第九話
「帰ったぞ…」
野球の練習を終えた晴翔が、いつものように孤児院に戻ると、
「あんちゃん、おかえり!」
そこで、一緒に暮らす二つ年下の正岡登が出迎えてきた。
「今日も随分遅かったな」
「ああ、夏の大会までって言ったら、もうすぐだからな。力入れて練習しないと」
彼が、そう話すと、
「あんましがんばりすぎると、体を壊しちゃうぜ」
「なあに、心配するな。そうは言っても、結構頑丈にできているからな、俺の体は…」
二人は、互いに笑った。だが、
「でも、あんちゃんが羨ましいよ。僕もあんちゃんみたいに、体が丈夫だったらな」
彼がそう漏らすと、晴翔の表情はすぐに陰っていった。実は、この大の仲良しの正岡は、昔から心臓が弱く、ちょっとした運動でもすぐに息切れをするほどであったのだ。
「僕も野球をしたいよ」
その呟きに、
「いつか、きっとできるようになるさ…あんまし深刻になるなよ」
晴翔は、作り笑いをして、穏やかに答えた。すると、
「ありがとう、あんちゃん…」
それを察したかのように、正岡は微笑んだのであった。と、その時、
「まだ起きていたの、二人とも…もう晩いんだから、早く寝なさい」
華原が彼らを見つけて、就寝を促してきた。
「そんなにせかすなよ。帰ったばっかりで、まだ全然眠くないんだからよ」
「ダメよ、ちゃんと睡眠をとらないと…明日も早いんでしょ?」
彼女が、そう聞き返すと、
「まあ、そりゃそうだけど…」
「スポーツマンなんだから、健康管理もしっかりしなさい」
「へい、へい…わかりやした」
彼は、しぶしぶ返事をして立ち上がり、
「確かにそうだったね。じゃあ、僕も、もう寝るよ」
正岡も立ち上がった。
「じゃあな…あんちゃん、おやすみ…」
「おう、おやすみ…」
そして、二人は、自分の部屋へと向かおうとした。と、その時、ふいに正岡が胸に手を当てて苦しみ始め、どさりと前のめりになったのだった。
「どうした、登!」
彼の急変に、思わず晴翔は声を上げた。
「う…ううっ…」
「ちょっと、登…しっかりしなさい!」
彼女が、そう声を張りあげて、正岡に駆け寄ると、
「晴翔、救急車を呼んで…早く!」
「わ、わかった…」
晴翔は、急いで電話をしたのだった。
救急車で搬送された正岡は、晴翔たちが見守る中、病室のベッドの上で静かに呼吸を繰り返していた。
「登…」
その様子を見ながら、晴翔が彼の手を握っていると、
「今のところは落ち着いておりますが、あまり良い状態とは言えませんね」
傍にいた医師は、そう口を開き、
「今後のことも考えて、手術をすることをお勧めします」
と、判断をした。
「しゅ、手術…」
それを聞いた華原が、息を飲み、
「命の保証が確実にあるとは言えませんが、このままの状態では、本当にまずいと思いますよ」
医師が、厳しい表情をすると、
「先生…登は、俺の弟みたいなものなんだ。絶対に、助けてやってくれよ」
晴翔は、懸命に訴えたのだった。
それから数日後…
「今日は、とても体調が良さそうね」
病院へ見舞にきた華原は、買ってきた花を花瓶に飾ると、
「うん…だいぶ調子が良くなってきた感じだよ」
正岡は、窓から外の景色を眺めながら、静かに答えた。そして、
「どうなんだろう…この分だと、手術なんかしなくてもいいんじゃないかな?」
ふと呟いたのだった。
「でもね、登…先生は、これから先のことを考えれば、手術をした方がいいって言っているのよ」
「けど、その手術も一か八かなんだろ…もし失敗をしたら…」
彼が、震えると、
「確率的には、そんなに失敗するものじゃないって先生は言っているわ…それよりも、このまま放っておく方が、よっぽど危険みたいよ。もちろん、あなたの意思を尊重しようと思うけど、私は手術に臨んで欲しいと思っているわ」
そう言って、彼女は励ました。すると、
「いや、もういいよ…」
彼は、そう口にすると、
「手術したからといって、野球ができるような体になるわけがないしさ」
吐き捨てるように言った。
「野球にこだわらなくてもいいじゃない…登は、登らしく生きれば…」
「僕らしくって、一体どう言うことだよ!」
彼は、ふいに声を荒げ、
「ここで手術を受けて、寿命が延びたとして、この先一体何を考えて、どう生きればいいんだ」
