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第5話 戴冠式開会、報告書朗読

式典付議資料:王家歳出監査報告書・朗読要旨(最終稿)

作成者:王家監査妃 セシリア・アルテン

掲示物:付録二「贈賄の経路図」/印影線圧図(王弟印・原版差)

運用:朗読は要旨のみ。固有名は職名置換。罪責の確定は後段の判示に委ねる。


 夜の端がほどけ、王都の屋根が薄い金で縁取られる。大広間の高窓から差す朝の光は、埃の粒まで秩序立てる。音合わせのリュートが最後の和音を確かめ、宮廷鐘が三つ鳴る。

 ——前例のない朝だ。ならば、手順はひとつずつ増やせばいい。


 私は胸元に小さな糸切りばさみを忍ばせ、書見台の角を指で揃える。角が揃えば、視線も揃う。視線が揃えば、言葉は届く。

 壇上、王印箱は公証官の前に。外縁には寺院の僧が控え、近衛は赤い房飾りを槍に結んで立つ。群衆はまだ囁き、宰相席の背後に王弟の影が長い。香油の甘さは、昨夜の煙の残り香にも似ている。


「——入廷」

 伝令の声に、王太子ローレントが入る。白の外套、肩に青の細帯。冠はまだ被らない。王冠は真実の上にしか置かれないから、順序は最後だ。


 儀礼の挨拶が短く交わされ、公証官が一歩前へ。杖の先で石床を軽く叩く。

「本日の戴冠式に先立ち、王家の透明性のため、監査報告の要旨朗読を行う。朗読者は王家監査妃。掲示物は視覚に供する。……始めよ」


 静けさが、布をたぐるように場に降りる。私は一礼し、第一頁を開いた。比喩は節約。数字は簡潔。目的は開示、感情は節約。


朗読要旨/冒頭

 本報告書は、王家歳出の公共性に鑑み、側室費および宮廷音楽費からの過大計上と資金迂回の実態を疎明するものです。

 要点一:側室費の花代は相場比4.1倍。支払先は宰相府関係商会。

 要点二:楽士費は契約外の月次直払に分解され、運搬費名目で二重計上。

 要点三:上記の差額は、商会間移動ののち、政治献金として後援会に戻り、個別楽士への“謝礼”へと循環。


 掲示係が、赤と青の糸図を高窓下に広げる。ざわめきは起きない。起きないのは、驚きではなく理解が起きているからだ。

 王弟が片眉を上げる。宰相は扇を閉じ、手の中で骨を鳴らした。


朗読要旨/印影

 公文書の真正性については、印影照合により王弟印の原本性に欠陥を認めます。線圧の偏り——左肩の薄。彫り直し後にのみ現れる癖。さらに旧原型にのみ存在する微小欠け——「王」字の横画の髪幅短。

 結語:宰相府提出の“訂正版”は、原本性を欠く。


 その瞬間、王弟派の列から小さく笑う音がした。軽い、操りの笑い。

 王弟が立ち上がり、礼を装う角度で口を開く。「公証官殿。異議あり。刻印師の証言とやらは職能名で逃げを打つ。——我が用意した実名の証言を許されたし」


 公証官は眉を動かさない。「要旨朗読の後段で聴取する。いまは要旨だ」

「では、最小限だけ」王弟が押し切る。近衛がわずかに前へ出るが、王弟は両手を上げて制した。「楽士を呼べ。彼は“王妃候補の私室”に出入りし、夜更けに親密な練習を行った——と」


 群衆が揺れた。甘い匂いが濃くなる。噂は匂いに乗る。

 私は次頁へ滑り、声を落ち着かせる。準備は済んでいる。手続は壁で、壁は人で立つ。


朗読要旨/反論への回答(抜粋)

