1.
白昼夢みたいな恋だった。
目を逸らせばすぐに消えてしまうような、手を伸ばせば壊れてしまうような、そんな儚くて脆い恋。
揺らめく陽炎の先に彼がいた。鳴る風鈴の音に彼を重ねた。潮風の隙間に彼を見た。
あの夏を今も私は夢に見ている。風の匂いに、蝉の声に、彼の面影を探している。
だから私は、夜を待っている。
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煌びやかな家。
いつも完璧に整ったリビングに、傷一つない食器棚。
モデル出身の母は、どこへ出しても恥ずかしくないほど美しく、父は名の知れた企業家で、お金には困ったことがない。
友達はみんな口を揃えて「羨ましい」と言った。まるでおとぎ話みたいだと。
でも私は、そうは思えなかった。
誰かが作ってくれた温かい料理が、テーブルの上に置いてある。
それだけでよかった。
今日一日どうだった?と聞いてくれる、そんな「お母さん」がよかった。
私が欲しかったのは、豪華なドレスでも、誰かの称賛でもない。
ただ、人のぬくもりが欲しかった。
「今日から夏休みです」
担任の先生の声が教室に響く。
その言葉を合図に、教室の空気がふっと軽くなる。
椅子が引かれ、机の上がぱたぱたと片づけられ、あちこちから弾むような笑い声がこぼれ出る。
私は、自分の席に座ったまま、窓の外をぼんやりと見ている。
強い陽射しが校舎の白い壁を照らし、アスファルトの上に映るゆらゆらとした陽炎。
遠くから聞こえるセミの鳴き声が、耳の奥でじりじりと響いていた。
「夏休み、楽しみだね」
隣の席の子が笑顔で話しかけてくれて、私は、小さくうなずく。
誰にも言えなかった。
私は、家に帰るのが怖い、なんて。
あの煌びやかな家のドアをあけると、いつも冷たい空気が待ってる。
お母さんは、きれいに笑ってるのに、その奥にあるのは怖い目で。
お父さんは、全然喋らなくて、私のことなんて見てもくれない。
けれど、そんなことを口にしたところで、誰も信じてくれない。
誰も私のことなんて助けてくれない。それが、齢九歳の私に、突きつけられた現実だった。
「あ、凪ちゃん、もうお迎え来てるよ!」
誰かがそう言うと、クラスの何人かが一斉に窓の外を覗き込む。
黒くて長い車――いかにも特別な人が乗っていそうなその車に、子どもたちの目が輝く。
「うっわー!いいなー!凪ちゃんのパパってお金持ちだもんね」
「凪ちゃんって、夏休みどこか行くの?」
教室の後ろから、明るい声が飛んできた。
私は振り向かず、小さく首を横に振る。
「ううん。……用事があるから」
「えっ、やっぱドラマの撮影でしょ!?」
「いいな〜!テレビのやつだよね、あのCMのやつ見たもん!」
「うちのお母さん、凪ちゃんのことかわいいねぇ〜って言ってた!」
「私もテレビ出たいー! アイドルになるー!」
「無理でしょ〜、あんたおばけ屋敷で泣いてたじゃん!」
「それ関係ないし〜!」
小さな教室の中で、わっと笑い声が広がる。
ランドセルの金具が揺れ、椅子がガタガタと鳴った。
小さな世界の中で、みんなが元気にはしゃぎ、明るく笑っている。
私は目立たないように教室の入り口に立って、笑顔を崩さずに、そっと振り返る。
「……じゃあ、またね」
そして何人かが手を振って、「ばいばーい!」と返す。
その声を背に私は駆け出した。