第6話 公証ざまぁ——判示および付記(最終)
判示正本(朗読用要旨)
作成者:王家公証官(職能名)/監査妃補記
配布範囲:国王陛下/王太子殿下/王宮記録庫(再封緘後)
効力:本日戴冠式における二重押印をもって暫定発効。全文は同日中に正本化。
王印が落ち、赤は冷えて輪郭を保った。広間は静かだ。静けさは、理解の肩に手を置く仕草。
近衛が二隊、記録庫へ走る。寺院の若僧が合図旗を掲げ、刻印師ギルドの親方は腰の鑿をそっと撫でた。誰も喋らない時、紙だけが仕事を続ける。
老公証官が、杖を石に一度打ち、口を開いた。
「判示。——要旨のみ先行して読み上げる」
判示・要旨
一、宰相府提出の“訂正版”は、原本性の欠落(紙質・墨配合・字体頻度・誤差の不在)により正本たりえず。
二、王弟印は再彫未届、かつ旧原型と一致せざる版差(左肩の線圧偏りおよび**「王」字横画の微小欠け不写**)を認め、原型不一致として差止。以後の公用無効。
三、王家歳出からの資金迂回(側室費・宮廷音楽費→商会→後援会→個別楽士)を認定。関係職能への聴取開始、および当該勘定の暫定停止を命ず。
四、記録庫外扉の封緘破壊は、寺院印への毀損に該当。犯意の有無、関与者の職能を聴取。内扉の二重封緘は適法、かつ保全措置として相当。
五、本判示は王印および公証印の二重押印をもって暫定発効とし、戴冠の儀は王家の透明性確保の後に続行する。
言葉が石床に置かれるごとに、ざらり、と場の空気が一枚ずつ反転していく。
宰相は扇を閉じ、掌で骨をきしませた。「聴取だと? 宰相職に向けて?」
「職に向けてではない、行為に向けてだ」老紳士は事務的に返す。感情は節約、手続は過不足なく。
その時、広間外廊から足音。近衛が戻ってきて膝をつく。
「報告。記録庫の外扉、寺院印は刃物により削られ、封蝋片が床より回収。内扉の公証印は無事。羊皮紙に延焼なし。香の匂いは香油に一致。倉庫番の証言と合致します」
場に、目に見えない線が引かれる。赤い線だ。花代。香油。昨夜の煙。
老公証官:「封蝋片は寺院に、削り痕は刻印師に。印の犯行は、印に語らせよ」
王弟は笑いを顔に貼ろうとして貼り損ねた。「印が何を語る。群衆は不倫を語るものだ」
私は要旨束を一枚繰り、短く答える。
「Q&A第1項、さきほど朗読済みです。二重記録。魔眼通過刻。仮縫い票。歌より先に、歌詞の行数を数えました」
ローレントが壇中央へ進み、一言だけ告げた。「続ける」
最小限の指示ほど、場はよく動く。
宰相の副官が立ち上がり、何か言い募ろうとした瞬間、刻印師ギルドの親方が一歩進んだ。
「職能名で証言する。外扉の封蝋は熱ではなく刃で削がれた。刃の癖は人の癖。材料は香油で柔らげている。——花代で賄われる作法だ」
その場の花が、香りを失った気がした。香りは味方を選ぶ。今日は真実の味方では、ない。
公証官が頷く。「聴取は式後すぐ。——さて、王家は王冠を置く場を整えた」
広間の空気が一段軽くなる。床が固まると、人は立ちやすい。
王冠が運ばれ、僧が祈りのことばを省略して短く置く。「透明の上に、重みを」
ローレントが膝をつき、冠が降りる瞬間、王弟が最後の札を切った。
「待て。家名の名誉にかけて、わたしは王家のためにやったと——」
老公証官の杖が一度、床を打つ。
「職能名で話せ。個の名誉は判示の後だ」
王弟の言葉は、杖の音で過去形になった。
冠は、降りた。
大広間に、拍手ではない吐息が広がる。安堵——その成分は目に見えないが、匂いはわかる。香油ではない。紙と蝋の匂いだ。
式直後。判示全文の正本化に入る。公証官室には、寺院、近衛、刻印師、そして監査室。机は増やさず、紙だけ増やす。
ミーナが走り、私に差し出す。「封緘記録、写しできました」
「ありがとう。脚注は付けた?」
