2.
正門の外に出ると、運転手が車のドアを開けて待っていた。
彼は黒いスーツを着こなし、無表情のまま軽く会釈する。
私も黙ったまま、ぺこりと頭を下げて後部座席に乗り込む。そのまま家に帰るまでは無言の時間。
家に着くと、玄関には既にお母さんの姿。
サラサラの髪を巻き、薄く上品な香水の香りをまとったお母さんは、完璧な笑顔で、私を出迎える。
「おかえりなさい、凪。暑かったでしょう?」
私を心配するような言葉とは裏腹に、その声には少しの感情も感じられなかった。
けれど私は、それがいつもの事だと知っている。
「ただいま」と笑顔を作り、靴を脱いで家の中に入る。
ダイニングのテーブルには、豪華なケータリングの昼食が並んでいた。まるで撮影用のセットのような整い方で、湯気一つ立っていない。
「明日は撮影ね。朝の七時に出るから、五時半には起きて」
「うん」
「寝癖、絶対つけないでよ? 前回みたいな顔、二度とやらないで」
「……うん」
お母さんの言葉はいつも、針のように細く冷たい。お母さんの決定に私の意思はどこにもない。というか、どこにも必要ない。
「セリフ、忘れてないわよね? 台本、もう一回ちゃんと見なさい。今夜は復習よ」
「もちろん。ちゃんと頑張るよ」
そう笑顔で返事をするけれど、お母さんはちらっと私の顔を見ただけで、すぐに目を逸らした。グラスに氷を落とし、白ワインを注ぎ、スマートフォンを片手にソファへと戻っていく。
リビングに流れるのは、静かなクラシック音楽と、冷房の低い唸り声だけ。この家の音は、いつも無機質だった。
私は、少し冷えたサラダにフォークを刺しながら、黙々と昼食を口に運んだ。味はわからない。
咀嚼の音だけが、部屋にぽつぽつと響いていた。
食後、お母さんから台本を渡されると、私はそのまま自室へと向かう。
静かに扉を閉めると、外の世界はまた音を失う。
ベッドの上にそっと腰を下ろし、台本を膝に置いて眺めるがどうにも頭に入ってこない。
ふと、机の上に置かれた卓上鏡に目が留まる。
お母さんが「カメラ映りを意識しなさい」と言って置いたものだ。
そこに映る自分の顔は、どこか人形みたいで気味が悪い。
鏡越しに見える自分の腕には、もうほとんど消えかけた小さな痣。
たしか明日は半袖だからコンシーラーで隠さないと。
――始まりの記憶は三歳の夏。
とても暑い日だった。
原因は何だったのかは分からない。ただ、私は泣いていた。まぁ、三歳が泣いているのに理由も何も無いと思うのだけれど。
それでも泣いたのが気に入らなかったのか、お母さんは無言のまま、グラスの中の水を私の顔にぶちまけた。
「泣き顔なんて見せるなって言ったでしょ」
冷たい声でそう言うお母さんに、生まれてから初めて恐怖という感情を自覚した。
身体の冷たさなんかよりもお母さんの視線の方がよっぽど痛かった。
それからも、食事を残せばフォークを投げつけられたし、
五歳の頃に始まった撮影で、NGを出せば「凪のせいで恥をかいた」と綺麗なネイルのついた手で身体をぶたれた。
お母さんは私の顔には決して傷をつけない。だって私の顔はお母さんが私に見出す唯一の価値だったから。
泣くことも、笑うことも許されない。涙も笑顔も、全てはこの家の中では無意味で、カメラの前でのみ価値があるものだった。
それでも――
外では、いつも「いい子ね」と言われた。
撮影でNGを一度も出さなかった日には「さすが私の子」と抱きしめて頭を撫でてくれた。
そんな言葉に喜んでしまう自分に心底吐き気がした。
そしてまた私はおもむろに台本に目をうつした。
次の日。
撮影現場は、都内のスタジオに組まれた特設セット。
リビングルームを模したその空間には、カメラや照明、マイクブームなどの機材が所狭しと並び、頭上から降り注ぐ強い照明の熱が肌にじりじりと刺さってくる。外よりはましだけど、空気はむっとして息が詰まりそうだった。
私は、ソファに腰掛けたまま、台本どおりのセリフを口にしようと口を開く。
「……ママの手、あったかくて……よく、ぎゅって、してくれて……」
