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夜を待つ  作者: 斎藤海月
白崎凪
5/11

4.

 朝目が覚めた時、見知らぬ部屋にいた。


 まだ夢から覚めていないのかと、一瞬だけ胸がざわついたけれど、天井の染みや、古びたカーテン、そして昨日の出来事が頭に浮かんで、すぐに夢じゃないと理解した。


 ――知らない人の家で寝泊まりなんて、お母さんが知ったらびっくりするんだろうな。それで、きっとたくさん怒られる。


 ふと隣のローテーブルの上に目をやると、置き手紙が置いているのを見つけた。


「大学に行ってきます。午後には戻ります」


 そう律儀に書いていた。透さん。やっぱりいい人なのかもしれない。

 手紙の隣に置いてあった小さな置時計に目をやると、針はすでに昼の12時を回っていた。


 どうりで暑いわけだ。


 ギィィ――


 突然、玄関の扉が開く音がして、思わず肩をびくりと揺らす。家の扉がこんな音を立てたことなんてなかったから、胸が一瞬きゅっと縮む。

 振り返ると、そこにはコンビニ袋を提げた透さんが立っていた。


「……ただいま。お腹すいたでしょ?」


 にこっと笑うその顔に、さっきまでの不安がすっと溶けていくのを感じた。


 扉が閉まる音が響き、外の世界と切り離される。

 わずかに聞こえる蝉の声が、遠くに遠くに溶けていった。


 ❖❖❖


「ね、凪ちゃんのお父さんってどんな人?」


 キッチン――といっても同じ部屋の片隅――で、『カップラーメン』というものを作っている透さんが、ふとこちらを振り向いてそう訊いてきた。

 私は、透さんが大学帰りに買ってきてくれたアイスをひと口かじりながら首を傾げる。


「どんな人って?」


「んー……凪ちゃんは、お父さんのこと好き?」


「わかんない」


「わかんない?」


「うん、わかんないよ」


 ……お父さんが家にいるところを、私はほとんど見たことがない。

 偉い人だってことは知ってる。でも、それだけ。

 お父さんと話したことなんて、一度もない。目が合ったことだって、数えるほどしかなかった。


「そっかー。じゃあ、お父さんは凪ちゃんのこと、好きじゃないの?」


 少し考えてみる。

 ……多分、あの人は私の事を好きじゃない。でもだからといって別に私を嫌っているわけじゃない。ただ――最初から、私に興味がないだけなんだと思う。


 私は、『ハズレ』の文字が掘られたアイスの棒を見つめたまま、小さく答えた。


「そうだよ」


「……そっか」


 透さんの声は、少しだけ静かになった気がした。

 でも、次の瞬間、ぱっと明るい声が響く。


「よし、2分たった。カップラーメンできたよ」


 湯気の立つカップを手渡されて、恐る恐る箸を持つ。

「これが……カップラーメン……」

 テレビで見たことはあるけど、実際に食べるのは初めてだった。


 麺をそっとすすった瞬間、舌に広がるしょっぱい味と、熱いスープが喉を通る感覚に、思わず目を瞬かせる。


「……おいしい」


 ぽつりとこぼした言葉に、自分でも驚いた。家でも食べたことのない、不思議な味。でもなんだか、胸の奥がじんわり温かくなるような――そんな気がした。


「でしょ?安いのにうまいんだよね、これ」


 透さんは嬉しそうに笑いながら、自分のカップをすすっている。


 そんな時――


「……あっ」


 不意に透さんが声をあげた。


 ビクッ


 反射的に肩が震える。胸がきゅっと詰まり、思わず彼を見上げると、透さんは「あ、ごめんね。びっくりさせちゃったね」と苦笑していた。


 小さく首を振って「大丈夫」と伝える。


「ところでさ、凪ちゃん……暑いでしょ?」


「……うん」


 そう頷くと、透さんは「ちょっと待ってて」と押し入れをがさごそと探り始めた。何をしてるんだろうと不思議に思って見ていると、彼は小さなガラスの飾りを取り出してこちらに振り向いた。


