9.
仕事を終えて、ふらつく足で現場を後にする。
背中も腕も痛みで痺れているのに、それ以上に頭の奥が重かった。
出所後に借り始めた古いアパートに帰ろうとして、夜の街を歩く。
祭りのざわめきが遠くで聞こえて、ふと足が止まった。
――ドン。
遅れて、腹に響くような音。
空を見上げると、ビルの隙間から花火の光が一瞬だけ覗いては消えた。
胸が詰まるような感覚。
気づけば、足が勝手に動いていた。
あの夜と同じ道を、探すように走り出す。
途中絡まりそうになる足を動かして、荒い呼吸で肺を動かす。
人通りのない細い路地を抜け、暗い林をかき分けて。
潮の匂いが、風に混ざった。
その瞬間、胸の奥がきゅっと締め付けられる。
――ここだ。
林を抜けた先、視界がふっと開ける。
月明かりに照らされた砂浜と、寄せては返す波の音。
そして――
そこに、彼女がいた。
月明かりの下、波打ち際に立つ少女。
裸足の足首まで海に浸かり、長い髪が風に揺れている。
――まるで、海から生まれた人魚姫のようだった。
荒い呼吸が、自分の耳の奥でやけに大きく響く。
波の音。
遠くで鳴る花火の音。
その三つだけが、この世界にある全てだった。
気づけば、足が砂を踏みしめて、一歩――また一歩と前に進んでいた。
そのまま泡になって消えてしまいそうな儚さを纏う彼女はは、ゆっくりとこちらを振り返る。
月明かりが昔より背丈も伸びて、更に美しくなったその少女の横顔を照らし――たしかに目が合った。
「……っ」
その瞬間、胸が強く跳ねて、凍りつくような感覚が背筋を走った。
――逃げなきゃ。
頭の奥で警鐘が鳴る。
踵を返した瞬間、砂に深く足を取られて身体がぐらりと傾く。
「……っ!」
支えようとした腕も虚しく空を切り、そのまま前のめりに倒れ込む。視界が揺れて、砂と潮の匂いが一気に近づいた。
ふいに、頬に冷たい指先が触れる。
驚いて顔を上げると、そこにはもう――目の前に、少女がいた。
月明かりに照らされた彼女は、静かに微笑んでいた。
その笑顔は、どこか懐かしいようで、痛いほど優しくて――息を呑む。
「……凪ちゃん……?」
掠れた声が、自分でも驚くほど自然に漏れた。
次の瞬間、全身の力が抜けていく。
波の音と遠い花火の音に包まれながら、視界が暗く沈んでいった。




