5.
透さんは、多分「普通の人」なんかじゃない。
だって、透さんは私のことを特別扱いしないし、羨ましがったりもしない。
私の家のことも、お母さんのことも、何も知らない。だから、きれいだとか、すごいだとか、羨ましいとかも一度も言わなかった。
それが、なんだかすごく不思議だった。
きっと、透さんはテレビを持ってないからだ。
最近はドラマの仕事も増えて、今は朝ドラに重要な役で出ているのに。
それを知らないまま、透さんはただ「凪ちゃん」として私を見てくれる。
アイスを半分くれたり、風鈴を吊るして「涼しいね」って笑ったり。
なんでもないことを、なんでもない顔で言う――その全部が、どうしてか嬉しいんだ。
……だから、透さんといる時間はあたたかい。
ここでは誰も私を見張らないし、怒鳴り声もない。
ただ、蝉の声と風鈴の音が鳴って、透さんが「腹減ったね」って笑ってる。
その、なんでもない時間が――私にとってはたまらなく特別だった。
これが、ここに逃げてきて4日が経った感想。
今スマホは持ってないし、透さんの部屋にはテレビもない。
だから、外の世界が今どうなっているのか、私には何もわからない。
……でも、きっと――。
私がいなくなったことは、もうニュースになってるはずだ。
お母さんも、きっと――。
そのことを考えると、胸の奥がひやりと冷たくなる。
窓から射し込む夏の陽射しが、狭い部屋をじんわりと明るく染めているのに、私の心だけが取り残されたように寒かった。
「……透さん」
「ん?」
「……あのね。私が……いなくなったこと、外で……ニュースになってる?」
透さんは、一瞬だけ手を止めた。
洗った箸を持ったまま、窓から差し込む光に目を伏せ――それから、ゆっくりと答えた。
「……どうだろうな。見てないから、わかんないや」
「……そう、なんだ」
その横顔は、陽の光を浴びてどこか遠くを見ているように見えた。
笑ってごまかそうとしているのが、子供の私にもわかった。いや、わかったのは、多分子役をしてるからかもしれない。
透さんは、本当は知っている。
でも――私を不安にさせないように、言わないだけ。
――優しい演技が下手なんだな。
私はそんな下手な演技をした透さんに応えられる言葉がなくて、ただ小さく「そっか」とだけ呟いた。
……その夜は、布団の中で目を閉じても、なかなか眠れなかった。風鈴の音がやけに大きく聞こえた気がしている。
――帰らなきゃ。
頭のどこかで、ずっとその声が響いている。
お母さんが、待ってる。
怒ってる。絶対に、怒ってる。
その顔を思い出した瞬間、胸がぎゅっと締めつけられる。
視界が暗くなって、呼吸がうまくできない。
吸っても吸っても、空気が足りない気がした。
「……っ、は……っ……は……っ」
喉がヒューヒュー鳴って、涙が勝手ににじむ。
止めたいのに、止まらない。
「……凪ちゃん?」
狭い畳の中で寝ていたはずの透さんが、気づいてすぐに隣にしゃがみこんできた。
背中に大きな手があてられる。あたたかい。
「大丈夫、大丈夫……ゆっくり、息しよ。……ほら、俺の真似して」
透さんの声が、低くて優しくて、少し震えている。
彼がわざと大きく息を吸って、吐く。そのリズムに合わせるように、必死で呼吸を整えようとする。
「……っ、は……っ……」
しばらくして、少しずつ空気が肺に入るようになってきた。
背中を撫でる手は、止まらない。
「……こわかったね」
その言葉を聞いた瞬間、涙がぶわっとあふれた。こわい。
帰りたくない。でも――帰らなきゃ。
その二つが、頭の中で何度もぶつかって、私はただ嗚咽するしかなかった。
透さんは何も言わず、背中をゆっくり撫でてくれていた。
その手のあたたかさが、唯一の救いだった。
「……大丈夫だよ」
透さんが、ぽつりとそう言った。
その声は、低くて、あたたかくて、胸の奥にすっと染みこんでいくみたいだった。
「ここにいていい。……無理に帰らなくていいんだよ」
その一言で、張りつめていた何かがふっとほどけた気がした。
私は透さんの服の裾をぎゅっと握ったまま、小さくうなずいた。
「……ありがとう……」
泣き疲れて、そのまま眠りに落ちていく。
背中に感じる手の温もりに、心が少しだけ、軽くなった気がした。
❖❖❖
それから、また二日が経った。
透さんと過ごす日々は穏やかで、蝉の声と風鈴の音が鳴る小さな部屋で、時間だけがゆっくり流れていくようだった。
