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夜を待つ  作者: 斎藤海月
白崎凪
6/8

5.

 透さんは、多分「普通の人」なんかじゃない。


 だって、透さんは私のことを特別扱いしないし、羨ましがったりもしない。

 私の家のことも、お母さんのことも、何も知らない。だから、きれいだとか、すごいだとか、羨ましいとかも一度も言わなかった。

 それが、なんだかすごく不思議だった。


 きっと、透さんはテレビを持ってないからだ。

 最近はドラマの仕事も増えて、今は朝ドラに重要な役で出ているのに。

 それを知らないまま、透さんはただ「凪ちゃん」として私を見てくれる。


 アイスを半分くれたり、風鈴を吊るして「涼しいね」って笑ったり。

 なんでもないことを、なんでもない顔で言う――その全部が、どうしてか嬉しいんだ。


 ……だから、透さんといる時間はあたたかい。

 ここでは誰も私を見張らないし、怒鳴り声もない。

 ただ、蝉の声と風鈴の音が鳴って、透さんが「腹減ったね」って笑ってる。


 その、なんでもない時間が――私にとってはたまらなく特別だった。

 これが、ここに逃げてきて4日が経った感想。


 今スマホは持ってないし、透さんの部屋にはテレビもない。

 だから、外の世界が今どうなっているのか、私には何もわからない。

 ……でも、きっと――。

 私がいなくなったことは、もうニュースになってるはずだ。

 お母さんも、きっと――。


 そのことを考えると、胸の奥がひやりと冷たくなる。

 窓から射し込む夏の陽射しが、狭い部屋をじんわりと明るく染めているのに、私の心だけが取り残されたように寒かった。


「……透さん」


「ん?」


「……あのね。私が……いなくなったこと、外で……ニュースになってる?」


 透さんは、一瞬だけ手を止めた。

 洗った箸を持ったまま、窓から差し込む光に目を伏せ――それから、ゆっくりと答えた。


「……どうだろうな。見てないから、わかんないや」


「……そう、なんだ」


 その横顔は、陽の光を浴びてどこか遠くを見ているように見えた。

 笑ってごまかそうとしているのが、子供の私にもわかった。いや、わかったのは、多分子役をしてるからかもしれない。

 透さんは、本当は知っている。

 でも――私を不安にさせないように、言わないだけ。


 ――優しい演技が下手なんだな。


 私はそんな下手な演技をした透さんに応えられる言葉がなくて、ただ小さく「そっか」とだけ呟いた。




 ……その夜は、布団の中で目を閉じても、なかなか眠れなかった。風鈴の音がやけに大きく聞こえた気がしている。


 ――帰らなきゃ。


 頭のどこかで、ずっとその声が響いている。

 お母さんが、待ってる。

 怒ってる。絶対に、怒ってる。


 その顔を思い出した瞬間、胸がぎゅっと締めつけられる。

 視界が暗くなって、呼吸がうまくできない。

 吸っても吸っても、空気が足りない気がした。


「……っ、は……っ……は……っ」


 喉がヒューヒュー鳴って、涙が勝手ににじむ。

 止めたいのに、止まらない。


「……凪ちゃん?」


 狭い畳の中で寝ていたはずの透さんが、気づいてすぐに隣にしゃがみこんできた。

 背中に大きな手があてられる。あたたかい。


「大丈夫、大丈夫……ゆっくり、息しよ。……ほら、俺の真似して」


 透さんの声が、低くて優しくて、少し震えている。

 彼がわざと大きく息を吸って、吐く。そのリズムに合わせるように、必死で呼吸を整えようとする。


「……っ、は……っ……」


 しばらくして、少しずつ空気が肺に入るようになってきた。

 背中を撫でる手は、止まらない。


「……こわかったね」


 その言葉を聞いた瞬間、涙がぶわっとあふれた。こわい。

 帰りたくない。でも――帰らなきゃ。


 その二つが、頭の中で何度もぶつかって、私はただ嗚咽するしかなかった。


 透さんは何も言わず、背中をゆっくり撫でてくれていた。

 その手のあたたかさが、唯一の救いだった。


「……大丈夫だよ」


 透さんが、ぽつりとそう言った。

 その声は、低くて、あたたかくて、胸の奥にすっと染みこんでいくみたいだった。


「ここにいていい。……無理に帰らなくていいんだよ」


 その一言で、張りつめていた何かがふっとほどけた気がした。

 私は透さんの服の裾をぎゅっと握ったまま、小さくうなずいた。


「……ありがとう……」


 泣き疲れて、そのまま眠りに落ちていく。

 背中に感じる手の温もりに、心が少しだけ、軽くなった気がした。


 ❖❖❖


 それから、また二日が経った。

 透さんと過ごす日々は穏やかで、蝉の声と風鈴の音が鳴る小さな部屋で、時間だけがゆっくり流れていくようだった。

