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夜を待つ  作者: 斎藤海月
10年後┊ 冬木透
10/15

9.

 仕事を終えて、ふらつく足で現場を後にする。

 背中も腕も痛みで痺れているのに、それ以上に頭の奥が重かった。


 出所後に借り始めた古いアパートに帰ろうとして、夜の街を歩く。

 祭りのざわめきが遠くで聞こえて、ふと足が止まった。


 ――ドン。


 遅れて、腹に響くような音。

 空を見上げると、ビルの隙間から花火の光が一瞬だけ覗いては消えた。


 胸が詰まるような感覚。

 気づけば、足が勝手に動いていた。


 あの夜と同じ道を、探すように走り出す。

 途中絡まりそうになる足を動かして、荒い呼吸で肺を動かす。

 人通りのない細い路地を抜け、暗い林をかき分けて。


 潮の匂いが、風に混ざった。

 その瞬間、胸の奥がきゅっと締め付けられる。

 ――ここだ。


 林を抜けた先、視界がふっと開ける。

 月明かりに照らされた砂浜と、寄せては返す波の音。

 そして――


 そこに、彼女がいた。


 月明かりの下、波打ち際に立つ少女。

 裸足の足首まで海に浸かり、長い髪が風に揺れている。

 ――まるで、海から生まれた人魚姫のようだった。


 荒い呼吸が、自分の耳の奥でやけに大きく響く。

 波の音。

 遠くで鳴る花火の音。

 その三つだけが、この世界にある全てだった。


 気づけば、足が砂を踏みしめて、一歩――また一歩と前に進んでいた。


 そのまま泡になって消えてしまいそうな儚さを纏う彼女はは、ゆっくりとこちらを振り返る。

 月明かりが昔より背丈も伸びて、更に美しくなったその少女の横顔を照らし――たしかに目が合った。


「……っ」


 その瞬間、胸が強く跳ねて、凍りつくような感覚が背筋を走った。

 ――逃げなきゃ。


 頭の奥で警鐘が鳴る。


 踵を返した瞬間、砂に深く足を取られて身体がぐらりと傾く。


「……っ!」


 支えようとした腕も虚しく空を切り、そのまま前のめりに倒れ込む。視界が揺れて、砂と潮の匂いが一気に近づいた。


 ふいに、頬に冷たい指先が触れる。

 驚いて顔を上げると、そこにはもう――目の前に、少女がいた。


 月明かりに照らされた彼女は、静かに微笑んでいた。

 その笑顔は、どこか懐かしいようで、痛いほど優しくて――息を呑む。


「……凪ちゃん……?」


 掠れた声が、自分でも驚くほど自然に漏れた。

 次の瞬間、全身の力が抜けていく。

 波の音と遠い花火の音に包まれながら、視界が暗く沈んでいった。

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