「そんなことを言わないでちょうだい…生きていれば、きっと何か良い目標が見つかるはずよ。だから、自ら命を縮めるようなことは言わないで…」
「もうたくさんだ。そんな希望的観測の羅列ばかりの人生なんて」
布団の中に潜り込んでしまったのだった…
その日の夜、華原から話を聞いた晴翔は、暗い顔をしながら、正岡の部屋の前で立ち止まり、
「登…命を粗末にするな。勇気を出して、手術を受けてくれ」
心の中でそう叫ぶと、彼は、誰もいない正岡の部屋へと、足を踏み入れたのであった。そして、
「あんまし、代わり映えはしていないか」
彼は、電気を付けると、
「最近、野球の練習漬けで、まったくこの部屋へ遊びに来ていなかったからな」
寂しさと後ろめたさを感じながら、思い出の詰まった部屋を見渡すと、ある物を見て、ふと目が止まった。
「これは、木製のバット…」
それを見た瞬間、
「ほんとに野球がやりたかったんだな、お前は…」
急に切なくなった。
「しかし、どこのメーカーのバットだ…印も何もない?」
不審に思った彼は、手掛かりとなるものがないか、くまなく探した。すると、バットの柄の部分に、“正岡登・作”と書かれた文字を発見したのだった。
「ま、まさか、あいつが、このバットを作ったと言うのか」
その力作に、彼は、唖然としたが、
「そういや、あいつの図工の成績は、常に5だったっけ…それにしても、ここまで精巧に作るとは、大した才能だぜ」
バットをなでながら小さく笑った。と、その時、
「そうだよ…こんなすばらしい才能を持っているじゃねえか。あいつは、この野球界に、なくてはならない人間だよ。これがなくて、野球ができるはずがない」
彼は、明日の練習を休んで、正岡を説得しにいこうと決めたのだった。
そして、翌日…
晴翔は、華原と共に、正岡が入院する病院を訪れたのであった。
「よう、元気か!」
晴翔が陽気な振る舞いで、正岡に接触すると、
「そんなに元気でもないよ」
そっけない答えが返ってきた。
「今日はさ、お前にお願いがあって来たんだ」
「お願い?」
彼の話に正岡は、首をかしげ、
「実は、このバットが、マジで気にいっちゃってさ…できたら、俺に譲ってくれないかなあと思ってさ」
「そ、それは…」
目を大きく見開いたのだった。
「お前、すげえな…手作りで、こんなに見事なバットを作るなんてよう。もし、このバットを譲ってくれたら、思う存分に使いたいと思っているよ」
その晴翔の言葉に、
「でも、高校野球は金属バットの使用が可能なんじゃないの…あえて、木製のバットを使うなんて、ハンデにしかならないような気がするけど…」
正岡が、怪訝そうな顔をすると、
「気に入ってしまったのだから、仕方ないだろ…俺は、この木製バットを使う選手としてふさわしい男になるために、そのハンデを克服しようと思っている。死ぬほど練習してな…」
彼は、白い歯を見せて親指を立て、
「そうか、そんなに気に入ってくれたのか…だったら、譲ってあげるよ。ただし、ちゃんと最後まで使ってくれよ」
「ああ、約束するぜ」
さらに続けた。
「だが、木製のバットだから、折れて使えなくなることもある…その時は、またお前に、俺のバットを作って欲しいと思っているのだが…」
「えっ…」
その話に、正岡は目を丸くした。そして、
「俺が気に入るバットは、お前しか作れない…だから、バット職人を目指せよ。そして、お前の才能を活かして、全国の野球選手たちのためにバットを作ってあげようぜ。野球界のためにさ!」
「僕が、野球界のために…」
何かがはじけ飛び、目の前が明るく開けていく感じを覚えたのだった。
「とても、登にふさわしい目標だと思うわ…まさに、君にしかできないことよ」
華原が、真摯な目で彼を見つめると、
「そうだね…何だか、がんばらないといけなくなっちゃたな…」
正岡は、大きく息をつき、
「まだ、死ぬわけにはいかない…だから、手術を受けるよ」
決意を固めた。
「お前なら、大丈夫…必ず、この試練を乗り越えられるさ。そして、また孤児院に戻って来いよ」
「わかったよ…あんちゃん」
こうして、二人は、がっちりと固い握手を交わしたのだった。
その後、正岡の手術は成功し、無事に退院したのであった…




