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夜を待つ  作者: 斎藤海月
白崎凪
4/8

3.

「……親は?」


「いるよ」


「心配しないの?」


「うん、しない」


 そのやり取りに男の人は一瞬だけ眉をひそめたけれど、すぐに笑って私の顔を覗き込む。


「そっか。俺もおんなじ」


「おんなじ」その意味がわからなくって何度か瞬きをしてしまう。何が同じなんだろう。


 公園の出口に差し掛かるころ、空気が急に冷たくなった。ぽつ、ぽつ、と落ちてきた雨粒が、あっという間に本降りへと変わっていく。


「うわ、結構降ってきたな……俺、傘ないから、ちょっと走ろっか。すぐそこなんだけどね」


「……え、走るの……?」


 彼は話終えると躊躇なく歩き出し、数歩先でこちらを振り返った。まるで「当然だろ?」という顔で。

 走る? 雨の中を? そんなの、したことない。服が濡れるし、足も泥だらけになる。怒られる――普通なら、怒られる。


 けれど。


 困惑の声をもらす私の手を、男の人が軽く引いた。

 戸惑いながらもついていく。初めての雨の中の疾走。冷たい水が頬を叩き、髪を濡らす感覚すら、どこか夢の中のようだった。


 だが、慣れない動作にすぐ足がもつれた。小さな段差に気づけず、ぐしゃ、と水たまりに膝から崩れ落ちる。


「うわっ、ごめん! 大丈夫!?」


 すぐに男の人は立ち止まって泥で汚れた私の服を払い、そのまま私に背を向けてしゃがみこむ。

 何をしているんだろう。

 そう思っているとその人は振り返って


「乗って。おぶってくよ」


 と言った。

 私はまた少し戸惑ったが、その人の言う通りに、首に腕を回して体をあずける。

 その人の背に揺られて、私は言われるままに運ばれていった。


 誰かにおぶわれるなんて、たぶん初めてだった。

 雨に濡れた服が肌に張りついて冷たいはずなのに、不思議と背中はあたたかくて、鼓動のようなものが伝わってきて……気づけば、自分でも驚くくらいに安心していた。


 雨音以外に音のない静かな時間が流れる。


 それからしばらくして、その人は小さなアパートの前で足を止めた。見上げた建物は、ひと目で分かるほど古く、外壁にはひびが走り、鉄の階段は赤茶けていた。ほんとうにここに人が住んでいるのだろうか――そんな疑問が自然と湧くほどの、ひどく年季の入った建物だった。


 その人は慣れた様子で階段を上がり、「よいしょ」とつぶやきながら、ぎい、と重たげな音を立てて扉を開けた。


 中は狭く、床には古い染みが点々と残っていて、壁紙も何ヵ所か剥がれていた。けれど、不思議と居心地の悪さはなかった。どこか、遠くの記憶をくすぐるような、あたたかい匂いが漂っていた。


 部屋の明かりがパッと灯る。黄ばんだ電球の光の中、その人は私をそっとおろし、しゃがみこんで顔をのぞきこんだ。


「……大丈夫だった? 怪我してない?」


 私が答える前に、その人は自分の袖でそっと頬の泥をぬぐってくれる。その仕草があまりにやさしくて、喉の奥がつまったように、言葉が出てこなかった。


「うん、どこも血は出てないね。……あ、でも服に泥が結構ついてるな。うわ、高そうだよね、その服。クリーニング出すか……金、あったかなぁ」


 そう言って頭をかいたあと、ふっと笑って、言葉をつないだ。


「……まぁ、いっか。あがりなよ。ちょっと狭いけどね」


 その人は靴を脱いで部屋に上がり、ちらりと私の方を振り返る。


「ほら、寒いでしょ。靴、そこに揃えてね」


 私は一歩、玄関に踏み込んだところで、ふと足を止めた。


 (……いいの? 私、こんなにびしょ濡れなのに)


 シャツもスカートも、髪の先までずぶ濡れで、水がぽたぽたと床に落ちていた。足元にはすでに水たまりができていて、靴もぐしゃりと音を立てる。


 こんな状態で人の家に上がるなんて――常識的に考えれば、絶対にアウトだ。


「……私、このままじゃ……床、汚しちゃう」


 ようやく絞り出すように声を出すと、男の人は振り返ってきょとんと目を見開いた。

 けれど、すぐにくしゃりと顔をほころばせて、まるで子どもみたいに笑い出した。


「あはは!そんなの気にしなくていいって!俺だってびっしょびしょなんだからさ」


 彼が指差したTシャツは肌に張りついていて、髪からも水が滴っている。確かに、自分ばかり気にしていたのが少し恥ずかしくなった。


「後でタオルで拭けばいいし、床なんてまた乾くよ。ほら、とりあえず中入って」


 靴を脱ぐと、重さで足首からぐにゃりと崩れそうになる。それをなんとかごまかしながら、そっと一歩を踏み出した。


 ……だけど。


 部屋の中に入った瞬間、凪は思わず言葉を失った。


 狭い。


 本当に、狭い。


 ワンルームらしいその部屋は、畳で覆われており、ドアを開けた先にすぐ畳まれている布団が目に入り、その横に申し訳程度のローテーブルと、使い古された座布団が一枚ぽつんと置かれていた。布団の脇には積まれたままの雑誌や文庫本、コンビニの袋に入ったままの菓子やカップ麺が寄せてあって、整頓はされているものの――むしろ、収納の余裕がまったくないことを物語っていた。


