第3話 贈賄の経路図(付録二)
付録二:贈賄の経路図(要旨)
作成者:王家監査妃 セシリア・アルテン
配布範囲:国王陛下/王太子殿下/公証官/宰相府/王宮記録庫
目的:側室費・宮廷音楽費からの資金迂回および政治献金化の疎明
夜の王宮は、音が薄い。廊下の燭台が、蝋の滴で時間を刻む。
私の机上には、糸で結ばれた地図が広がっていた。王都の中心から、王弟派の邸、宰相遠縁の商会、城外の倉庫、狩猟のための離宮へ。
赤い糸は出費、青い糸は戻り金。糸は絡み、しかし音楽会の夜にだけ、必ず輪になる。
経路図・要旨
① 王家支出(側室費・楽士費)→ 商会A(花・香油)
② 商会A → 運搬費名目で商会Bへ
③ 商会B → 寄付金として王弟派後援会へ
④ 後援会 → 契約外の謝礼として個別楽士へ(政治活動)
※ ②〜③の間で現金化(倉庫番証言)
結語:王家歳出が、王弟派の政治資金として循環
糸は嘘をつかない。ただ、誰が結んだかを黙る。そこを、文字が話す番だ。
「ここで解けます」私はローレントに赤糸の結び目を示した。「離宮の夜。王弟が狩猟から戻った翌日、花代と楽士費が必ず増える」
「狩りの勝利祝だと言い張るだろう」
「祝うのは自由です。公費でなければ」
王太子は頷き、卓上の小さな鐘を鳴らした。ほどなく近衛の隊長が入ってくる。
「記録庫の保全は?」
「仮差押え申請に基づき、封緘済み。ただし宰相府が“夜間の閲覧”を主張し、内扉の前に人を立てています」
「なら外扉の鍵は、中立寺院に預ける」ローレントは短く命じた。「公証官にも通知を」
私は補助書記の少女ミーナに目配せした。彼女は灰皿と和紙を抱え、卓へ走る。
「印影の線圧図、完成しました」
羊皮紙に、黒い微細なグラデーションが広がる。王弟印の左肩だけ、墨の乗りがわずかに薄い。
「彫り直しの刃の角度が違うと、この薄さが出ます」ミーナは緊張で指先を震わせながら、言葉を重ねた。「冬配合の墨なら均一ですが、夏配合だと乾きが早く、薄い箇所が目立つんです」
私は頷き、付箋を貼る。「これで真正本と偽帳簿の差は、視覚でも示せる」
午後の終わり、公証官室へ。老紳士は背筋を伸ばしたまま、机上の王印箱に手を置いていた。
「寺院側、受託を承諾。聖務の守秘の下、外扉の鍵を受ける」
「内扉前の宰相府は?」
「内は世俗、外は聖域。二重の鍵で、火が壁を越えにくくなる」
そこへ、控えめなノック。入ってきたのは、小柄な老人。皮エプロンに鉄粉、腰に細い鑿。
「刻印師ギルドの親方だ」公証官が紹介した。「呼んだのはわしだ」
親方は頭を下げ、布に包んだ小箱を置く。
「王弟殿下より再彫依頼がございました。理由は『朱の乗りが悪い』。古い原型を返せとの命も——ですが、ギルド規定で原型は保管。返納は済ませておりませぬ」
老公証官の目が細くなる。「証言は、明朝、職能名で」
「心得ました」
親方は私の線圧図を覗き込み、口の端を上げた。「よく見ておられる。左肩の薄は、刃の研ぎ直しの跡。素人には出せません」
私は息を整え、贈賄経路図と線圧図をひとつの台紙に合綴した。金の流れと印の歪みは、同じ方向を指している。
朗読用要旨(草案)/抜粋
・王家歳出の公共性に鑑み、支出から政治資金への流用は違法
・印影照合により、王弟印の原本性に欠陥
・上記事実は、宰相府提出の“訂正版”の真正性を否定
結語:王宮は、王冠の重さと同じだけ透明であるべき
夕刻、記録庫へ向かう。外扉の前には寺院の若い僧と近衛、内扉の前には宰相府の書記官たち。空気は乾いて、紙と革の匂いが濃い。
私は寺院印の蝋を押し、外扉の鍵を僧の懐に収めてもらう。
その瞬間、内扉側で金具の軋み。
「開けるな」近衛隊長の声が低く響き、短槍の石突が床を叩いた。
内側から、宰相付きの書記官が顔を覗かせる。「王弟殿下の御許可で、正本の差替えを——」
「外扉は聖務の封緘下にある」僧が柔らかな声で告げる。「聖務は王命に優先されぬが、真実に奉仕する。今宵は、そのための鍵である」
短い沈黙のあと、内扉は再び閉まった。金具が噛み合う音が、骨に染みる。
私は深く息を吐き、公証官に向き直る。
「朗読案、最終化に入ります。名は職名、事実は要旨。印影と経路図は、視覚掲示で」
「王太子殿下には?」
「今夜——」と、言い終える前に、廊下の奥から靴音が二種類重なって近づいた。軽い革靴と、重い拍。
現れたのは、ローレントと——王弟だった。
「監査妃殿下」王弟は笑みを貼り付けた。「明朝の式に雑音は要らぬ。王弟印の件は、私的な事情でな。彫り直しは美観のため。王国運営と無関係だ」
「私的の定義が広すぎます」私は微笑で返す。「王弟殿下の印は、王国の手続と結婚しています。私的ではありません」
ローレントが一歩前に出る。「兄上。明朝、要旨の朗読を許す。王冠は、真実の上にしか置けない」
王弟の笑みは、紙のように薄くなった。「ならば、私も証人を用意しよう」
「証人?」
「“ある楽士”だ。彼は、王妃候補の私室に何度も出入りしたと証言するだろう。不貞の疑いは、贈賄より民草の耳に響く」
空気が冷え、蝋燭が小さくはぜた。
私は一拍だけ目を閉じ、Q&Aの草案を脳内で繰る。
——中傷は想定内。手続で受け止め、事実で返す。
「公証官殿」私は静かに言った。「反論への回答書(追記)を、今から起案します。私室の出入り記録と警護当番表は、すでに確保済み」
「よろしい」老紳士は王印箱に手を置いたまま、わずかに頷いた。「二重押印の案——覚えておるな」
「はい。王印と公証印。火は、壁の内で燃やします」
王弟は踵を返し、重い拍を残して去る。ローレントは私の手から台紙を受け取り、短く言った。
「今夜は二度ノックする。最後の確認だ」
「承知しました」
夜が下りる。寺院の鐘が、鍵の音に重なって鳴る。
線圧図は黒く、経路図は赤と青で、机上に静かだ。静けさは、嵐の前に似ている。
更新:提出物一覧(本日起案・追加)
付録二「贈賄の経路図」完成版(糸図/文面二段)
印影線圧図(王弟印・三ヶ月差分)/刻印師ギルド証言調書草案
反論への回答書(追記):私室出入り記録・警護当番表・楽士契約書抜粋
次回提出予定:朗読用要旨の最終稿/掲示用図版(式典用卓上スクリーン)/二重押印の運用覚書
窓の外、遠くで笛の練習が始まる。明日の音合わせだろう。
音は、空気の上にしか乗らない。
王印は、真実の上にしか乗らない。
——明朝、王冠もまた。