第2話 側室費の付帯明細(添付一)
添付一:王家歳出・側室費の付帯明細(抜粋)
作成者:王家監査妃 セシリア・アルテン
配布範囲:国王陛下/王太子殿下/公証官/宰相府/王宮記録庫
目的:側室費に関する過大計上および迂回支出の疎明
夜が明ければ式。けれど監査室の窓はまだ暗い。窓辺の砂時計が乾いた音で落ち、机上の紙片は私の癖で角が揃う。
“角が揃えば、世界の輪郭も揃う”——願掛けのようなものだ。数字は感情を持たないが、順序は人を勇気づける。
私は側室レムナに紐づく支払いから入った。レムナは派手さで知られる。華やかさは罪ではない。しかし公費である以上、証拠は必要だ。
A. 花代(年度合計)
・実績:48,600金貨(王家支出)
・市場相場:11,800〜12,200金貨(季節変動補正済)
・差額:約36,000金貨(4.1倍)
支払先:商会A(宰相エグモント遠縁)
注記:入荷記録に品種名の欠落多数。香油扱いへの科目付替えが確認される。
B. 楽士費(契約形態)
・帳簿上:年額一括(王立楽団)
・実態:月次直払(個別演奏者)に分解
・差額発生源:運搬費・接待費名目の二重計上
支払先:演奏者計31名(うち9名が王弟派の後援者)
C. 衣装仕立(式典用)
・調達記録:同型色違い三十着
・式典記録:五着のみ着用
・残数:二十五着の所在不明(後述の貸出簿に痕跡なし)
羅列は退屈に見える。しかし、退屈の中でだけ浮かぶものがある。数列の“揺れ”だ。
花代の支払日は奇妙に整っていた。毎月、王弟の狩猟帰還の翌日に集中する。偶然は三度繰り返すと性格になる。私は“香油”の卸先を辿り、城外の倉庫に行った。保管台帳は整然、その整然さがむしろ不自然。
倉庫番の青年に尋ねると、彼は手袋のまま帽子のつばを弄び、目を泳がせた。
「“礼節の費”は、書きやすいんで」
「礼節に、香油は必要ですね」
「必要で……ございます」
「では、王妃候補の部屋から香油の匂いがしないのは、なぜ?」
「……風通しが、良いんで」
答えは幼い。だが、幼い答えが出る時、たいてい大人の指示が背後にいる。私は倉庫の帳簿に糸口を残し、城に戻った。
昼前、王太子の執務室。ローレントは地図の上で騎士団の配置を動かし、私を見ると手を止めた。
「進捗を」
「花代は、香油への付替えが主犯。楽士費は二重計上。衣装は所在不明二十五」
「多いな」
「少ないより、法廷で勝てます」
殿下は笑みを浮かべたが、すぐ真顔に戻る。「宰相は?」
「差替え帳簿を用意しているはずです。時刻は——」
廊下の向こう、革靴の乾いた足音が近づいた。音の主は、待っていた者ではなかった。
側室レムナが、花の刺繍の裾を引いて入ってきた。微笑は完璧、手首は香油の甘い気配。
「殿下。戴冠の御成功を祈念し、贈り物を」
侍女が捧げ持つ箱。開くと、布に包まれたタカラバネの花。国外の砂漠でしか咲かない、希少で高価な品だ。
「市場にほとんど出ない花です。王国に相応しいと思いまして」
私は一歩近づいた。花弁の縁に微かな銀粉が見える。保存加工の印。ならば輸入記録があるはずだ。
「素晴らしい。輸入はどの商会から?」
レムナの微笑が、紙一枚ぶんだけ薄くなった。「商会の名など、覚える必要は……」
「あります。公費ですから」
ローレントが咳払いし、事務的に言った。「商会名を、後ほど宰相府へ」
彼女は会釈して下がりかけ、ふっと私の方だけを見た。
「監査妃殿下。あなたの“報告書”……文字が多いほど、愛は少なくなると聞きましたわ」
「数字は愛の代わりをしません。ただ、嘘の代わりはします」
軽い火花。レムナは笑って去った。香りだけが重く残る。
午後、監査室に戻ると、扉の前に見慣れぬ木箱が置いてあった。差出人は宰相府。封蝋は正規。
