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夜を待つ  作者: 斎藤海月
白崎凪
7/15

6.

 夜の街に出るのは、初めてだった。


 透さんに借りたフードつきのパーカーは、やっぱりぶかぶかで、袖が手の先まで隠れてしまう。フードを深くかぶると、顔がほとんど見えなくなった。

「これなら、誰にも気づかれないよ」

 そう言った透さんの声を思い出して、少しだけ安心する。


 街は昼間とはまるで違う顔をしていた。

 街灯が等間隔にぼんやりと光っていて、コンビニや自販機の明かりが遠くからでも目立っている。人通りはほとんどなく、車の音だけが時折遠くで響く。

 知らない世界に足を踏み入れたようで、胸が少しざわざわした。


 でも、隣に透さんがいる。

 ぶかぶかの袖の下で、そっと自分の手を握りしめる。――大丈夫。透さんが一緒なら、何も怖くない。


「こっちの道のほうが、人が少ないんだ」


 透さんが静かに言い、路地裏に近い細い道を選んで歩く。アスファルトの上に落ちる影が、街灯に照らされて長く伸びた。


 そんなとき――


「……っ」


 足が、不意に止まった。


 電柱に貼られたポスターが、夜風に揺れている。

 そこに映るのは、笑顔を作らされた私の写真。

「行方不明」――太い赤い字。

 その下には私の名前と、見覚えのある電話番号。


 胸がぎゅっと縮んで、呼吸が詰まる。

 足元がふらりと揺れた瞬間、隣から透さんの声が落ちてきた。


「……見ちゃった?」


 私は、震える指先でポスターを指さすことしかできなかった。


 透さんは一瞬だけそれを見て、私の頭にそっと手を置く。


「……大丈夫。フード、もっと深くかぶろうな」



 透さんの手が、私のフードをそっと引いてくれる。布の影に顔を隠すと、少しだけ安心した気がした。


 そのまま歩き出すと、前から何人かが通り過ぎていく。

 すれ違う一組――お父さんとお母さんに挟まれて、浴衣を着た小さな女の子が笑っている。

 三人は手を繋いで、屋台の袋をぶら下げていた。


 私は、思わずじっと見てしまった。

 ……ああ、いいな。

 頭の奥が、ずきりと痛む。


 横で透さんも黙ってそれを見ていたけど――ふいに、私の手をとった。


「……っ」


 びっくりして顔を上げると、透さんはいつものように穏やかな目で笑っていた。


「人混みで離れないように、ね」


 その手は大きくて、あたたかくて。

 ぎゅっと握られると、不安が少しずつ消えていく気がした。


「今日はさ、夏祭りの日みたいだよ」


「……夏祭り?」


「うん。花火は……多分ちょこっと見れるかな。……あ、ほら、あっちから祭りの音がするでしょ?」


 突然透さんが遠くの方を指さした。

 耳を済ませると、確かに聞こえる。太鼓の音と、わずかに届く人の賑やかな声。焼きそばや綿あめの匂いまで、風に乗って流れてくる気がした。


「行かないの……?」


 少し期待を込めて訊ねると、透さんは首を横に振った。


「……人が多いと、見つかりやすいからね。今日はやめとこう。……でも、いい場所があるんだ」


 そう言って、私の手を引く。それからまた私たちは歩き出した。

 舗装された道から外れて、少し暗い林の中に入る。

 木々の間を抜けるたび、草の匂いと夜風が混ざり合って、ひんやりと肌に触れた。


「……大丈夫?」


 透さんがそう小さく声をかけてくれる。

 私は黙ってうなずいた。


 ザザァ……と、低い音が耳に届いたのは、そのすぐあとだった。

 波の音? そう思った次の瞬間、木々の間から急に視界が開ける。


「……あっ」


 目の前いっぱいに広がったのは、真っ暗な海だった。

 月の光を映して揺れる水面が、きらきらと光を散らしている。

 潮風が頬を撫でて、心臓がふわっと浮くような感覚になる。


「ここ、穴場なんだ。普段から人が少ないけど……祭りの日は、ほとんど誰も来ない」


 透さんの言葉どおり、辺りには私たち以外、誰もいなかった。

