第二十話
ある日のこと…
晴翔は、二ノ宮勉に廊下でばったりと出くわした。
「久しぶりだな、二ノ宮…」
「ああ…お前も元気そうで何よりだ」
勉は、そう言って、笑顔を作った。すると、晴翔は、怪訝そうな顔をして、
「もう野球をやらないのか?」
そう投げかけた。実は、鍋島たちが引退してから間もなくして、彼は野球部を辞めていたのであった。
「まあな…」
「そうか…折角、一緒にやってきたのにな」
その発言に、勉が少しうつむいてから、
「僕は、大学へ進学しようと思っている…だから、今のうちから勉強しておかないとダメなんだ」
「そうかな…お前は頭がいいから、時間を作って勉強すれば、十分に大学へ進学できると思うけどな」
「あまりかいかぶるなよ…それに、大学受験も決して甘いものじゃないしさ」
と、答えると、晴翔は眉をひそめた。
「もしかして、親父さんに何か言われているのか?」
その問いかけに、彼は表情を曇らせた。彼の父・二ノ宮強は、大企業の営業部長を務めるエリートで、優秀なビジネスマンだったからだ。
「親父は、関係ないさ…これは、僕自身の問題だよ」
「おい、二ノ宮!」
勉は、そう言うと、さっさとその場を立ち去ったのだった…
「まあ、しょうがないだろ…奴が、決めたことなんだからさ」
優希は、トンボでグランドを整備しながら、そう答えると、
「確かにそうだが、今まで一緒にやってきた仲だ。なんとか、ならないものだろうか」
「うるせえな、いい加減にしろ…それぞれ、事情ってものがあるんだから、ここでとやかく言っても仕方がないだろうが!」
晴翔は、カチンときた。
「そんな言い方はねえだろうが…人が一生懸命、考えているんだぞ」
「それが、余計なお世話だっつうんだよ」
晴翔と優希が、そう言い争って、お互いに胸倉をつかんだ時、さっと玄奘が割って入り、
「よさないか、二人とも…さあ、こっちへ来るんだ。虎頭!」
と、言って、無理やり彼の手を引っ張っていった。
「何なんだよ、あいつは…いつまでも、変にこだわってよう!」
そう言うと、優希は、ガリガリと大きな音を立てながら、グランド整備を続けたのであった…
その日の夜…
勉は、いつもと変わりなく、机に向かって勉強に励んでいた。
「ふう…」
と、思わずため息をつき、
「僕だって、今までやってきた野球を止めたくなかったさ…もっと、野球をやりたかったさ。けど…」
彼が、そう言いかけた時、彼の父が、ふいに部屋のドアをノックしたのであった。
「入るぞ…」
「はい…」
父が、すっとドアを開けて中に入ると、
「勉強は、はかどっているか」
「うん…とりあえずは…」
勉は、しょぼくれた顔で、そう答えた。それを見て、何かを察知した父は、ため息をつきながら、
「まだ、野球なんぞをやりたいと思っているのか?」
「い、いえ…別に…」
表情を厳しくし、
「この競争社会で生き残っていくには、確かな知識を身につけ、一流大学に入って肩書きを得ることが大事だ…そして、それを武器として、一流企業に入らなければ、生きていくことすら難しくなるんだぞ」
「ええ…」
「学生は、学業が本業…趣味など、いつでもやれるのだ。今は、ライバルたちよりも差をつけ、必要とされる人材とならなければならん。わかるな?」
「おっしゃる通りです」
勉の答えに軽く頷いた。そして、
「うむ。そのことを、しっかりと念頭に置いて励めよ」
父は、そう言い残して、部屋を出ていったのだった。
「言われなくてもわかっているさ」
彼は、口をへの字にしたが、
「ふう…あと、もうひと踏ん張りするか」
気持ちを切り替えて、再び勉強を始めたのであった…
次の日の下校時、勉はフェンス越しから、野球部の姿を目の当たりにした。
「やっているな…野球部の連中…」
そこでは、野球部の部員たちが、汗と泥にまみれながら、わき目もふらず、ただひたすら過酷な練習を続けていたのであった。
「僕も少し前までは、あんなに泥まみれになって、白球を追いかけていたっけな」
彼は、少し悲しい顔をすると、
「これからの世の中は、日本だけを考えている場合じゃない…世界を相手に、競争をしていかなければならないんだ…だから、私心を捨てなければならない…」
