6.
夜の街に出るのは、初めてだった。
透さんに借りたフードつきのパーカーは、やっぱりぶかぶかで、袖が手の先まで隠れてしまう。フードを深くかぶると、顔がほとんど見えなくなった。
「これなら、誰にも気づかれないよ」
そう言った透さんの声を思い出して、少しだけ安心する。
街は昼間とはまるで違う顔をしていた。
街灯が等間隔にぼんやりと光っていて、コンビニや自販機の明かりが遠くからでも目立っている。人通りはほとんどなく、車の音だけが時折遠くで響く。
知らない世界に足を踏み入れたようで、胸が少しざわざわした。
でも、隣に透さんがいる。
ぶかぶかの袖の下で、そっと自分の手を握りしめる。――大丈夫。透さんが一緒なら、何も怖くない。
「こっちの道のほうが、人が少ないんだ」
透さんが静かに言い、路地裏に近い細い道を選んで歩く。アスファルトの上に落ちる影が、街灯に照らされて長く伸びた。
そんなとき――
「……っ」
足が、不意に止まった。
電柱に貼られたポスターが、夜風に揺れている。
そこに映るのは、笑顔を作らされた私の写真。
「行方不明」――太い赤い字。
その下には私の名前と、見覚えのある電話番号。
胸がぎゅっと縮んで、呼吸が詰まる。
足元がふらりと揺れた瞬間、隣から透さんの声が落ちてきた。
「……見ちゃった?」
私は、震える指先でポスターを指さすことしかできなかった。
透さんは一瞬だけそれを見て、私の頭にそっと手を置く。
「……大丈夫。フード、もっと深くかぶろうな」
透さんの手が、私のフードをそっと引いてくれる。布の影に顔を隠すと、少しだけ安心した気がした。
そのまま歩き出すと、前から何人かが通り過ぎていく。
すれ違う一組――お父さんとお母さんに挟まれて、浴衣を着た小さな女の子が笑っている。
三人は手を繋いで、屋台の袋をぶら下げていた。
私は、思わずじっと見てしまった。
……ああ、いいな。
頭の奥が、ずきりと痛む。
横で透さんも黙ってそれを見ていたけど――ふいに、私の手をとった。
「……っ」
びっくりして顔を上げると、透さんはいつものように穏やかな目で笑っていた。
「人混みで離れないように、ね」
その手は大きくて、あたたかくて。
ぎゅっと握られると、不安が少しずつ消えていく気がした。
「今日はさ、夏祭りの日みたいだよ」
「……夏祭り?」
「うん。花火は……多分ちょこっと見れるかな。……あ、ほら、あっちから祭りの音がするでしょ?」
突然透さんが遠くの方を指さした。
耳を済ませると、確かに聞こえる。太鼓の音と、わずかに届く人の賑やかな声。焼きそばや綿あめの匂いまで、風に乗って流れてくる気がした。
「行かないの……?」
少し期待を込めて訊ねると、透さんは首を横に振った。
「……人が多いと、見つかりやすいからね。今日はやめとこう。……でも、いい場所があるんだ」
そう言って、私の手を引く。それからまた私たちは歩き出した。
舗装された道から外れて、少し暗い林の中に入る。
木々の間を抜けるたび、草の匂いと夜風が混ざり合って、ひんやりと肌に触れた。
「……大丈夫?」
透さんがそう小さく声をかけてくれる。
私は黙ってうなずいた。
ザザァ……と、低い音が耳に届いたのは、そのすぐあとだった。
波の音? そう思った次の瞬間、木々の間から急に視界が開ける。
「……あっ」
目の前いっぱいに広がったのは、真っ暗な海だった。
月の光を映して揺れる水面が、きらきらと光を散らしている。
潮風が頬を撫でて、心臓がふわっと浮くような感覚になる。
「ここ、穴場なんだ。普段から人が少ないけど……祭りの日は、ほとんど誰も来ない」
透さんの言葉どおり、辺りには私たち以外、誰もいなかった。
