10.
――まぶしい。
瞼の裏に、やわらかな光が滲み込んでくる。
重たい頭を持ち上げるようにして、ゆっくりと目を開けた。
「……ここ、は……」
見知らぬ天井。
白い壁と、質素なカーテン。
寝ぼけた頭が一気に覚める。
どう考えても知らない部屋だ。
1度冷静になって辺りを見回すと、どうやらこの部屋はだいたい6畳分の広さ。それからパッと見、家具と言えるものがテレビとローテーブル、それから今自分が寝ていた布団くらいしかない。
立ち上がろうと腕を動かした瞬間――
ジャラン、と金属音が鳴った。
左腕に、ずしりとした違和感。
視線を向けると、手首には鉄の手錠。そしてそこから伸びる鎖が、部屋の隅の壁に打ち込まれた鉄の金具に繋がっていた。
「……は?」
呻くような声が漏れる。
現実を理解した途端、背筋がぞくりと冷えた。
その時、ガチャリと音を立てて扉が開く。
「あ、お兄さん、起きたんだ!」
ひょい、と顔を出した少女が、ぱっと笑顔を見せる。
「急に白目むいて倒れるから、凪、すっごく心配したんだよ」
その無邪気な声が、異様にこの空間に響いた。
――倒れる前に見た光景が、鮮明に蘇る。
目の前の少女は、間違いなくあの海辺で見た少女だった。
年の頃は10代後半ほど。
……100人が見れば100人が「美しい」と口にするであろう、誰もが息を呑むような容姿。
そして、間違いない。
「――白崎凪」
その名を口にすると、少女はぱぁっと笑顔を広げて頷いた。
「うん、そうだよ!よかったぁ、お兄さんが凪のこと忘れてなくて。……まぁ、そりゃそうだよね。忘れるわけないもんね」
その無邪気な声音が、耳の奥で妙に響く。背筋に冷たいものが走った。
「ねぇ、この10年間……何を考えて生きてたの?」
少女は小首を傾げ、笑顔のまま問いかけてくる。
「……凪のこと、嫌いになっちゃった?」
「……嫌いになんて、ならないよ」
絞り出した声に、少女は小さく笑った。
「……ふふっ。やっぱり、演技下手だね」
その笑みは、柔らかいのに、どこか底知れない。
「ご飯作ってあるから、持ってくるね。……テレビとか、適当に見てていいよ」
そう言い残して、ひらりと軽い足取りで部屋を出ていく。――『罪の象徴』たる彼女の背中を見送りながら、俺は息を小さく吐いた。
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「……さ。ご飯。ほぼ丸一日寝てたみたいだから一応おかゆ作ってたんだ。まだちょっと暑いから冷ましながら食べてね」
差し出された湯気の立つおかゆを受け取り、ひと口。
――美味い。
出所してから半年近く、まともな食事なんてほとんど口にしていなかったことに気づく。
思わず息を吐くと、目の前の凪がこちらを見て、にこりと笑った。
「あの頃とはずいぶん変わっちゃったね、お兄さん。……あ、みすぼらしいのは変わらないけど」
「……うるさいな」
苦笑混じりに返すと、凪はぱっと時計を見て言った。
「あ、テレビつけようよ。ちょうどお昼の1時だから」
言われるままリモコンを取ってスイッチを入れると、画面に映ったのは昼の情報番組。そしてそのゲスト席に――凪がいた。
「……は?」
画面の中の凪は鮮やかな衣装に身を包み、芸人たちと楽しそうに笑っている。
「凪さ、最近めっちゃブレイクして今じゃちょっとした有名人なんだよ。……あの時も子役してたんだけど、お兄さん知らなかったんでしょ? マジウケる」
目の前の凪がケラケラ笑い、テレビの中の凪もまた楽しそうに笑っている。
「……やっぱり、笑い方下手になったね」
ぽつりと漏らした俺の言葉に、凪は瞬きをして、小さく微笑んだ。
「……ふふっ。そうかな?」
――凪が子役だったと知ったのは、自首したあと。留置所でのことだった。
世間じゃ俺は、子役を狙った厄介なロリコン野郎だと報道されていたらしい。
笑える話だ。
テレビの中では、芸人たちが凪に軽い冗談を飛ばし、スタジオの笑い声が響いている。
