第五話「暦の上では春」
これまでの登場人物
下谷豊 25歳。独身。休職中。この世のすべてが分かった。
下谷とき子 21歳。大学生。この世のすべてを分からせた。
京子 豊の同級生。
下谷久幸 30歳。県警の刑事。先日、靴屋の女性店員に惚れ、連絡先の交換に成功。
母 ?歳。理系。長男が久しぶりにデートへ行くらしいという情報を聞きつけ、長男の一番新しいスニーカーの裏にうんちをなすりつける。
父 ?歳。文系。先日、公園で犬に懐かれ毛だらけになる。
「いらっしゃい」
女将の濃いアイブローの下にきらりと光る眼が、暖簾をくぐる女性へ向けられた。
「女将さんごめん、それ私が食べるわ」
「あれ、さっきの子は」
「こいつが不甲斐ないから怒って帰っちゃったみたい」
「へえ」
女将はニヤリと口角をあげ、豊を一瞥すると、すぐさま目線を切り、
「瓶ビール?」
嗄れているが芯のある声で、その女性へ声をかけた。
「うん、ありがと」
女性は悠然と豊の向かいへ着席した。
「とき子」
豊は目を見張った。
ここは、豊が朝飯前に世界のすべてを知ったあの瞬間から数えて7年前の時空、
とき子は、ゆったりしたシルエットのグレーのジーンズ、白いTシャツの上にライダースジャケットを合わせ、どこからどう見ても今風の女子大生という風体。
それは豊が7年後の今朝見た姿そのものだった。
「なんでお前、その」
「うん、私も京子さんの言ってること激しく同意だし、お兄ちゃんのこと、キモ、クサ、ダル、ウザ、どっかいけ、って思うけど、死ぬほど好きな人にコテンパンにフラれたってその一点だけは同情してあげるわ。きもいけど。」
「あかん、気持ち悪くなってきた」
「時空酔い?」
「いや、そんなんじゃない。もっと俺の人生そのものにかかわる吐き気だ」
「コ〇イン打ってあげようか」
「……いい」
豊はもう、頭がぐちゃぐちゃだった。
「お兄ちゃんのタイムリープは、お兄ちゃんの有機体をコンピュータのように改変して行うから、その計算量に依存しちゃうんだよね。結果意識のみで時空を超えてることになるから、頭が混乱しちゃうんだよ。――ありがとうございます」
とき子は、女将から瓶ビールを受け取ると、小さなコップへ注ぎ、軽く呷った後、おしぼりに手をかけ、口元を少し拭うと、箸を割って柴漬けを一切れその口へ放り込んだ。
「なんでもいいや」
豊はもう、妹の不思議を考えるのは時間の無駄と割り切った。
なぜならもう、豊の脳みそはもう、京子の笑った顔でいっぱいになっていたのだ。
「本気で好きだったんだ、本気だったんだ。この体がそう言ってるよ」
「どうすんの」
「どうにもならないだろ。聞いてたんだろ? さっきの会話」
「うん」
豊はここで、初めて箸を割った。
高校生の兄と、大学生の妹は、お好み焼き「野風」で一通り食事を終えると、
駅へと向かった。
「お兄ちゃん、もう戻る?」
「もう少しこの時代を散策して帰るよ」
「そう、じゃあ、あたし先戻ってるね」
まだまだ冬の空気は色濃く、葉を落とした街路樹の道を冷たく吹き抜けていった。
豊は、まるで最初からいなかったかのように忽然と姿を消した妹ではなく、
その奥に見える人影に息を呑んだ。
「まだ、帰ってなかったんだ」
細く繊細な声。
ロータリー、そこに停まるタクシー、クラクションを鳴らされる乗用車、鳴らす基幹バス。
マフラーで口元を隠し足早に帰り路を急ぐ人々、いつ落ちたかわからない落ち葉、
その瞬間、豊は、自分と京子を取り巻くすべてが、光を放つように感じた。
「……うん、一応、食べてから出たんだ」
「ごめん、これ、ご飯代」
「良いよ、そんな」
「良くないよ」
千円札と、京子の手、
「冷たいな」
その細い指を自らの手中に感じて、この瞬間がそのまま固まってほしいと願う豊だった。
実際問題、意識を加速させ、それに近い事はできてしまう豊だったが、
ラブストーリーにSFは太刀打ちできないのである。
黙りこくる二人。
それから何秒経ったか、もうわからなかった。
ただ時間が過ぎるごとに、二人の胸の鼓動は高鳴り、手は汗ばむほどに熱くなっていた。
どちらから、か、わからない。
二人は唇を重ねていた。
おそらく京子からだろうが、その真実は二人にしかわからない。
「さよなら、元気で」
車掌が笛を吹き、列車のドアは大きな音を立てて閉まった。