くるりと振り返った。と、その時、背後から晴翔の声が聞こえ、
「来てくれたのか…二ノ宮…」
息を切らしながら駆け寄ってきたのだった。
「元気にやっているみたいで、何よりだよ」
勉が、そう小さく笑うと、後からひょっこりと優希が現れ、
「何の用だ…こんなとこで油を売っていると、塾に遅れるぜ…」
皮肉を言うと、
「おい…竜岡!」
晴翔は、その発言にむっとした。
「それとも何だ…また、野球部に入って、野球でもしたくなったのか?」
「えっ…」
優希の言葉に、勉は沈黙してしまったが、その静寂な雰囲気を壊すかのように、彼はすくっと顔をあげ、
「いや…それは、できない…僕は、やらないといけないことがあるんだ。野球は、もうできないんだ」
と、答えると、優希の表情は、険しくなった。
「何、煮え切らねえこと、言っているんだよ。ほんとは、野球が好きなんだろが…だったら、回りくどいごたくなんか、並べんじゃねえよ!」
「やめろ、竜岡!」
晴翔が、彼を制しようとしたが、優希は構うことなく、さらに続けた。
「このバカは、ずっとお前のことを心配し過ぎて、夜も眠れない状態なんだぜ…これ以上、うちの仲間に迷惑かけるんじゃねえよ」
彼に一喝された勉は、思わず下を向き、
「ほんとに、ごめんな…ほんとに…」
走り去ったのであった。
「おい、待てよ…てめえ!」
「やめろって!」
勉を追いかけようとする優希を、晴翔は、再び制しようとし、
「止めるな…あいつは、野球に対して未練ありありじゃねえか…何の事情があんのか分からねえが、そんな束縛された人生で、奴は幸せなのかよ」
「俺もそう思うさ…だが…」
そう言葉を詰まらせた。と、背後から、玄奘が現れ、
「彼が選んだ道なんだから、我々ではどうすることもできないさ…それに、昨日、君もそう言っていたじゃないか」
そう話すと、優希は、ついにイライラを爆発させ、
「勝手にしやがれ…あいつも、てめえらもよ!」
思い切りグランドの土を蹴ったのであった…
勉の通う塾には、入塾テストなるものがあり、それに合格しなければ、通うことのできない少数精鋭で行う虎の穴だ。無論、受講内容は一流大学の受験に焦点を当ており、多くの学生を早稲田や慶応義塾などの大学へ送り出すなどの実績を持ち、ほぼ100%に近い合格率を誇っていたのであった。
「もうこんな時間だ…早く塾に行かないと、また先生に怒られる」
勉は、猛スピードで塾の玄関を駆け抜け、教室のドアを開けると、
「また、遅刻か…そんなことで、一流大学に受かるとでも思っているのか」
先生に怒られ、
「す、すみません…」
深く頭を下げた。
「今度、遅刻したら、本当に教室へ入れないからな…わかったら、さっさと席につけ!」
「は…はい…」
彼は、そそくさと自分の席に座ると、横に座っていた当塾でNO.1の成績を誇る野口諭吉に声を掛けられた。そして、
「とんだ災難だったな。今回は、何があったんだ?」
彼が、冷ややかに笑いながら問いかけると、勉はその経緯を小声で話したのだった。
「ふっ…そうか。どうやら、お前は今までやっていた野球に、ずいぶん未練があるようだな」
「ずっとやって来たことだ。仕方ないだろ…」
「言っておくが、学業はお遊びとは違うんだよ。ここで、勝ち取ったものは、その後の人生に響いてくるからな…本当に優秀な成績を修めたかったら、全てを捨てて打ちこまなければ、とても成しえないものだ」
「そんなことは、わかっているさ」
ムッとした勉の表情を見て、野口が、
「まあ…お前じゃ、俺の足元にも及ばないだろうがな」
冷笑すると、彼は正直ムカついたが、ぐっと堪えて、
「そういや、今週の日曜日に塾の全体試験があるんだったな…そろそろ、僕も本領発揮していかないと…」
口角をあげた。すると、
「ほう…この俺の成績を上回ろうとでも言うのか」
野口は、眼鏡をキラリと光らせ、
「その天狗っぱなをへし折ってやるよ」
「面白い…」
薄気味悪く笑ったのだった。こうして、勉は、打倒・野口諭吉を掲げて闘志を燃やしたのであった…