 でも、その夜――私は突然、目を覚ました。


 首に、重い感触があった。


「……っ……」


 苦しい。

 息が、できない。


 目を開けると、暗闇の中で透さんが私を見下ろしていた。

 その両手が、私の首を掴んでいる。


「……っ……と、……さ……」

 声が出ない。視界が滲む。


 透さんの表情は、月明かりに照らされて、どこか悲しそうだった。

 首にかかっていた手が、不意にふっと離れた。

 透さんが、まるで、初めて自分のしたことに気づいたように、驚いた顔で私を見ている。


「……っ、は……っ、はぁ……!」

 急に肺に空気が流れ込んで、咳が止まらなかった。胸が焼けるみたいに痛い。


「……ご、ごめん」


 透さんが低く、震える声でそう言った。

 その顔は月明かりに照らされて、どこか泣き出しそうで――子どものように見えた。


 その瞬間、私ははっきりと分かった。

 これが「演技」じゃないことを。


 子役をやっていると、笑顔も涙も、作り物かどうかはなんとなくわかる。

 でも今の透さんの顔は、芝居なんかじゃなかった。

 心の奥から滲み出るみたいに、本当にどうしようもなく壊れそうで――見ているだけで、胸が苦しくなった。


 それ以上、ふたりとも何も言わなかった。

 声を出したら、何かが壊れてしまう気がしたから。

 私はただ、冷静に透さんを見つめた。

 そして、ゆっくりと手を伸ばし、彼の頭を撫でた。


「……透さん」


 呼んでも返事はなかった。

 透さんは動かず、ただ俯いたまま、私の手を受け入れていた。

 その肩が小さく震えているのを見て、胸が締めつけられる。


 ――可哀想な人だ。


 そう思った。

 首を絞められたのに、不思議と怖くはなかった。

 それよりも、目の前の透さんがどうしようもなく哀れに見えて、放っておけなかった。


 ――この気持ち、なんなんだろう。


 撫でているうちに、指先から伝わる温度が、自分の胸の奥にじんわりと広がっていく。

 怖くない。

 だけど、安心とも違う。

 家族に向けるものでも、クラスの人に向けるものでもない。


 ……透さんのことを、なんて言えばいいんだろう。


 わからない。

 ただ――「隣にいたい」って、それだけははっきりしていた。


 透さんが、ゆっくりと畳に横になる。

 その横顔を見ていると、やっぱり泣き出しそうな子どもの顔で――どうしようもなく胸が痛む。

 私も隣に横になり、同じ天井を見つめた。


 静かな夜。

 窓の外から吹き込む風が、白いカーテンをやわらかく揺らす。

 風鈴がカラン……と鳴る音が、ふたりの間に落ちて、夜の静けさに溶けていった。


 ❖❖❖


 目が覚めたとき、外はもう明るかった。

 差し込む朝の光がまぶしくて、思わず目を細める。


 隣を見ると、透さんはもう起きていて、狭いキッチンでお湯を沸かしていた。

 カップラーメンじゃなくて、今日はインスタントのスープの匂いがする。

 その背中を見ていると、昨夜のことがじわりと蘇ってきて、胸が少しざわついた。


 ――あれは、なんだったんだろう。


 首を絞められたことも、頭を撫でたことも。

 怖くなかったのに、心臓がまだどこか落ち着かない。

 わからない。

 透さんのことをどう思えばいいのか、自分でもよくわからないまま、ぼんやりと布団に座り込んでいた。


「おはよう、凪ちゃん」


 振り返った透さんが、何でもない顔で笑った。

 その笑顔にほっとするのと同時に、昨夜との落差に混乱する。

 まるで、何もなかったみたいに。


「……おはよう」


 そう返すのがやっとだった。


 スープを飲み終えると、透さんがふいにこちらを見て、


「ねぇ、凪ちゃん。……どっか行きたいとことか、ある?」


「……え?」


 唐突な言葉に、思わず瞬きをする。


「ずっと部屋にいるのも退屈でしょ? 海とか、公園とか……ちょっと外、歩いてみない?」


 一拍置いてから、彼は続ける。


「……あ、昼間は人が多いから、夜のほうがいいと思うけど」


 ――海。


 その言葉が胸の奥に、ぽたりと落ちて波紋を広げる。

 海に行ったことなんて、一度もない。

 窓の外から遠くに見えたことはあるけれど、足を踏み入れたことはない。

 波の音も、潮の匂いも、どんなものなのか想像でしか知らない。


「……海が、見たい」


 気づいたらそう言っていた。

 透さんは少し驚いた顔をして、それから柔らかく笑った。


「そっか。……じゃあ、夜になったら行こうか」


 私は、こくんとうなずいた。

 胸が、なんだかふわりと浮くように高鳴る。

 知らない世界に、初めて連れて行ってもらえる――そんな予感がして。

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