 当該“私室”は控室(公務室)であり、居室ではありません。出入り記録は兵舎と記録庫の二重一致。時刻は音合わせと仮縫いに該当。私的接触の時刻は存在しません。

 掲示:当番表・仮縫い票・魔眼通過刻(匿名化)。


 掲示板に、砂時計のように刻まれた通過刻が並ぶ。十分単位の薄い点滅。

 楽士のひとりが顔を伏せた。王弟は掌を返す。「ひとりの記録など当てにならぬ」

「ひとりではありません」私は短く返す。「二重です」

 老公証官が杖で床を一つ打つ。「二重は、壁だ」


 王弟は肩をすくめ、カードを切り替えた。「ならば、これを見よ」

 宰相の副官が巻物を持って駆け寄り、王弟の隣で広げる。宰相府“訂正版”の抜粋だ。昨日持ち込まれた偽帳簿。

 王弟は勝ち誇った顔で見回し、声を張った。「最新正本はここにある。最新こそ真であろう?」


 私は首を振った。公証官が静かに続ける。「最新は真ではない。真が正本だ」

 私は印影線圧図の一角に指先を置いた。「微小欠け——ここです。古い原型にだけある傷。真正本から写る傷は、訂正版にはない」

 刻印師ギルドの親方が前へ進み、深く一礼してから、職能名で証言した。「刻印師ギルド親方。原型は保管。再彫の依頼も記録。微小欠けは旧版にのみ。写らぬなら、版が違う」


 空気が張る。王弟は、笑いを保とうとして、口角を固くした。

「印など見間違いだ。群衆は数字より話を信じる。——たとえば、王太子の冷遇妃という話だ」


 ローレントが、ゆっくり立った。声は低く、届く。

「兄上。冷遇は事実だ。わたしの未熟が招いた。だからこそ、手続であがなう。君主の仕事は、正しい壁を立てることだ」


 ざわめきが潮のように引く。公証官が王印箱の鍵に触れ、私を見る。

「二重押印の時だ」


 壇上、記録庫の運用覚書に従い、式のための臨時規定が読み上げられる。王印の前段に、公証官の公証印。王印は判示の段階で落とす。

 私は要旨の最後頁を掲げ、短く息を整えた。

「結語:王宮は王冠の重みと同じだけ透明であるべきです。以上、要旨朗読を終了します」


 老公証官が公証印を取り、羊皮紙の左下に一押。硝子の下で赤が広がり、輪郭が固まる。

 その瞬間だった。

 宰相席の側から、鋼の鳴る音。

 近衛が一斉に槍を構え、観客席が割れ、黒衣の従者が走り込む。従者は掲示板の裏へ回り、糸図の支柱を折ろうとした。

 糸が揺れ、赤と青が絡む。人が図を壊そうとするとき、図は人を写す。

 私は書見台を離れ、一歩、二歩。高窓からの光が、支柱の金具に反射する。

「触れるな」近衛隊長の声が雷のように落ち、石突が床を打つ。

 従者の手首が槍で弾かれ、図は辛うじて保たれた。だが支柱の根元が軋み、倒れる。

 ——図が落ちる。視覚の壁が、崩れる。


 崩れるものがあるなら、もう一枚立てればいい。私は朗読台の背から、準備していた縮小図を引き抜いた。紐で束ねた三枚。膝で糸を押さえ、掲示係に投げ渡す。

「予備だ。三連で掲示!」

 掲示係が走り、僧が支柱を支え、近衛が従者を押さえる。群衆が息を吸い、王太子が片手を上げる。

「式は——続行する」

 声が場を止めた。止まった瞬間ほど、言葉は遠くへ飛ぶ。


 老公証官が、わずかに笑んだ。「壁は一枚で足りぬこともある」

「ええ。人で補強します」

 私は要旨束を持ち直し、公証官の前に置いた。老紳士は頷き、二枚目の書類に公証印を打つ。

 ——二重押印の半分が、終わる。


「判示へ移る」

 公証官の宣言に、宰相が立ち上がる。「待て。判示は王冠の後だろう」

「今日は前例のない朝だ」老公証官は杖を支えに、真っ直ぐ立った。「前例は、今作る」


