第十九話
そして、月日は流れた…
「しかし、がんばっているな、サトイチもよう…だいぶ、料理の腕は上がったんじゃないのか?」
午後の授業の終わりに、晴翔は一郎に声を掛けてきた。
「いやいや…まだ、皿洗いとか環境整備とかやっている段階だよ。料理の世界は、下済みから、しっかりやらないといけないからな」
一郎は、さらりと答えると、
「でも、包丁ぐらいは、握らせてくれるんだろ?」
晴翔の問いかけに、
「まあ、切ったり刻んだりは、毎日やっているよ。包丁さばきは、料理の基本だからな」
生き生きとした目をした。
「そう、そう…何にしても、基本が大事だからな」
晴翔が、チラリと時計を見て、
「おっと、もうこんな時間だ…早く、練習に行かないと…」
カバンを手に持つと、
「じゃあ、またな…」
「おう!」
駆け足で教室を去って行き、
「がんばっているな。奴も…」
それを見て彼は、小さく笑ったのだった。
「うむ。だいぶ、板についてきたようだな」
調理場で一郎の包丁さばきを見た大将が、ニヤリと笑うと、
「ありがとうございます!」
一郎は、そう言って礼をした。すると、
「そうだな…そろそろ、簡単なところから調理の方を教えていくかのう」
「ほんとうですか!」
大将の言葉に思わず唸り、
「お前は、なかなか筋がいい…さらに励めよ」
「はい!」
大きく返事をしたのだった。
「良かったな…親父から太鼓判押されるなんて、なかなか無いことだぜ」
三好が、一郎の肩をポンと叩くと、
「ついに、調理ができる…」
彼は、興奮した面持ちで、拳をぎゅっと握ったのであった。
そして、夜も更けて閉店となり、一郎は一人家路へと向かっていた。
「だんだん、軌道に乗ってきた感じがするぜ…この調子で、明日もがんばるぞ」
そう喜びを噛みしめながら歩いていると、前方から晴翔たちとばったり出くわし、
「おう…今日は、やけに遅いじゃねえか」
「お前こそ、こんな時間まで、練習していたのかよ」
突然のことに、一郎は目を丸くした。
「明日は、交流試合なんだ。みんな、熱を入れてがんばっているところなんだよ」
晴翔と一緒だった玄奘が、にこやかに言うと、
「そうか…みんな、がんばっているんだな」
一郎は、穏やかな目で晴翔を見つめた。すると、
「何を言っているんだよ。そう言うお前こそ、めちゃめちゃがんばっているじゃねえか」
晴翔は、彼の肩を叩き、
「目指すものは違うけど、陰ながら応援しているからよ。めげずに続けろよ」
笑顔を見せたのだった。
「ああ…」
一郎が、そう短く返事をすると、
「それじゃ、おつかれ!」
彼は、そう言って、玄奘たちを連れて、その場を去っていったのであった。
「ほんと、気持ちのいい奴らだぜ」
一郎は、ため息をつくと、
「俺も、あんな風に野球をやっていたかったなあ…」
と、こぼしたが…その瞬間、ぶるんぶるんと首を横に振り、
「いかん、いかん…俺は、料理人になるんだった。野球なんか、やってられないぜ」
頬っぺたをピシャピシャと叩いたのだった…
次の日の放課後のこと…
「さあ、今日も修行だ…がんばろうぜ」
「はい!」
一郎は、三好と共に学校を出ようとした。と、その時、三好はグランドに一本のバットが転がっているのを目撃し、
「まったく…大事な物を、こんなところに放っているんじゃねえよ。バカ球児どもが…」
「ほんと、そうですよね…」
あきれた顔をした。すると、一郎は、そのバットを手に取って、じっと眺めた。そして、
「汚いな…どれだけ、練習しているんだか」
そうぼやいてから、ぎゅっとバットを握りしめると、
「こんなとこに置いていると、俺がもらっていくぞ」
おもむろに、素振りを始めた。
「ははは…まだまだ、カンは鈍ってなさそうだな」
三好は、笑いながら一郎を冷やかした。しかし、彼はその冷やかしを余所に、何かに憑りつかれたようにバットを振り始めたのだった。
「おい、おい…」
三好は、一郎を止めようとしたが、
「お前は、まだ野球を捨て切れていないんだな」
優しい目で、彼を見つめたのであった。
その日の一郎は、調理場で大将に怒られっぱなしだった。
「何度言ったら、わかるんだ…大きさが、全部まばらじゃないか」
「す、すみません…」
「謝ることは、誰でもできる…しっかりせえ!」
大将は、そう怒鳴って見据えると、彼に仕込みを続けさせたのだった。と、その時、一郎の包丁さばきに、問題があることに気付いた。そして、
「おい、包丁が震えているぞ…何か、迷いでもあるのか?」
そう問いかけると、彼は作業をピタリと止めてしまった。
「佐戸…」
三好が、一郎を不安そうな目で見つめると、
「何か迷いがあるならば、その一切を捨てろ…でないと、一流の料理人にはなれんぞ」
大将の目は、さらに厳しさを増した。すると、
「…」
一郎は、ついに目をつぶってしまった。それを見た大将は、ふうっとため息をつき、
「やれやれ…まあ、仕方がないか…まだ、高校1年生なんだからな」
怖い顔を崩した。
「お前、他にやりたいことがあるんだろ?」
「えっ…」
彼は、躊躇した。
「しかも、何をやったらいいのか、どうしたらいいのか、全くわからなくなって、混乱してやがるな…まあ、若い時は、誰でもそんなものだ」
「…」
その様子を見ながら大将は、
「もういっぺん、じっくり自分と向き合って考えてみな。自分は、本当は何をやりたいのかを…その答えが、料理なんだったら、いつでも受け入れてやるよ。でも、違うんだったら、それはお前のやりたいようにやればいい…」
と、言うと、一郎はうつむき、
「俺…そのやりたかったことを、一度捨ててしまったんだ…もう、今更そこへは戻れないよ」
そう弱音を吐いた。すると、
「逃げるじゃない!」
大将は、ふいに一喝したのだった。
「若い時は、きりがないくらい失敗しろ…ゼロからスタートしているんだから、迷ったり、失敗したりすることなんて、当たり前なんだからな」
「お、親父…」
三好は、父の言葉に思わず目を細めた。
「ボロボロの雑巾になっても…例えみじめになっても、本当の自分を見つけることに手を抜くな…そうやって、行動を起こしていくことこそが、一番大事なんだぞ。それに、その経験は、大人になってから長い人生を生きていく上で、大きな力となり、活きてくることになるのだからな」
大将の話に、一郎は涙を流し、
「はい…」
そう小さく返事した。
「がんばれよ、坊主…決して、くじけるんじゃないぞ」
大将は、そう言うと、彼の肩をポンと叩いたのであった…
次の日のこと…
「さあ、今日も練習すっぞ!」
晴翔は、そう言って、部室のドアを開けると、なんと目の前に一郎が練習着に着替えて立っていたのであった。
「あ、あれえ…どったの、サトイチ?」
「どったのじゃねえよ…遅えよ、お前!」
彼の発言に、晴翔は目をパチクリした。その様子を見て、一郎が少し照れくさそうな顔をして、
「また、野球やることになった…ヨロシクな!」
そう発すると、
「しゃあねえな…」
晴翔は、頭をかきながら、そう答えた。そして、彼らは、再びお互いの顔を見合わせると、大きな声をあげて笑い出したのだった。