 ただ、静かな波の音と、遠くで鳴る花火の音が、夜の空気に溶けて響いている。


「……きれい……」


 気づけば、そう呟いていた。

 潮の匂い、月明かり、静かな波――全部が、胸いっぱいに広がっていく。


 透さんが、少し笑いながら私の横に立った。


「……凪ちゃんには、やっぱり海が似合うね」


 その言葉に、思わず透さんを見上げる。

 月明かりに照らされた横顔は、穏やかで、どこか優しい。


「名前の通りだなって思うよ。……海の“凪”」


「……」


 胸がじんわり熱くなる。

 お母さんにその名前を呼ばれるときは、冷たく響く音にしか聞こえなかったのに、透さんの声は違った。

 同じ名前なのに、どうしてこんなに温度が違うんだろう。


「……ありがとう」

 小さくそう言うと、透さんが「ん?」と首を傾げて笑った。


 その笑顔を見ていると、不思議と海の音と一緒に、心の中まで静かに凪いでいった。


 波打ち際まで降りて、私はサンダルを脱いだ。

 ひんやりとした砂の感触に、くすぐったいような気持ちになる。


「冷たくない?」

 透さんが少し心配そうに言う。


「……平気」


 裸足のまま、そっと波に足先を入れてみる。

 ザザァ……と、寄せては返す波がくるぶしをくすぐるたびに、小さく笑いがこぼれた。

 潮の匂いも、海の音も、ぜんぶが新鮮で、ずっとここにいたいと思うくらいだった。


 透さんは砂浜に立ちながら、黙って私のほうを見ていた。

 その視線をなんとなく感じて、振り返って見上げると――透さんはふっと微笑んだ。

 それだけで、胸が少しきゅうっとなる。


 そうして、どれくらいそうしていたんだろう。

 波の音と、遠くの花火の音と、月明かりだけの世界。

 気づけば、花火の音すらもう聞こえなくなっていた。


「……そろそろ帰ろっか」

 透さんの声に我に返る。


「……うん」


 靴を履きなおし、砂浜をあとにする。

 帰り道は、来るときとは違う道。

 人通りのほとんどない、静かな住宅街を抜けていく。

 街灯に照らされたアスファルトと、透さんの横顔が交互に視界に映る。


 その背中を追いかけながら――もう少しだけ、この時間が続けばいいのに、なんて、思ってしまった。


 ――もうすぐ家かな、なんて思っていたそのときだ。


「……え?」


 立ち止まった視線の先にあったのは、赤い光のついた小さな建物。

 交番――。


 え、なんで……?


 戸惑う間もなく、透さんは私の手をぎゅっと握り直した。

 そして、迷いのない足取りで交番の中に入っていく。


「……この子は、白崎凪です」


 耳に届いたその声に、心臓が止まりそうになった。

 振り向いた透さんの横顔は、まっすぐで、何一つ揺らいでいなかった。


「……俺が、この子を誘拐しました」


 その言葉が響いた瞬間、頭が真っ白になった。


 え……なに……? どういう意味……?


「……は?」

 思わず、間抜けな声が漏れたのは、私だけじゃなかった。


 交番にいたお巡りさんが二人、きょとんとした顔でこちらを見て――それから、凍りついたように動きを止める。

 一瞬の静寂のあと、片方の警官が私の顔をまじまじと見て、目を見開いた。


「……ほんとだ! この子……朝ドラの……!」


 その瞬間、世界が一気に動き出した。

 慌ただしい声、電話の音、椅子の軋む音。

 気づけば私は透さんの手を、誰かに強く引き剥がされていた。


「えっ……や、やだ……!」


 声が震える。何が起きているのか分からない。

 でも、ただ――繋いでいた手が離れていくのだけは、はっきり分かった。


「……捨てないで!透、さ……」


 名前を呼んだ声は、最後まで言い切る前に、ぐいっと引かれて遮られた。


 交番の外の夜気が揺らぎ、風鈴の音の幻が耳に響いた気がしたところで、私の視界は涙でぼやけていった――。

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