ただ、静かな波の音と、遠くで鳴る花火の音が、夜の空気に溶けて響いている。
「……きれい……」
気づけば、そう呟いていた。
潮の匂い、月明かり、静かな波――全部が、胸いっぱいに広がっていく。
透さんが、少し笑いながら私の横に立った。
「……凪ちゃんには、やっぱり海が似合うね」
その言葉に、思わず透さんを見上げる。
月明かりに照らされた横顔は、穏やかで、どこか優しい。
「名前の通りだなって思うよ。……海の“凪”」
「……」
胸がじんわり熱くなる。
お母さんにその名前を呼ばれるときは、冷たく響く音にしか聞こえなかったのに、透さんの声は違った。
同じ名前なのに、どうしてこんなに温度が違うんだろう。
「……ありがとう」
小さくそう言うと、透さんが「ん?」と首を傾げて笑った。
その笑顔を見ていると、不思議と海の音と一緒に、心の中まで静かに凪いでいった。
波打ち際まで降りて、私はサンダルを脱いだ。
ひんやりとした砂の感触に、くすぐったいような気持ちになる。
「冷たくない?」
透さんが少し心配そうに言う。
「……平気」
裸足のまま、そっと波に足先を入れてみる。
ザザァ……と、寄せては返す波がくるぶしをくすぐるたびに、小さく笑いがこぼれた。
潮の匂いも、海の音も、ぜんぶが新鮮で、ずっとここにいたいと思うくらいだった。
透さんは砂浜に立ちながら、黙って私のほうを見ていた。
その視線をなんとなく感じて、振り返って見上げると――透さんはふっと微笑んだ。
それだけで、胸が少しきゅうっとなる。
そうして、どれくらいそうしていたんだろう。
波の音と、遠くの花火の音と、月明かりだけの世界。
気づけば、花火の音すらもう聞こえなくなっていた。
「……そろそろ帰ろっか」
透さんの声に我に返る。
「……うん」
靴を履きなおし、砂浜をあとにする。
帰り道は、来るときとは違う道。
人通りのほとんどない、静かな住宅街を抜けていく。
街灯に照らされたアスファルトと、透さんの横顔が交互に視界に映る。
その背中を追いかけながら――もう少しだけ、この時間が続けばいいのに、なんて、思ってしまった。
――もうすぐ家かな、なんて思っていたそのときだ。
「……え?」
立ち止まった視線の先にあったのは、赤い光のついた小さな建物。
交番――。
え、なんで……?
戸惑う間もなく、透さんは私の手をぎゅっと握り直した。
そして、迷いのない足取りで交番の中に入っていく。
「……この子は、白崎凪です」
耳に届いたその声に、心臓が止まりそうになった。
振り向いた透さんの横顔は、まっすぐで、何一つ揺らいでいなかった。
「……俺が、この子を誘拐しました」
その言葉が響いた瞬間、頭が真っ白になった。
え……なに……? どういう意味……?
「……は?」
思わず、間抜けな声が漏れたのは、私だけじゃなかった。
交番にいたお巡りさんが二人、きょとんとした顔でこちらを見て――それから、凍りついたように動きを止める。
一瞬の静寂のあと、片方の警官が私の顔をまじまじと見て、目を見開いた。
「……ほんとだ! この子……朝ドラの……!」
その瞬間、世界が一気に動き出した。
慌ただしい声、電話の音、椅子の軋む音。
気づけば私は透さんの手を、誰かに強く引き剥がされていた。
「えっ……や、やだ……!」
声が震える。何が起きているのか分からない。
でも、ただ――繋いでいた手が離れていくのだけは、はっきり分かった。
「……捨てないで!透、さ……」
名前を呼んだ声は、最後まで言い切る前に、ぐいっと引かれて遮られた。
交番の外の夜気が揺らぎ、風鈴の音の幻が耳に響いた気がしたところで、私の視界は涙でぼやけていった――。