でも、出てきた声は何故かかすれていた。
言い回しを間違えて、タイミングを外してしまっていた。
「はい、カット! もう一回、いきましょう」
スタッフの声がスタジオに響く。
凪は思わずカメラの奥を見た。お母さんが腕を組んで立っている。無表情なのに、怒鳴られているみたいだった。息が詰まる。喉がからからだ。昨日あんなに練習したのに、と涙が溢れそうになるのをこらえる。
セリフ、なんだっけ――。
焦る頭の中で必死に探す。心臓がうるさい。口の中が乾いて、声が出ない気がする。
でも、やらなきゃ。失敗は許されない。
凪はかろうじてセリフを口にした。
「……はい、お願いします!」
カメラが回る。そしてまた、私は凪じゃない誰かの振りを始めた。
「――カット!」
監督の声と同時に、張りつめていた空気がふっとほどけた。
ようやく終わった、そう思って顔を上げた瞬間、視線の先にお母さんの背中が見えた。何も言わず、振り返ることもなく、すっと立ち去っていく。
胸がぎゅうっと縮まる。あれは、怒っている。絶対に怒ってた。
心のどこかでわかっていた。それでも、わかりたくなかった。
「ちがう、ちがうの……お母さん……!」
心の中で何度も叫ぶ。でも声にはならなかった。
喉がつまって、うまく息もできない。汗が額を伝って落ちた。暑さのせいじゃない、泣くのを必死にこらえてるだけ。
その後、控室に戻ることもなく、私はマネージャーの車に押し込まれるようにして乗せられた。お母さんはあのまま、私に何も言わずに帰ったらしい。
――怒られなかった。
それが、余計に怖かった。
車が走り出してすぐ、交差点の信号待ち。ほんの数秒の沈黙の隙間を突いて、私はドアを開けて飛び出した。
「ちょっ、凪ちゃん!? なにして……!」
マネージャーの声が背後から追ってきたけれど、振り返らずに走った。帽子を深く被り、ひたすら前を見て、何も考えないようにして。
気づけば知らない街にいた。住宅地の一角にある、小さな公園。誰もいない滑り台の下に潜り込み、私は膝を抱えてうずくまった。
「……泣かないって、決めたのに」
呟いた声は、自分でも聞こえないほどかすかで、頼りなく震えていた。膝を抱えたまま、私は顔を上げられずにいる。
どれくらい時間が経ったのかもわからない。ただ、胸の奥がじわじわと痛む。誰にも見つかりたくなくて、でも、誰かに見つけて欲しいような気もしていた。
――そんな時
「……なんで、こんなとこでしゃがんでんの」
不意に頭上から落ちてきた声に、びくりと肩が跳ねた。
恐る恐る顔を上げる。逆光の向こうに、ひとりの男の人が立っていた。
目が合った。息が止まる。
整った顔立ち。でも、どこか影がある。優しげにも見えるその表情に、なぜか視線を逸らせなかった。
着ている服は、色褪せていて、ところどころ擦り切れている。新しくはない。むしろ、何年も着回したような――でも、変に様になっていた。
そんな彼が、こちらに歩いてきて、私の目の前でしゃがみ込む。それこら、ほんの少しだけ首を傾げて、ぽつりと口を開く。
「……逃げてきたの?」
その一言が、胸の奥でかろうじて繋ぎとめていた何かを、ぷつりと切った。
「……違うもん……逃げてなんか……」
声にすらならない声が喉で詰まる。息を吐くのも下手になってしまったみたいだった。目の前の彼は、何も言わず、ただ黙って見ていた。
そのとき、ぱら、と水音が落ちた。
空を見上げる。いつのまにか、雲が厚くなっていた。濡れたアスファルトの匂いがふわりと漂ってくる。
「……雨、降るね」
彼がぼそっと言って、立ち上がる。
「家、近い? 送るよ」
首を横に振った。
「……じゃあ、うち来る?」
言葉の意味を理解するまで、少し時間がかかった。
でも、気づいたときには、私はもう頷いていた。
これが、後に、誘拐犯とされる青年と、被害者とされる少女の始まりだった。
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