でも、その夜――私は突然、目を覚ました。
首に、重い感触があった。
「……っ……」
苦しい。
息が、できない。
目を開けると、暗闇の中で透さんが私を見下ろしていた。
その両手が、私の首を掴んでいる。
「……っ……と、……さ……」
声が出ない。視界が滲む。
透さんの表情は、月明かりに照らされて、どこか悲しそうだった。
首にかかっていた手が、不意にふっと離れた。
透さんが、まるで、初めて自分のしたことに気づいたように、驚いた顔で私を見ている。
「……っ、は……っ、はぁ……!」
急に肺に空気が流れ込んで、咳が止まらなかった。胸が焼けるみたいに痛い。
「……ご、ごめん」
透さんが低く、震える声でそう言った。
その顔は月明かりに照らされて、どこか泣き出しそうで――子どものように見えた。
その瞬間、私ははっきりと分かった。
これが「演技」じゃないことを。
子役をやっていると、笑顔も涙も、作り物かどうかはなんとなくわかる。
でも今の透さんの顔は、芝居なんかじゃなかった。
心の奥から滲み出るみたいに、本当にどうしようもなく壊れそうで――見ているだけで、胸が苦しくなった。
それ以上、ふたりとも何も言わなかった。
声を出したら、何かが壊れてしまう気がしたから。
私はただ、冷静に透さんを見つめた。
そして、ゆっくりと手を伸ばし、彼の頭を撫でた。
「……透さん」
呼んでも返事はなかった。
透さんは動かず、ただ俯いたまま、私の手を受け入れていた。
その肩が小さく震えているのを見て、胸が締めつけられる。
――可哀想な人だ。
そう思った。
首を絞められたのに、不思議と怖くはなかった。
それよりも、目の前の透さんがどうしようもなく哀れに見えて、放っておけなかった。
――この気持ち、なんなんだろう。
撫でているうちに、指先から伝わる温度が、自分の胸の奥にじんわりと広がっていく。
怖くない。
だけど、安心とも違う。
家族に向けるものでも、クラスの人に向けるものでもない。
……透さんのことを、なんて言えばいいんだろう。
わからない。
ただ――「隣にいたい」って、それだけははっきりしていた。
透さんが、ゆっくりと畳に横になる。
その横顔を見ていると、やっぱり泣き出しそうな子どもの顔で――どうしようもなく胸が痛む。
私も隣に横になり、同じ天井を見つめた。
静かな夜。
窓の外から吹き込む風が、白いカーテンをやわらかく揺らす。
風鈴がカラン……と鳴る音が、ふたりの間に落ちて、夜の静けさに溶けていった。
❖❖❖
目が覚めたとき、外はもう明るかった。
差し込む朝の光がまぶしくて、思わず目を細める。
隣を見ると、透さんはもう起きていて、狭いキッチンでお湯を沸かしていた。
カップラーメンじゃなくて、今日はインスタントのスープの匂いがする。
その背中を見ていると、昨夜のことがじわりと蘇ってきて、胸が少しざわついた。
――あれは、なんだったんだろう。
首を絞められたことも、頭を撫でたことも。
怖くなかったのに、心臓がまだどこか落ち着かない。
わからない。
透さんのことをどう思えばいいのか、自分でもよくわからないまま、ぼんやりと布団に座り込んでいた。
「おはよう、凪ちゃん」
振り返った透さんが、何でもない顔で笑った。
その笑顔にほっとするのと同時に、昨夜との落差に混乱する。
まるで、何もなかったみたいに。
「……おはよう」
そう返すのがやっとだった。
スープを飲み終えると、透さんがふいにこちらを見て、
「ねぇ、凪ちゃん。……どっか行きたいとことか、ある?」
「……え?」
唐突な言葉に、思わず瞬きをする。
「ずっと部屋にいるのも退屈でしょ? 海とか、公園とか……ちょっと外、歩いてみない?」
一拍置いてから、彼は続ける。
「……あ、昼間は人が多いから、夜のほうがいいと思うけど」
――海。
その言葉が胸の奥に、ぽたりと落ちて波紋を広げる。
海に行ったことなんて、一度もない。
窓の外から遠くに見えたことはあるけれど、足を踏み入れたことはない。
波の音も、潮の匂いも、どんなものなのか想像でしか知らない。
「……海が、見たい」
気づいたらそう言っていた。
透さんは少し驚いた顔をして、それから柔らかく笑った。
「そっか。……じゃあ、夜になったら行こうか」
私は、こくんとうなずいた。
胸が、なんだかふわりと浮くように高鳴る。
知らない世界に、初めて連れて行ってもらえる――そんな予感がして。