「これ、つけよっか」


 そう言って見せてくれたのは、透明なガラスが光を受けてきらきらと揺れる綺麗な何かだった。その音が鳴る前から、目で見ているだけで、少し涼しくなったような気がする。


「これなに?」


「最近の若い子は知らないかもね。これは風鈴。……音が鳴るとさ、ちょっと涼しく感じるんだよ。俺、お金ないから冷房あんまりつけたくなくてさ。こういうので節約してる」


 透さんはそう言いながら窓際に風鈴を吊るした。

 カラン――と、小さな音が部屋に広がる。


 なんだか、不思議な音だ。きれいで、優しくて、胸の奥がすっと静まっていくみたい。

 思わず、私は風鈴に手を伸ばして、そっと指先で揺らした。

 また、カランと音が鳴る。


 ラーメンをひと口すすると、まだ熱いスープが喉を滑り落ちていく。


「……ねえ、凪ちゃん」


 透さんの声が、不意に少しだけ低くなる。


「その体の傷……お父さんにされたの?」


「――っ!」


 思わず、口に含んだ麺でむせてしまった。


「けほっ……けほっ!」


 透さんが慌てて水を差し出してくれる。


「ご、ごめん! いきなり聞いちゃったから……」


 水を飲んで、喉の熱を落ち着ける。少ししてから、私は小さく首を振った。


「……お父さんじゃないよ」


「……そっか。ごめんね、いきなり変な事聞いちゃって、昨日……たまたま見えちゃって」


 少しの間をおいて、透さんはまた静かに尋ねてくる。


「じゃあ……お母さん?」


「……」


 声が、喉に張りついたみたいに出なかった。


 あの人の顔が浮かぶ。冷たい目と、吐き捨てるような声。

 ――“誰かに話したら、もっと酷い目見させてやるからね”。


 耳の奥で、その言葉が何度も繰り返される。

 言ったら、駄目だ。絶対に駄目。


「……わかんない」


 私はかろうじて、そう答えた。

 透さんはそれ以上追及せず、ただ私の方をじっと見て、少しだけ眉を寄せる。


「でも……私が悪いの」


 今度は、自然とそう続けていた。

 胸の奥がじわりと苦しくなり、指先が震える。


 透さんは、しばらく黙ったまま、じっと私を見ていた。

 その瞳の奥に、一瞬だけ 怒っているような気配を感じて、思わず息をのむ。


 そして、透さんはようやく口を開いた。


「……凪ちゃんは、悪くない」


 低く、けれどはっきりとした声だった。

 その響きに、胸の奥がぎゅっと締めつけられる。


「どんな理由があったって、子供に手をあげるのは間違ってる。……君が悪いはずないんだよ」


 力強く言い切るその言葉に、何かが溶けていくような気がした。

 今までずっと心の奥に押し込めていたものが、ふっと緩んで、視界が滲む。


「……でも……」


 うまく言葉が続かない。

 泣きたくないのに、声が震えて、自分の手をぎゅっと握る。

 透さんはそんな私を見て、ふっと息を吐くと、いつもの優しい調子に戻って笑った。


「……ごめん。ちょっと強く言いすぎたね。でもさ、俺はそう思うよ。悪いのは全部、君のお母さんだ」


 その声は、不思議とあたたかかった。

 誰かに、こんなふうに言ってもらえたのは、初めてだった。

 みんな、私のお母さんを羨ましがる。

「綺麗だね」「優しそう」「私のお母さんも、凪ちゃんのお母さんみたいだったらよかったのに」


 ……そう言われるたびに、胸の奥がひどくざわついた。

 でも、否定することなんてできなかった。

 だって、みんなが言う「理想のお母さん」の顔を、私だって知っているから。

 家の外で、お母さんは、完璧な母親という仮面をとったことがないのだから。


 でも、目の前の透さんは、どこまでも真っ直ぐな顔でこちらを見ていた。

 その時、少しだけ開いた窓から風が吹き込んできて、安っぽいカーテンがふわりと揺れる。

 差し込んだ光が透さんの横顔を照らした。


 ――きれいだ、と思った。

 お母さんより、ずっと。


 透さんの髪は、少しボサボサに伸びていて、整えている様子もない。

 シャツもくたびれているし、きっと同じものを何度も着ているんだと思う。

 それでも、その顔立ちは不思議なほど整っていて、光の中で輪郭がやわらかく浮かび上がって見えた。


 きっと、ちゃんとした服を着て、髪を整えれば――誰よりもきれいなんじゃないかって、そんなことを思った。

 気づけば、じっと見とれていた。

 胸が少し苦しくて、でも、その苦しさが心地よくて――。


「……変な話して、ごめんね」


 ふいに透さんが笑ってそう言い、空気がふっと和らいだ。


「ほら、カップラーメン、麺のびちゃうよ。食べよ」


 彼が箸を手に取る音がして、私も慌ててスープをすする。

 その瞬間、窓の外から風がまた入り込み、カラン……コロン……と、風鈴が鳴った。


 澄んだ音が、小さな部屋に静かに広がっていった。


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