第8話「記録の仮面、特記官カルセ」
庁舎最深部“血の記録室”から戻った夜、ノイルは一人、庁舎の裏路地に立っていた。
蝙蝠通りから続く薄暗い搬入口。その隙間から冷えた夜気が流れ込んでくる。
彼女は震えていた。寒さではない。怒りでもない。名を奪われ、歴史から消されようとしている事実が、胸の奥で静かに燃えていた。
ノイルは誓った。カルセ・ロヴァン。その男の仮面を、剥がすと。
◆
カルセは、記録局二階の中央記録室に常駐していた。
官服は乱れなく、表情は穏やか。下吏や記録官に対しては常に礼儀正しく、時に冗談すら交える人物として知られていた。
だが、ノイルは知っている。
その微笑の裏で、どれだけの人間が“歴史から外された”かを。
ノイルは、あくまで無名の補助記録員として、距離を保ちつつ接触の機会を窺っていた。
そして数日後――それは訪れた。
◆
「これ、上層からの転送文書です」
ノイルは静かに書類を差し出した。
カルセは笑顔で受け取る。だが、その瞬間。
針が、走った。
人の目には見えぬ極細の血糸針が、カルセの指に一瞬だけ触れた。
痛みも感触もなく、ただ一滴分にも満たぬ血が、ノイルへと吸い取られていく。
その情報が、波のように彼女の内に流れ込んだ。
――仮面の裏。
命令。
抹消名簿。
“上”の存在。
「……ふむ。丁寧だね。君は、どこで記録術を学んだのかね?」
カルセがふと、そんな問いを投げかける。
ノイルの中で、警鐘が鳴った。
(感づかれた? いや、血の採取に気づいたのか、それとも記憶を読んだ気配か……それとも、単なる会話の糸口?)
「旅の一座で少し。書を扱う商人の手伝いでした」
ノイルは咄嗟に嘘を返す。カルセはそれを肯定も否定もせず、ただ笑って書類に目を通した。
「君のような人材がいると助かるよ。庁舎は……いつも人手不足だからね」
◆
ノイルは、その夜ひとり静かに記録を整理していた。
カルセの血から得た情報は少ない。
だが、そこにはわずかに“消された記録”の痕跡が含まれていた。通常であれば完全に削除されるはずの情報の“縁”、つまり削られた跡そのものを読む技術――ノイルはそれに気づいた。
(記録を“戻す”ことが、できるかもしれない……)
彼女はその可能性に、ひとつの名を与える。
――〈逆記〉。
だが、これは未完成な力だ。得られる情報は不完全で、対象の記憶も断片的にしか戻らない。それでも、歴史から消された誰かの痕跡を掘り起こせるとしたら……。
それは、希望となる。
だが、それでもわかったことがあった。
“カルセは自分の意志だけで動いてはいない”
命令は、さらに上から来ていた。
そして次の“抹消予定者”――記録上で別の名が動かされようとしている。
(これは……証拠になるかもしれない)
ノイルの視線は、庁舎最上階、特記局の封鎖された階層を見上げていた。
そこには、王都中の記録を直接操作する、数名の“記録管理特使”たちがいる。
カルセは、その末端に過ぎなかった。
「次は……その階へ」
ノイルは、静かに、また一歩を踏み出した。
――第9話へ続く。