 王弟が足を踏み鳴らし、歯を見せる。「ならば、証人を。楽士を出せ。言葉は甘く、音は滑る。群衆は数字より歌を信じる」

 私は一歩進んだ。

「歌は美しい。けれど今日は、歌詞を読ませてください。契約書という名の歌詞を」


 近衛が扉を開き、呼ばれていた楽士代表が入ってきた。深い青の外套、緊張で唇が乾いている。

「あなたの契約は、『王家歳出の公共性に反しないこと』が第一条ですね」

「……はい」

「“謝礼”は、後援会から受け取りましたね」

「はい……」

「その際、王弟派の集会で演奏も?」

 楽士は頷き、うつむいた。

「——契約違反です」私は短く切った。「政治資金からの回り金は、王家歳出の公共性に反します。あなた個人を罰する場ではない。けれど、仕組みを正す場です」


 場が静まった。王弟が笑いを歪ませる。「女が法を語る。退屈だ」

「退屈は、長持ちします」

 私は答えて、王印箱を見た。箱は、光を吸って鈍く光る。

 ローレントが壇の中央へ進み、ゆっくりと跪いた。僧が王冠を持ち、老公証官が王印の鍵を開ける。

 冠はまだ降りない。王印もまだ降りない。判示の言葉が、その前に置かれる。


 公証官が巻紙を取り、低く、しかし遠くへ響く声で読み始めた。

「——判示草稿・要旨。宰相職に関し、“訂正版”の提出は原本性欠落の疑い濃厚。王弟印につき、原型不一致および再彫未届、ならびに政治資金流用の関与について調査を命ず。記録庫の夜間二重封緘は適法。贈賄経路につき、関係各職能に聴取を行い、暫定的に支出停止を宣す——」


 その時、広間の端で軋む音。

 倒れかけの支柱を支えていた若い僧の手が滑った。図がふたたび傾く。

 私は走った。裾が石をかすめる。糸が指に食い込み、赤と青が掌に跡を残す。

 支柱の足を、私の糸切りばさみで一寸だけ削る。わずかな角度の差で、重心が戻る。糸は張り直り、図は再び立つ。

 ——壁は、紙でも、糸でも、意志でも立つ。


 戻ると、老公証官が王印を持ち上げていた。

「王印は、真実の上に。二重押印、後段——王印」

 吸い込む群衆の息。王弟の靴先が石を鳴らす。宰相の扇が音を失う。

 王印が、羊皮紙の右下へ降りていく——


 ドッ。

 大広間の扉が外から叩かれ、警鐘が短く連打された。近衛が駆け、伝令が飛び込む。

「記録庫・外扉の封緘——割られました! 寺院印が削られて!」


 場の温度が一息で変わる。老公証官の手は、しかし止まらない。

「二重押印は内部証拠の保全のため。外扉が破られたなら、内扉の印に全負荷をかけるだけだ」

 私の声も出た。「王印はここに落ちる。外の火は、内で壁に変える!」


 老公証官がうなずき、王印を——

 押した。

 赤が広がり、輪郭が固まり、王家の獅子が羊皮紙の上で牙を閉じる。

 歓声はまだ起きない。静寂が先に、場を覆う。静寂は、理解の前触れだ。


 王太子が立ち上がる。

「判示は、次段で全文を。宰相、王弟——動くな。近衛、記録庫へ二隊。寺院とともに外扉の再封緘。刻印師ギルドは鍵印の鋳型を持て。火は、壁の内側で終わらせる」


 王弟が最後の笑いを絞った。「押したな。紙に勝てると思うか」

「紙は長生きです」私は応じ、報告書を掲げた。「噂より、ずっと」


更新:提出物一覧(式場処理・直後)


朗読要旨(押印済)


公証官判示・草稿(読み上げ済/正本化待ち)


二重押印記録(映写魔眼の記録片)

次回提出予定:判示全文(確定稿)/関係者聴取調書の要旨/最終付記「王冠と透明の重み」


 王冠は、まだ降りない。

 降りる前に、一つだけ片づける。外扉の傷と、中の真実。

 ——最終話、公証ざまぁへ。

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