明るいはずのその声が、俺の耳にはやけに遠く、現実感の薄い音として届いた。
「……すごいね。こんなに……有名になってたなんて」
ぽつりと漏らすと、凪は何故か俺のお粥を冷ましながら、どこか誇らしげに笑った。
「でしょ? 凪ね、あのあと頑張ったんだよ。……お兄さんに会えたら、絶対自慢してやろうって思ってたの」
「……自慢、ね。あと別に俺一人で食べれるのに」
苦笑する俺に、凪はスプーンを口に運び、首を傾げながら続けた。
「凪がしたいからこれでいいの。……でもね、テレビに出てるときは全部演技だから」
「……演技?」
「そう。笑うのも、泣くのも、可愛いふりも。……あの頃から、演技は得意だったんだよ?」
その言葉に、心臓が一瞬だけ強く跳ねる。
あの頃――俺の狭い部屋で見せていたあの笑顔も、あれも……。
「……じゃあ、あの時も……」
そう問いかけると、凪はわざとらしく人差し指を唇に当てて、いたずらっぽく笑った。
「――秘密」
胸の奥がずしりと重くなる。
けれど、凪の瞳は昔と同じ、どこまでも真っ直ぐで、俺を見つめて離さなかった。
「ねぇ、お兄さん」
「……何?」
「これから、また――二人で暮らそっか」
自然すぎるその声に、思考が一瞬止まる。
胸の奥がざわついて、喉がひどく乾いた。
「……無理だよ」
かろうじて声を絞り出した瞬間だった。
「――無理じゃないよ」
次の瞬間、視界が揺れた。
肩を強く押され、背中が布団に沈む。
息が詰まるほど近い距離。頭上には凪の顔。
「ずっと……ずぅっと、この時のために……凪は生きてきたんだから」
吐息が頬にかかるほど近い距離で囁かれる。
心臓が喉の奥までせり上がって、まともに呼吸できない。
「……凪ちゃん、やめ――」
手を伸ばそうにも、左手に繋がれた鎖がそれを許さない。
凪はそれを知っていて、さらに体重をかけてくる。
「やめないよ。……お兄さんは、凪から逃げられないもん」
凪の瞳が、真っ直ぐに俺を射抜いてくる。
その熱を前に、胸の奥が焼け付くように痛んだ。
――これが、俺の犯した罪の答えなのだろうか。
あのとき、本当は方法はいくらでもあった。
誰かに助けを求めることもできた。
虐待されている凪の親を通報することも、保護する方法を探すことも――いくらでも。
もちろんあの公開裁判で凪の身体の傷が俺のせいじゃないと主張することだってできたはずだ。
なのに俺は、そのすべてを捨てて、半端な優しさだけを与えて……そして凪を、また地獄へ返してしまった。
これは罰だ。
俺が見て見ぬふりをした報い。
十年前に置き去りにした罪の、当然の答えだ。
「……お兄さん」
凪が俺の頬に手を添える。
熱い指先が触れた瞬間、喉が詰まるように苦しくなる。
「凪ちゃん、俺は……」
その先が言えなかった。
けれど――身体は勝手に動いていた。
ジャラリ、と鎖が小さく鳴る。
左腕を伸ばし、その華奢な肩を抱き寄せる。
「……っ」
凪の体温き触れた瞬間、張り裂けそうなほど胸が痛んだ。
罪悪感も後悔も全部、渦を巻いて押し寄せる。
それでも、離せなかった。
しばらく、ふたりとも何も言わずにいた。
ただ、静かな部屋に互いの呼吸と心音だけが響く。
やがて――凪が小さく笑って、俺の胸に顔を埋めたまま言った。
「……お兄さん、汗くさい」
「……は?」
「お風呂、入ってきなよ」
拍子抜けしたように、息が漏れた。
張り詰めていた糸が、ふっと緩む感覚。
俺は小さく頷き、ようやく腕を解いた。
すると凪が立ち上がり、鎖の鍵を外して「ほら」と促す。
その言葉に視線を落とし、手首に残る赤い跡を見つめる。
そのまま口元を歪めて、半ば冗談めかしてつぶやいた。
「いいの?俺、逃げれちゃうけど」
凪はくすりと笑い、何の迷いもなく言った。
「大丈夫だよ。お兄さんは逃げないから」
――その言葉に、返す声はなかった。
浴室に向かいながら、心のどこかで自嘲のように笑う。
そして、凪の言う通り――俺は逃げなかった。




