三度目の名前
クリスマスイブの夜は、やけに静かすぎた。
雪は降っていないのに、街は白く沈黙している。
カップルの笑い声も、子どものはしゃぎ声も、窓越しには届かない。
まるで、世界が自分ひとりだけを残して、祝祭から降りたようだった。
だから美咲は、スマホを立てた。
「暇すぎるし、都市伝説配信やるかな」
視聴者は十人にも満たない。
コメント欄には、軽口と絵文字が流れている。
《鏡のやつやれ》
《名前呼ぶやつ?》
《クリスマスだしちょうどいいじゃん》
美咲は笑って、洗面所へ向かった。
そこには狭い三面鏡。蛍光灯の淡く白い光。
そこに映るのは、パーカー姿の美咲だけだった。
「有名だよね。鏡の前で、自分の名前を三回言うと――出るってやつ」
《やめとけw》
《ガチで怖いやつ》
《配信切れよ》
怖くない。
視聴者にそう思い込ませるように、美咲は目の前の鏡を見つめた。
――鏡の中の美咲は、ほんの一瞬だけ瞬きが遅れた気がした。
「……多分……気のせい……よね?」
一度目。
「美咲」
声は震えない様に普通を装った。
コメントも盛り上がっている。
二度目。
「美咲」
鏡の奥が、少し暗くなった。
照明は変わっていないのに、奥行きだけがありえないほど深く見える。
《今、顔ズレた》
《鏡、なんか変じゃね?》
《冗談だよな?》
美咲は、喉が渇いていることに気づいた。
三度目。
「――美咲」
言い終わる前に、鏡の中の美咲が先に口を動かした。
音はない。
だが、確かに言っている。
美咲自身の名前を。
配信が途切れた。
画面が暗転し自分の顔だけが、黒いガラスのように映り込む。
背後で鈴の音がした。
リン……リン……
クリスマスの飾りのはずがない。
部屋には、何も置いていない。
鏡の中の私は、もう笑っていなかった。
口が裂けるほど、“美咲”よりも正しく、美咲の顔をしている。
鏡の内側から、声が響いた。
「三回、呼んだ」
次の瞬間、視界が裏返る。
――気がつくと、美咲は暗闇の中にいた。
スマホの画面だけが明るい。
配信はまだ続いている。
映っているのは洗面所。
鏡の前に立つ――美咲。
だが、画面の中の美咲は、こちらを見ていない。
鏡の中を食い入るようにじっと見つめている。
コメントが、凄い速さで流れる。
《え?》
《今の誰?》
《さっきと雰囲気違う》
《鏡の中、なんか動いた》
美咲は叫ぼうとした。
だが、声は出ない。
画面の中の“美咲”が、ゆっくり振り向く。
そして、無機質な表情でにっこりと微笑む。
美咲の笑顔を、完全に真似て。
「メリークリスマス」
画面の向こうで、耳障りで愉快な鈴の音が鳴り響く。
リン……リン……リン……
配信は今も残っているらしい。
再生数は伸び続けている。
コメント欄には、最後にこう書き込まれていた。
《ねえ》
《この人、さっきから》
《自分の名前、ずっと呼んでない?》
――今夜、鏡の前に立つなら。
名前は、一度でも口にしないほうがいい。
特に、誰かが“あなたの代わり”になりたい夜には。
――(完)――




