洗面台の覇者
熱帯夜の熱気に狂わされる夏、日常のすぐ隣には怪異の闇が潜んでいます。
これは、蒸し暑さに追われた一人の男が、蛇口の奥に潜む「何か」に侵食され、静かに消失するまでの記録。
深夜の静寂の中、どこからか聞こえる不穏な異音に、どうぞ耳を澄ませてお読みください
ジジジ……と、濡れたような蟬の羽音が洗面所を満たしていた。
真夏の深夜2時。エアコンのない廊下から踏み入れた洗面所は、蒸し風呂のように蒸せ返っている。
会社員の拓海は、蛇口を捻って冷水を手に掬い、顔をうずめた。
——カツン。
水流の音に混じって、硬い何かが陶器のボウルを叩く音が響く。
「……なんだ?」
顔を上げると、蛇口の根元に、体長10センチはあろうかという巨大な黒いカブトムシが鎮座していた。どこから侵入したのか、濡れた黒光りする甲殻が鏡のライトに光っている。
拓海は思わず息をのんだ。虫は大の苦手だ。
(逃がすか……いや、叩くか?)
迷う拓海をあざ笑うかのように、カブトムシは長い角をゆっくりと持ち上げた。
ジジ……ジジジジジッ!
突然、カブトムシの巨体から、鼓膜を刺すような高音の蟬しぐれが弾けた。虫の鳴き声ではない。まるで何千匹もの蟬の死骸をすり潰したような、不快で湿った「ノイズ」だ。
音の波に洗面所全体が共鳴し、壁のタイルが微細に震え出す。
「う、あ……っ!」
耳を押さえてうずくまる拓海の足元で、異変が起きていた。排水口の闇から、無数の黒い爪が這い出してくる。
(ここは……俺の場所だ)
脳内に直接届く、ねっとりとした声。
洗面台の「覇者」はカブトムシなどではなかった。夏という季節の「熱気」と「腐敗」と「湿り気」が凝縮し、形を成した怪異だったのだ。
ジジジジジジジジジジジッ!!!
破裂しそうな音量の中、鏡に映る拓海の顔から、目と口が消失していく。代わりに彼の顔面は、滑らかな黒い甲殻で覆われ始めていた。
冷たい水が、留まることなく洗面台からあふれ続けている。
翌朝、その家からは蝉の鳴き声だけが、いつまでも響いていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
蒸し暑い夏の夜、ふと耳に入る「水の音」。普段なら気にも留めない日常のすぐ隣にこそ、怪異は静かに潜んでいるのかもしれません。
今夜、喉の渇きを覚えて洗面所に向かう際は、どうか蛇口の奥を覗き込まないようお気をつけください。どこからか微かな「喉を鳴らす音」が聞こえてきたとしても、それは気のせいではないのですから――。