「“寺院印の信義は王命に従属せず、真実に奉仕する”——入れました」
「よくできました。素敵は脚注へ」
宰相は職務停止、王弟は印の差止。聴取は式場横の控室で淡々と始まる。
私は判示の最後の節を整え、老公証官に渡した。
判示・結語(確定稿・抜粋)
・王家の財は王家のものにあらず、公共のものである。
・印は個の意思ではなく、手続の意思を示す器である。
・よって王家は、その財と印の透明を、王冠の重みと等しく保たねばならない。
——本日の戴冠は、その宣誓である。
老紳士は目を細め、うっすら笑った。「壁が一本、増えた」
「ええ。前例という名の」
そこへ、軽く二度のノック。——合図。
振り向くと、ローレントが立っていた。冠は、まだ額に重いはずなのに、目は軽やかだ。
「ありがとう、セシリア」
「手続に礼はいりません」
「礼は手続の外で言う」
彼は、机の端の封蝋に息を吹いた。赤がしっかり固まるのを見守り、それから私の手を取る。人前で長くない、儀礼の範囲。
「誓約を、受けてくれるか」
「監査妃の職務は継続です」
「王妃としては?」
言葉は、短いほど重い。
「受けます」
ミーナがこっそりガッツポーズをした。私は視線だけで「脚注」と告げ、彼女は口元を押さえた。笑いは紙の油、過剰は禁物だ。
夕刻。聴取は進み、事実は人の口からも紙の向きに揃っていく。
楽士代表は涙を拭き、「仕組みが悪かった」と言った。仕組みは人の手で作られ、人の手で直る。
側室レムナは沈黙を守った。沈黙は時に、選択だ。裁きは法廷へ移る。
宰相エグモントは、最後まで扇を閉じなかった。閉じると、音が出るからだろう。音は記録に残る。——記録に残る音を、私は好む。
控室を出ると、夕日が王宮の石に蜂蜜を塗ったようだった。
王冠の金は、日が傾くと柔らかい。重みは、透明の上なら持てる。
私は机に残した付記の最終稿を取りに戻る。
付記(最終稿)
本報告書の作成に際し、妃は“恐れ”を三度感じた。
一、嘘が真実に化けるかもしれぬという恐れ。
二、手続が人に踏みにじられるかもしれぬという恐れ。
三、自分が噂になるかもしれぬという恐れ。
恐れは記録された。壁に埋め込まれた。
王冠は重い。ゆえに透明を要する。
——以上を、王妃就任の誓いとともに残す。
蝋を落とし、小さな息を吹く。赤は円になり、円は輪になる。輪は、鎖ではない。結び方次第で、守りになる。
廊下で、寺院の若僧が待っていた。「妃殿下。外扉の新しい封緘、完了しました」
「ありがとう。内扉の印は?」
「冷えました。二つの印が、隣り合っています」
隣り合う。二重押印は、二人にも似ている。
私は僧に礼を言い、広間へ出た。王弟の列はもうない。宰相の席は空。代わりに、掲示板の糸図が夕光で金と赤に揺れた。
糸は、嘘を縛るより、真実を結ぶために使いたい。
夜。王都の屋台から香辛料の匂いが上がり、広場に灯が連なる。
王宮のバルコニーで、ローレントが私に視線だけで問う。
「一日の総括は?」
「目的は達成。前例は成立。壁は増設。愛は……継続審議」
彼は小さく笑った。
「翌日付で可決見込みだ」
「議事録に残します」
私たちは並んで、夜の王都を見下ろした。鐘の音が薄く届く。
鐘は、真実の上にも落ちる。
王印も、愛も。
終局更新:提出物一覧(確定)
王家歳出監査報告書(正本/二重押印済)
判示全文(確定稿)
付録二「贈賄の経路図」/印影線圧図(保存版)
反論への回答書(第2版・証言反映)
運用覚書「夜間保全と再封緘」
付記:王冠と透明の重み(王妃就任誓い併記)
紙は白く、インクは黒い。
明日になっても、この二つの色は変わらない。記録が、愛の代わりをしないように。だが、愛もまた、記録に寄りかかれば長く持つ。
——公証ざまぁは完了。物語は、継続審議へ。