13.
凪との生活は、特に何かが起こるということはなく、ただ穏やかで――そして妙に心地いいものだった。
凪は女優としての仕事があるから家を空けることが多い。彼女が外出する時、俺は鎖に繋がれたまま部屋に残される。足元には2Lのペットボトルの水が一本。食料はない。何か口にするのは、凪が帰宅して直接与えてくれるものだけ。
もちろん、ここに来てから俺は仕事に行っていない。というか、外にすら出ていない。
最初のうちは、鎖が鬱陶しいと思った。
最初に繋がれた鎖は短すぎて、トイレに行くことすらできなかった。「せめてこれくらいは」と頼み込むと、凪はあっさりと鍵を外し、より長い鎖に取り替えてくれた。
それでようやく、隣室のトイレまで鎖を引きずりながら行けるようになったのだが――用を足すたびにその金属音を響かせる不自由さに、しばらくは苛立ちを覚えた。
だが、数日も経てば、それが当たり前になっていた。
鎖を引きずる音も、金具の冷たさも、日常の一部として溶け込んでいく。
それでも、退屈を感じることはなかった。
部屋にはテレビが置いてあり、暇を持て余すことはない。
さらに、監禁された翌日――凪が新品のスマートフォンを買ってきた。
「パスワードは自分で決めていいよ」
そう言われ、設定したパスワードは凪ですら見られない。
Wi-Fiまで繋がれていて、ネットも自由に使える状態だった。
外部に連絡を取ろうと思えば取れる、そんな環境の中、俺は監禁されているのだから笑えるものだ。逃げ道を与えられている。それでも逃げない俺は、彼女にどう思われているのだろうか。
会話は少ない。というより、ほとんど凪からの一方的な会話だった。
「今日は撮影でさ、衣装がすごく可愛かったんだよ」
「現場で差し入れにアイス貰っちゃった」
俺は相槌を打つだけで、会話らしい会話はほとんどない。
それでも、凪は楽しそうに話し続けた。
凪は、外出から帰ると必ず笑顔を見せた。
疲れた素振りを決して見せず、当たり前のようにキッチンに立つ。
手際よく作った食事を、まるで儀式のように俺に食べさせてくる。スプーンを口元に差し出すたび、彼女はどこか満たされたように微笑んだ。
その笑顔を見るたびに、抗う気持ちは自然と消えていった。いや、そもそも抗う理由なんて最初からなかったのだ。
パワハラまみれの職場で、日々汗水垂らして働くよりも、この奇妙な監禁生活のほうが、よほど楽なのだから。
ここまで来るとまるで俺がただのヒモのクズ男みたいじゃないかと自嘲したくなるものだ。
夜になると、凪は当然のように同じ布団に潜り込んでくる。
背中に触れる柔らかな体温に、鎖の冷たい音が混じる。
それが不思議と心地よくて、拒む気持ちは一度も浮かばなかった。
けれど――ふと思う。
(……どうして、ここまで俺に執着するんだ?)
彼女の視線は、いつだってまっすぐ俺に向けられている。
外出先から帰れば真っ先に笑顔を見せ、食事を作り、当たり前のように隣に座る。
彼女の俺を見る視線には時折、少しの不安のような何かが混じっていた。
まるで、俺がこの部屋から消えてしまわないか確認するみたいに。
俺が凪と出会った10年前のあの日のことは、きっと彼女にとっても忘れられない記憶なのだろう。
だが――それだけじゃ、説明がつかない気がした。
十年近くもの間、彼女は俺を待ち続けていたというのか?
その間に出会った人間だっていただろうに。
「……なんで、なんだろうな」
小さく漏らした独り言は、暗闇に溶ける。
すぐ横で眠る凪は、静かな寝息を立てていた。
無防備な寝顔は幼さすら残していて――俺はそっと視線を逸らした。
この腕に抱き寄せれば、彼女はきっと目を覚まして、また笑うのだろう。
その光景を想像した瞬間、胸の奥が妙に熱を帯びた。
(……違う、俺は――)
考えかけた思考を、わざと眠気に沈めるように押し殺した。
鎖の金属音が、夜の静けさに溶けて響く。
❖❖❖
「今日で、1週間だね」
「……1週間?」
「うん。お兄さんが、ここに来てから」
朝。
テーブルに置かれた和朝食――焼き鮭、味噌汁、玉子焼き、炊きたてのご飯。
それを、凪がいつものようにスプーンで一口ずつ運んでくる。
まるで子どもに食事を与えるように。
俺はその口元に何も言わず口を開け、されるがままに受け入れていた。
……もう、そんなに経ったのか。
「……10年前は、1週間で終わっちゃったよね」
スプーンが、空中で止まる。
俺は咄嗟に顔を上げた。
凪は笑っていた。けれど、その目だけが、冷たく沈んでいた。
「困らせちゃったかな?ごめんね、お兄さん。別に責めている訳じゃないよ」
ふわりとした声。軽やかな調子。
けれど、そのどれもが、どこかぎこちない。
作り物のように感じられた。
俺は何も言えなかった。
そして、凪もまた――何か言おうと口を開いて、そのままゆっくりと口を閉じる。
目を伏せたまま、口元にほんの僅かな笑みを保っていた。
だが、その視線の先に何があるのか、俺には分からない。
そして俺もまた、凪が何を思っているのか分からず、どんな言葉を投げかければいいのか、見当もつかなかった。
謝るべきなのか。
感謝すべきなのか。
あの選択を悔やむべきなのか。
何一つ、確信できなかった。
沈黙がゆっくりと長く伸びていく。
けれど、どちらもその静けさを破る勇気を持たなかった。
やがて、凪がそっと立ち上がる。
そして、空になった茶碗を手に取りながら、柔らかく言った。
「おかわり、いる?」
俺は、小さく首を横に振った。
凪は微笑みを崩さないまま、何も言わずにキッチンへと歩いていく。
背中にかけた視線を、俺はしばらく外すことができなかった。
あの沈黙の奥にあったものが、言葉になって表に出る日は――まだ、少し遠い気がした。




