浜村…最後まで、目を反らすことはできません…』
アナウンサーの声を聞きながら、固唾を呑んだ。そんな緊迫した場面の中、浜村は、この回の相手チームの1番手に対して、大きく振りかぶり、第一球目を放った。すると、彼の投げたボールは、バッターの空振りと共にキャッチャーミットに収まったのであった。
「ストライーク!」
主審の雄叫びと共に、場内の観客たちは、大きくどよめいた。だが、それがすぐに収まると、再び張りつめた雰囲気へと変わっていったのだった。
「みんな、親父が完封するところを望んでいるみたいだぜ…この期待に、しっかりと応えないとな」
通が、周囲の観客たちを見ながら、笑顔を作ると、
「ああ…それが男ってもんだ」
それが伝わったのか、浜村は心の中で小さく笑い返した。だが、ここで彼は、観客の期待を裏切ることになった…第二球目以降から、相手チームのバッターが、意外にも執念深く粘り、ファールを連続で繰り出したからである。そのため、カウントは2-3のまま、彼の投球は、この打者に対して20球を超えたのだった…
「しぶといバッターだぜ」
疲労の陰が見えてきた浜村は、マウンドで大きく息をついた。
「だが、ここで競り負けるわけにはいかない…俺は、京浜ガスのエースとして、チームの勝利を導かなければならないからだ」
そう言うと、彼は、静かに体勢を整えた。そして、力を振り絞って第二十一球目を投げた時だった…
「うっ…」
彼は、小さく呻くと同時に、右肘に激痛が走った。
「ストライク、バッターアウト!」
このボールに対して、大きく空振りしたバッターが、天を仰いで呆然と立ち尽くしていると、途端に京浜ガスのキャッチャーがマスクをはぎ取り、血相を変えながらマウンドへ走ったのだった。
「ああ…」
観客たちは、その光景に、言葉を失いながら総立ち状態となった。何故なら、マウンド上で浜村が、右肘を押さえながら沈み込み、苦痛の表情を訴えていたからだ。浜村は、以前に右肘を痛め、手術を行ったことがある…その古傷が、再び牙をむき、彼を襲ったのだった。
「お、親父…」
それを見て、通は、全身の血液が抜け出ていくような感覚にとらわれた。その後、続々と京浜ガスの選手たちが、マウンドへ集まり、とうとう監督までが現れる事態に発展したのだった。だが、
「待ってください」
浜村は、声を上げた。そして、
「俺は、まだやれます…最後まで、投げさせてください」
必死に訴えたのだった…
静寂に包まれる雰囲気の中、長い時間は流れた…
「おい…何を迷っているんだよ、京浜ガスの監督は…当然、ここは、交代しかないだろうが…」
優希が、そう声をあげると、
「そうだよ…これ以上、無理をしちゃ駄目だ…親父…」
通は、眼を赤くしながら、心の中で訴えた。だが、その訴えは退けられ、予想もしない展開となった。マウンドに集まっていた監督や選手たちが、浜村を残したまま、散開していったのである…
「ぞ、続投…マジかよ!」
晴翔が、思わずあっけに取られると、
「な、何故…」
通は、あまりのことに体が硬直した。と、その時、彼の耳に父の声が聞こえてきたような気がした…
…通よ。全ては、俺のわがままだ。監督や仲間たちに非はないから、決して彼らを恨むなよ…
…何でだ。何で、マウンドを降りないんだよ。親父…
…俺は、アスリートだ。肉体の衰えと言う自然の摂理には適わないが、限界まで、最後の最後まで戦い抜くことがアスリートだからだ。例え、この腕が千切れても勝負を捨てるわけには、いかないのだ…
…そんなことを言っている場合かよ。腕が、一生動かなくなったら、どうするつもりなんだよ…
…己のすべての力を出し尽くしたのであれば、悔いはないさ。だから、見ていてくれ。俺が、お前に見せることができる最後のピッチングを…
…お、親父。
通は、小さく呻くと、ドカッと大きな音を立てて座った。その様子に、
「どうした、通…」
晴翔が、心配そうな顔をして問うと、
「命がけなんだ…命を賭けて戦っているんだよ、親父は…」
彼は、涙を堪えながら、じっとマウンドを見つめたのだった…
「大した男だぜ…だが、我らもこのまま黙って負けるわけにはいかない」
この回の2番手となる強打者の渋谷は、マウンド上で満身創痍となった浜村を見つめながら、静かにバットを構えた。
「ここで、4番バッターか…最悪な展開だぜ」
優希は、苦虫を噛むかのように顔を歪めた。
「勝負だ。渋谷…」
浜村は、ゆっくりと振りかぶると、右肘の激痛を堪えながら、第一球目を投げた。
「もらった!」
渋谷は、そのボールをとらえると、ライト方向へと大きく弾き返した。
「やばい!」
晴翔は、思わず立ち上がって、打球の行方を追った。すると、ボールは、ポールよりも右を通過して、上段の観客席へと飛び込んでいったのだった。
「ファール…」
その審判の判定に、
「ふう…危なかった…」
浜村は、ほっと胸を撫で下ろすと、ロージンパックを取って一息をついた。
「だが、球威は、今までのより段違いに落ちているようだぜ…もう容赦はしないぞ」
渋谷が、睨みを利かせると、
「望ところだ…誰も手加減してくれなんて、一言も言ってはいないぜ」
浜村は、持っていたロージンパックを投げ捨て、力任せに第二球目を投げた。その投球に対して、渋谷は果敢にバットを振り、それもとらえたが、またしても打球は、右に反れて1塁方向の観客席へ飛び込んだのだった。
「くそ…あんな廃人同様のピッチャーを打ち崩せんとは…」
渋谷は、己の不甲斐なさに、思わず唸った。
「す、すごい…何て、気迫のこもったピッチングなんだ」
ふいに、晴翔が、そうこぼすと、
「親父は、これが言いたかったんだ…将来をあれこれ案じる前に、まずは、自分の持てる力を出し尽くせと…」
通は、思わず天を仰いだ。そして、
「弱音なんかを吐いている場合じゃないよな、俺は…」
再びマウンド上へ視線を移し、こみ上げてくる感情をぐっと抑え込んだ。と、その時、浜村は、第三球目をキャッチャーミットの中に沈め、相手チームをツーアウトに追い込んだのであった…
その後、浜村は、相手チームの5番バッターを仕留め、0-2で京浜ガスに勝利をもたらしたのだった…
『ここで、皆様にお知らせがあります…この試合をもって、京浜ガスの浜村投手が引退することになりました…つきましては、選手よりご挨拶がありますので、盛大な拍手でお迎えください』
アナウンサーの紹介を受けた浜村は、ゆっくりとグランドの中央へ歩いていき、そこで立ち止まると、観客たちを見渡してから、大きく一礼した。
「皆様…今日は、遠路より、ご観覧くださいまして、誠に感謝します。このたびは、体力の限界もあったため、この試合を最後に、このユニフォームを脱ごうと決意した次第です。しかしながら、私は、決して後悔をしておりません。最後まで、自分を持ち続けて戦い抜けたと満足しております。最後になりましたが、長期に渡り、多くのご声援を頂き、本当にありがとうございました」
その言葉に、観客席からは、割れんばかりの声がこだましたのだった。その大きな声援に包まれながら、
「俺も、親父のように強くなってやる…アスリートの端くれとして、男らしく最後まで勝負を諦めずに戦い抜く、強い意志を持った選手になってみせるよ」
通は、グランドを去りゆく父の背中を、静かに見守ったのであった。