開けると、帳簿。同じ背表紙、同じ金具、同じ——いや、同じすぎる。
私は紙の縁を爪で弾き、耳を澄ませた。紙鳴りは乾いた高音。王宮記録庫の紙とは繊維が違う。
さらに、勘定科目の字体が一箇所だけ古い書記官の癖を模している。真似はできる。けれど、癖の頻度分布までは真似できない。
偽装検出メモ(簡易)
・紙質:王宮標準紙(亜麻混合)に比し、繊維密度が低い
・墨:冬配合のはずが夏配合(乾き速度の差)
・字体:旧書記官“ハ”の左払いが9割→本来は6割
結語:帳簿は**差替え(偽装)**の疑い濃厚
私は即座に比較用の真正本を記録庫から取り寄せ、段落ごとに照合した。数字の列はよくできている。だが、“誤りがない”という誤りをしている。たとえば花代の月次合計は、四半期合計と一桁も狂わず一致。現実の帳簿でそれはありえない。人は、計算ミスをする動物だ。
——完璧な書類ほど、嘘の匂いを放つ。
「セシリア」書見台の向こうで、補助書記の少女が顔を上げる。「宰相府から**“訂正版の受領印”を求められています」
「まだ受領していません」
「“監査室が受領した”と、伝令が広間で触れ回っています」
空気が冷えた。受領の既成事実化。式の直前に、真偽不明の帳簿を王宮の正本**に見せかける作戦。
私は公証官室に向かった。廊下の赤絨毯の上で、侍従たちがすれ違いに会釈する。扉を開けると、老公証官が硝子越しの光を背に立っていた。
「宰相府の“訂正版”を、ご覧になりましたね」
「拝見した。紙は黙るが、指は覚える。余白の乾き方が違う」
「明朝の公証で、この偽帳簿を**『最新の正本』**として押し通すつもりです」
「ならば、最新の定義を改めましょう」
私は机上に二冊の帳簿を並べ、老紳士の前に押し出した。
「“最新”は、作られた順ではない。真実に最も近いものです」
「公証の語では、それを原本性と言う」
「ええ。原本性の証明に、印影と紙質と誤差を使います。さらに——」
私は引き出しから、三ヶ月前の支払指示書の束を出した。王弟の狩猟帰還翌日、楽士費が妙に増える日の分だ。
「これが本物なら、指示書との微細な誤差が残る。偽帳簿は、綺麗すぎる。誤差が怖くて、消してしまったから」
老紳士は微笑を抑えきれず、咳で誤魔化した。「妃殿下の論は、火に水を通す」
「火は壁の内で燃やします。明朝、朗読は要旨のみ。名は職名で代える。罪責は後段の判示。——ただし、真正本の抜粋のみ朗読します」
公証官が頷こうとした、その時。扉が乱暴に開いた。
宰相エグモントが、冬の風のように入ってきた。背後には王弟の影。
「公証官殿。監査室が最新正本の受領印を拒んでいるそうだな」
「拒んでいます。理由は簡潔——原本性がない」
宰相の目が細くなる。「ならば、王命で最新とする」
老公証官の瞳に、静かな怒りが灯った。「王命は真実の代わりにはならぬ」
宰相は口角を上げた。「では王弟殿下の許可で」
王弟が一歩出た。その動きに合わせ、廊下から重い足音が近づいてくる。鎧の擦れる鈍い音。
私は一度、紙の角を揃えた。角が揃えば、世界の輪郭も——揃うはずだ。
更新:提出物一覧(本日起案・差替え)
真正本照合表(印影・紙質・誤差の三点)
朗読用要旨(固有名→職名)
仮差押え申請書(記録庫の帳簿保全)
次回提出予定:王弟印影の版差の決定的証拠
宰相が手を伸ばし、偽帳簿に触れた。その指先は、自信に満ちている。
老公証官は王印箱の鍵を握り、私を見る。
「妃殿下、壁を——」
「ええ、ここに作ります」
そのとき、外の鐘が鳴った。戴冠式前夜、最後の時の鐘。
公証室の空気が引き締まり、紙の匂いに鉄の匂いが混ざる。
偽の正本が机上で静かに笑い、真正本が静かに息をする。
——明朝、どちらに王印が落ちるのか。
選ぶのは、手続だ。いや、手続を選ぶ人間だ。