 目を向ければ、壁際に小さなシンクとコンロがひとつ。ミニサイズの冷蔵庫がその隣にちょこんと置かれていて、どうにか「キッチン」と呼べるギリギリの空間がそこにあった。換気扇は音を立てて回っているけれど、油じみた匂いがまだ微かに漂っている。


 私は思わず立ち止まってしまう。


「……これが、全部?」


「うん。狭いっしょ。六畳ちょいくらいかな。雨宿りくらいはできるから心配しなくて大丈夫!まぁ、俺にはこれで充分かな」


 男の人はそう言って、くしゃっと笑った。嫌味も照れもなく、むしろどこか誇らしげですらある。


「シャワー、使っていいよ。……ていうか、使いな? 冷えるでしょ。着替えは……ごめん、さすがに女の子のはないけど。俺の昔のジャージでよければ」


 そう言って、押し入れからくたびれたグレーの上下を引っ張り出す。受け取ったとき、嗅いだことの無い柔軟剤の香りがした。


「……ありがとう」


 そう言って、小さな洗面所のドアを開ける。

 けれど中を覗いて、思わず立ち止まった。


「……あれ、トイレ?」


 そこにあったのは便座。そのすぐ横には、ぎゅうぎゅうに詰め込まれた小さな浴槽と、壁にくっつけられたシャワー。


 なんだこれ。お風呂とトイレが……いっしょ?


 足を踏み入れるのがちょっと怖くて、私は振り返って彼を見た。


「ここ、……お風呂?」


「うん、ユニットバスってやつ。狭くてごめん。カーテン閉めたら一応、シャワーできるから」


 私はもう一度中を見て、目を瞬かせた。


「……へぇ。ほんとに全部いっしょなんだ」


 知らないわけじゃなかった。ドラマや漫画で見たことはあるし、頭では「ユニットバス」という言葉も知っていた。でも、実際に足を踏み入れて、こうして目の前に現れると、やっぱり驚いてしまう。


「じゃあ、シャンプーとトリートメントはこれ一本で出来るのと、これが石鹸で、こっちが洗顔ね」


 そう言って彼は出ていく。


 狭い空間に一人きりになると、急に緊張が戻ってくる。服を脱ぐと、体のあちこちにある傷跡や青あざが見えて、一気に苦しくなる。でも、ここは知らない人の家で、なんだか現実感がなかった。シャワーの温かさが背中に当たったとき、思わず小さく息を漏らす。


 ……気持ちいい、なんて感情はなかった。ただ、必要なことをこなすように、髪と体を洗い流していく。ただ、トリートメントがないことに少しびっくりしてしまったぐらいだ。


 借りたぶかぶかのジャージに着替え終えて、濡れた髪をタオルで押さえながら部屋に戻る。

 あの人は、床の水滴を拭いていた手を止めて、こちらを見てふわりと笑った。


「おかえり。……やっぱりちょっと服、大きかったね。シャワー、寒くなかった?」


「……ううん、大丈夫」


 短いやりとりのあと、少しだけ沈黙が落ちた。そのまま終わるかと思ったけれど、彼はふと口を開く。


「俺、透って言うんだ。冬木透。透は、透明の“透”ね」


 言葉を選ぶように、ゆっくりとした声だった。


「君の名前、聞いてもいい?」


 一瞬だけ迷って、それでも、答える。


「……凪。海の“凪”」


「そっか。凪ちゃん。綺麗な名前だね」


 ――名前を褒められることなんて、クラスルームでもよくあった。

 音の響きが柔らかいね、とか、可愛らしくて素敵とか。

 けれど今のそれは、なんだか少し違って聞こえた。

 耳じゃなく、もっと深いところに触れてきたみたいで――変な感じだった。


「明日の朝送るから、今日はこのまま泊まりな」


「……やだ」


 言ってから、自分でも驚いた。

 思わず口をついて出た言葉だった。

 言ったあとで気づく。きっと迷惑に決まってる。

 図々しいって、思われたかもしれない。今すぐ追い出されるかもしれない。


 でも、彼はただ、少し目を細めて聞き返してくる。


「やだ?」


「……」


「もしかして、帰りたくない?」


 小さく頷いた。『帰りたくない』――その言葉は、ずっと誰かに伝えたかったことだった。


 長く沈黙が落ちるのかと思ったのに、そうならなかった。


「そっか……じゃあ、気が済むまでここにいなよ」


 そう言って、彼は立ち上がる。


「……それじゃ、俺もシャワー浴びてくる。ドライヤーはそこにあるから適当に使ってね。あと、寝る時はその布団で寝ればいいよ」


 扉の向こうに消えていく背中を、私は黙って見送った。


 ぽつりと残された静けさの中で、

 借り物のジャージの袖を少しだけ引き寄せた。


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