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第1話 戴冠前夜、起案番号A-01

※本作には“職務上の圧力/権力の乱用”の描写があります。暴力・流血はありません。最終話はハッピーエンドです。


起案番号:A-01

作成者:王家監査妃 セシリア・アルテン

件名:王家歳出監査報告書(要旨)

配布範囲:国王陛下/王太子殿下/公証官/宰相府/王宮記録庫

補注:以下、物語上の簡略用語を用いる。


 戴冠式は明朝。王都は金糸で飾られ、広場の屋台はもう香辛料の煙を上げている。けれど、王宮の最奥——冷たい石床の上で、私は机に積んだ帳簿の背を静かに指で揃えた。

 数字は熱も匂いも持たない。ただ、嘘を嫌う。


 “冷遇妃”と囁かれるのにも慣れた。舞踏会の席順はつねに端、挨拶は手短、視線は氷のよう。そんな日々に、一つだけ温かい例外がある。夜更け、王太子ローレントが私室の扉を二度ノックする音だ。二度——それは「話があるけれど無理はするな」の合図。

 この夜も、合図は落ちた。


「進め、セシリア」

「最終版を持参しました、殿下」


 机上に広げた報告書の目次は、贈答と音楽と花で埋まっている。華やかな言葉は、費目を装う仮面にすぎない。


抜粋:側室費の付帯明細(要旨)

・花代:市場相場比 4.1倍/支払先は宰相エグモント遠縁の商会A

・楽士費:年間契約のはずが月次直払に分解/差額が“運搬費”に化ける

・衣装仕立:同型色違いが三十着、式典記録は五着のみ

結語:差額は“礼節の費”に付替え、王家支出から迂回


 ローレントは目で追い、短く息を吐いた。「……ここまで、よく辿ったな」

「数字が辿らせてくれました。噂は消えても、支出は記録庫で眠り続けます」


 私が“監査妃”に選ばれたのは、婚姻から三ヶ月後だ。宰相は笑っていた。「妃殿下が帳簿をご覧に? 退屈でいらっしゃいましょう」。退屈は、彼の言葉では褒め言葉だ。女は飾り、数字は男の遊び。そんな古びた前提に、王宮全体が寄りかかっている。


 私は退屈に見える方法で、退屈でないものを集めた。王城の門番交替表、楽団の練習日誌、花商の仕入帳。ばらばらの紙片が夜ごと机に積もる。

 積雪は、重さで地面を変える。ある閾値を越えると、沈む音がする。——その音が今だ。


「公証官には?」

「本日昼、事前協議を済ませました。公証の条件は**“真実性の疎明”と“公共性”。証拠は要件を満たします」

「よし。式典での朗読は——」

 扉が叩かれた。二度ではない。一度、間を置いて三度**。公職者の礼儀。


 入ってきたのは、公証官の老紳士だ。無駄のない所作で一礼し、薄い封筒を置く。

「監査妃殿下。前例がございません」

 静かな声は、机の隅まで等しく届いた。

「前例、ですか」

「戴冠式において、公証対象文書の妃による朗読。王家史料を遡りましたが、判例がない。——判例のない公証は、政治だ。政治は、火だ」


 ローレントの指が、椅子の肘掛を一度だけ叩いた。王太子は慎重だ。慎重であることは、弱さではない。火を見るとき、人は水を用意する。


「老公証官殿」私は封筒を手に取り、糸で綴じられた口を解いた。「前例の定義を確認させてください」

「……?」

「“前に例があること”。つまり、例は前にしかない。未来の例は、作るしかありません」

 老紳士は目の奥を細めた。すぐには笑わない人の、笑いの準備だ。


照合:印影記録 抜粋

・王印:最新の判定で偽造痕なし

・宰相印:三ヶ月前と線圧が不一致(硬度測定差3.2)

・王弟印:年次報告と別版の疑い/彫り直し届出未提出


「政治は火です。だからこそ、公証は防火壁でしょう」

 私は報告書の“朗読案”の頁を開いた。文章は、短く。比喩は、慎む。感情は、節約。

「朗読は感情を沸かせるためではありません。事実の開示を誰も遮れない形で行うためです」


 公証官はしばし黙し、やがてローレントを見た。「王太子殿下は、どう裁可なさる」

「裁可は、明朝の式で下す」殿下は立ち上がった。「私が王冠を受けるのは、王国の重みを引き受けるためだ。その場で王印を真実の上に押そう」


 老紳士は小さく頷き、封筒から一枚の羊皮紙を抜いた。「前例の代わりに、条件を。朗読は要旨のみ、固有名は職名で代替。罪責の確定は後段の判示にて。これならば、火は壁の内で燃える」


「受け入れます」私は即答した。条件は、手続きの言葉でできている。手続きは、私の武器だ。


 老紳士が出ていき、室内に静けさが戻る。

「セシリア」ローレントの声は低い。「君は恐くないのか」

「恐いですよ」本当だ。手は、少しだけ汗ばむ。「でも、恐さも記録できます。恐れ:軽微。理由:手続により軽減」

 殿下が、笑った。短く、確かな音で。「君の報告書の、そういうところが好きだ」


 扉の外で、遠い喇叭が鳴る。明日の式典のため、夜警の動線が変わった合図だ。

 私は報告書を綴じ、封蝋に小さく息を吹きかける。蝋は固まり、赤い輪が均質な光を返す。


提出物一覧(本日起案分)


王家歳出監査報告書(要旨版・朗読用)


付帯明細 添付一「側室費」/付録二「贈賄経路図」


反論想定Q&A(公表用草案)

次回提出予定:印影照合の最終結果/朗読用台本の短縮稿


 廊下を渡るとき、ふと壁に掛けられたタペストリが風に膨らんだ。金糸が波打ち、王冠の模様がたわむ。

 ——王冠も、重さで形を変える。ならば、真実の重みで変えればいい。


 夜が深まる。明日は、前例が生まれる日だ。

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